汚染された世界
体育館の裏でたむろする少年たち。ひしゃげた空き缶、使用済みのコンドーム、朽ちかけた吸殻が散乱している。ローファーで煙草を揉み消すと日焼けした金髪頭が顎を持ち上げて言った。
「見ろよ、カネちゃん。あいつ校舎のまわり、走ってるみたいだぜ。毎日」
「ふははっ……ムカつくな。今頃になってどういうつもりだよ。運動神経ゼロのウンチ野郎が何のアピールだよ?」
金子、伊藤、高橋。五年前には新都心少年サッカーチームに所属していたフォワードの三人組だった。だがリーダーが誰だったかは覚えていない。
そいつは左サイドバックにいた。
何処のポジションにも必死にフォローに走っていった。いつだって誰かの近くまで走っては笑いながら声を掛けた。
そいつはキャプテンでも監督でもなかったがリーダーだった。誰より走り、誰より楽しそうに笑った。あいつの指示が最優先だったのは誰かが決めたからじゃなかった。
教銘高校の空はすっかり黄金色に変わっていたが、同じような金髪を手でかき上げると伊藤は吐き捨てるように言った。
「あいつ……楽しそうに走ってやがる。なんかさ、ぶっ飛ばしたくならね?」
「いいね」高橋は胸が圧迫されて、こめかみが疼くのを感じた。イライラする衝動が何処から湧いてくるのか分からなかった。
「……ボコボコにしてやろーぜ」
※
『達者でな、野口鷹志』
あの日……教壇に座り込んだ古びたライダースジャケットの二人。別れを告げた二人を僕はぎゅっと抱き締めた。
しわくちゃな笑みを浮かべた老人たちは少し気味が悪かった。ひとりは白髪に髭面で、もう一人は髭だけでつるつるの頭だった。
どちらが
デカい老人たちは少ない情報しか残さず僕の前から去っていった。厚い胸板に高い身長、何処かで見かければ必ず分かると思った。
『予兆があったら、とにかく逃げろ。もう
「
『ぶっ!!』田中さんの肘が教壇からずり落ちた。ボケたつもりじゃなかったけど、のりがいい老人だと思うと親しみが湧いた。
『まあええわい。例の止まった時空間のことじゃ。最悪の場合にはこの高校の生徒にも仲間がおるから……』
『アッシュ、巻き込まない約束じゃろう。余計なことは言わんでええ』
「お、教えてください。あいつらは一体何者であなた方は」
丸くて髭面の老人は左手を振って僕を制した。疲れた顔は年のせいだけではなさそうだと思った。
『しばらくは、学校と自宅以外には出歩かぬこと。あとは、とにかく体力じゃな。毎日少しずつでも走り込みをしときゃあ、何とかなるじゃろう。やり合おうなんて気を起こすんじゃないぞい』
「あ、あのっ」
『もう勘弁してくれ、儂らは連中を追わなきゃならんし老い先は短いんじゃ。尋問されるのはトラウマじゃから寿命が縮むわいっ』
「じ、尋問って。長生きしてくださいよ、命の恩人なんですから」
『質問はなし。それでええな』
「わ、分かりました」
一瞬、目が眩んだかと思うと目の前の割れた窓や、砕けた机や椅子がもとの位置に戻っていた。あの空間を『時間旋』と呼ぶらしい。
いつもの見慣れた教室には、なんの痕跡も残ってはいなかった。ただ三階の窓から遠く、視界に光が
一瞬だけ、淡く青みがかった光。海の反射か蜃気楼だろうか。あれからテスト期間中に何度も空をみたが、浮かぶのはカラスだけだった。
そうだ、危険は去ったのだ。この学校と自宅にさえいれば危険なんてあるはずがない。田中さんたちのいう敵対者の視線はここには届かない。
誰も居なくなった教室で僕はジャージに着替えていた。あの日から校舎の回りを何度も何度も、欠かさず走るようにしているのだ。
初日は二周が限界だった。でもたった一週間で、二十周も走れるようになったのだ。誰も知らないし、誉めてはくれないけど僕だけはこの達成感と充実感に満たされていた。
嬉しかった。そりゃあそうだ、六年ものあいだ、体力や視力の測定値に変化がないことはずっと知っていた。不思議に思っていた。
どんなに努力しても小学校でやった体力測定とピッタリ変わらない記録しか出なかったのだ。それでも僕が怖いと思うのはそんなことじゃなかった。
一番恐ろしいと思うのは、僕自身のことでも失踪した母さんのことでもない。教師が二人、姿を消しても何も変わらない社会、それこそが一番の問題だった。
これがどういうことか、僕は考えるだけで身も凍る思いだった。誰もが、生徒も先生も、父さんでさえ、意識を操られているという事実。
どれだけ説明しても信じてはもらえないだろう。鏡にうつる自分を見れば少なくとも今の僕には無理だと感じる。
あの教師、松本と仙田律子が学校にいる間は誰も僕に近寄ろうとはしなかった。話そうともしなかった。
下駄箱から靴が捨てられたり、名簿から名前が消えていたことがあっても、誰も僕に興味を示さなかった。それらは虐めではなく単なる偶然か事故でしかなかった。
つまり僕は、校内では虐められることすらなかったのだ。校舎を離れれば人と接することは出来たが、それも不完全だった。
何度か小学校の幼馴染みに接触しても、一方的に殴られるだけで、それ以上のコミュニケーションはどうやっても取れなかった。
洗脳。いや、学園や街の全てが何かに汚染されていたのかもしれない。疑問は尽きない。
(また、やっちゃった)
左右の靴下が柄違いだった。靴紐もうまく結べていないし、髪の毛だってうまくまとまらない。しょっちゅう拭いてる眼鏡にはいつの間にか指紋がベタベタと付いている。
(はぁ~、今の僕はまだまだ努力が足らないんだ。信用できる人間には見えないもんな。せめて今日は出来る限りまで走ろう)
出来ることは変わらない。今もずっと前からも、ただ前に走るだけだ。勉強して体を鍛えて、いつか母さんを見つける。
僕は走った。四日目を走るうちに視力が回復してきたことに気づいた。眼鏡が要らなくなったのは、すごく助かる。
食欲も増していた。夕方には腹が空いて空いて堪らなかった。お弁当にご飯をぎゅうぎゅうに入れても足りなかった。
「……!!」
校門で突然、バランスを崩した僕は地面に手を突いた。同じクラス、小学校時代からの知り合いの一人、金子が足を掛けたのだ。
「よう野グソ」金髪をかき上げる仕草。「瓶底眼鏡が無いから見えないのか?」
じんわりと左頬に涙が流れた。怖かったからだろうか。辛かったからだろうか。自分の感情より先に涙がつたって落ちた。
「大丈夫……ちゃんと見えてるよ、カネちゃん。ハッシー、イトりん!」
僕は立ち上がって直ぐに三人組を見た。溢れた涙がポタポタと落ちた。校内で話しかけられたのは初めてだったからだ。
「野グソくーん」横に腕をくんでいる伊藤が立ちふさがる。「不注意だったね。スッ転ぶなんてさ、ぷぷっ、だっせー。アハハハハ」
「し、心配ないよ。実は避けようと思えば避けれたんだけど、嬉しくて……ぐすっ」
僕は小さく溜息をついた。嬉しかったのは本当のことだから、避けなかったんだ。避けたくなかったんだ。
「……野口」金子は眉をきつく寄せて怒りの視線を向けた。辺りには誰もいない。
「死ね、今すぐ殺してやる」と言うつもりの口元からは本人にも予想外の言葉が出ていた。
「お前、左サイドバックの野口だよな?」
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