改造手術 リブート
石田宏暁
第一章
空き容量80%
冷たく刺すような風を受けタナーとアッシュはバイクを走らせていた。老体には春先の寒さが身にしみる。
教銘高校では学期末テストが始まろうとしていた。スレンダーな女教師は教壇に立ち右手首の腕時計に目を落とした。
野口鷹志が合図とともにシートをめくると、鉛筆の音だけが一斉に鳴り出した。今日に限って頭は回転せず鉛筆回しすら出来なかった。
報われない努力なんていない。失踪した母さんの言葉を信じて頑張り続けた。いつかまともに勉強も運動も出来る人間になれば母さんは戻ってくると信じて。
実のところ先日行われた体力測定は史上最低のレベルだった。園児に押されただけで尻餅をつくほどひ弱な僕。努力だけはしてきたのに。せめてテストのほうで何とか挽回しなくては。
静寂。この異変に気が付くまで二十分以上かかった。ペンが進まないんじゃなく――動けないのだという異変に。
どうやっても体は動かせなかった。金縛りと違うと思ったのは周りの人間も静止しているからだ。完全に無音になった教室。異変に騒ぎたてる人間は誰もいない。
固まったまま目線の中に入っている時計に集中する。眼球も動かせなかったが間違いない。
『時計の針は止まったまま動いていない』
夢の中と思いたかった。でも……とても信じられないが、やはり時間は止まっていた。こんな最悪の状況になっても自分を納得させることが出来ない。
「……」
きっと何かの報いで、時間が止まってしまったと思った。何の報いか知らないが、問題は永遠に体も時間も硬直したまま、何時間も何日も何年も、何十年も何百年も意識だけは残るのだろうか……という恐怖だった。
もしそうなった場合、僕は生きていると言えるのだろうか。底知れぬ不安の中で思い描いたのは仏教の『地獄絵』だった。
鉄の棍棒を持った鬼達が人を拷問したり、食べたりしている絵だった。絵の中で試験を受けさせられているのは僕自身だ。
その周りには餓鬼達が踊り狂っているイメージが浮かんだ。地獄にも色々あるとは聞いていたがまさか教室だとは思わなかった。
釜茹でや針山とは時代も随分と変わったものだ。現代風の地獄は数学の試験を永遠に受けさせられる地獄という設定なのか。
怖い、怖すぎる。もう何時間もたったような気がする。二時間か三時間。あるいは五時間たったかもしれない。もう時間の感覚がなくなっていた。深い、暗闇に沈んでいく感覚。
どこで間違えたのか。僕の時間は何時から止まってしまったんだろうか。運動神経が止まってから何年の月日がたったのだろう。
毎日筋トレとランニング、格闘家やアスリートのトレーニングメニューを血のにじむような努力でこなしてきた。もちろん食事にも気をつけながら。
運動神経ゼロの腑抜け野郎という宿命に抗い続け、どれだけの絶望と孤独を乗り越えてきたろうか。だが努力は一向に報われなかった。このまま何の成果もないまま、僕は死ぬのだろうか。
母さんの話を思い出した。生命は死んでも微生物によって分解されて新しい命を生み出すという。自然のサイクルの中で人間は生きているそうだ。
だとしたら僕はそのサイクルから放り出されてしまったのだろうか。そのサイクルを管理しているのは一体誰なのか。
静寂の彼方に、かすかな音がする事に気が付く。確かに誰かがいる。
ドスン……ズルッ……ズルルッ
何かを引きずってこちらに向かってくる音。悪い予感がして恐怖が広がる。これは死の恐怖だ。
ズズズ――……
だんだんと音が大きくなる。
ドス……ズズッ……ズルズルズル……
何かが近づいてくる、僕のほうに。
ドスン……ズルッ……ズルルッ
誰も動けないはずの空間で近づく気味の悪い物音。僕は視界ギリギリに見える教室の入り口に意識を集中した。本能的に見つかると不味いという不安を感じていた。
ズ、ズズズ――……
ガラガラッと音をたてドアが開く。
『遅かったわね』
「……!!」
話したのは教室の前にいた教師だった。驚いた事にすぐ目の前にいた律子先生が口を開いた――そして教室に入ってきたのは体育の松本先生だった。
違和感を理解することすら難しかった。二人は普段と全く別人だった。律子先生は真っ青な吸血鬼のような顔色をして話し方は疲れた悪魔のようだ。
松本は――もともと体格のいい男だったが目の前にいる彼はニメートル近くある。明らかに身長は伸びており全体的にも膨らんでいて水風船みたいだった。
目と歯が大きく剥き出して口はだらしなく開いている。胸まで青っぽい唾液が染みていて同じように吸血鬼みたいな顔をしていた。
『遅かったか?』松本が言った。『まぁアンタにしたら待ち疲れたかもな。止まってるんだから長い時間とは思わないがね』
『なにを寝ぼけたことを』腕組みして律子先生が言う。『準備までしてくるなんて聞いてないわよ。確認するだけじゃなかったの?』
『おいおい、変異細菌が80%入るんだぞ。シグナル伝達率は恐ろしい事になる。こんな生徒は二度と現れない』自慢げに松本は僕の頭を撫でた。『くくっ、神経細菌だけでも最高クラスだな』
『適合するか怪しい数値よ。最強の兵士に改造できるか、まあ失敗しても死ぬだけよね』
律子先生は首を振った。呆れたような手振りで松本は机にもたれかかりながら言う。
『やってみなきゃ分からないさ』
こんな馬鹿げたことがあるのだろうか。僕は何かに改造されようとしている。尽きようがないほど疑問だらけだが。
本能的に僕は理解していた。二人が人類とは全く別の生き物だということを。哺乳類とか爬虫類とか、そんなモノとは全く違う生き物だと。
『悪いが改造は胴体からやる。タプタプで動き辛いったらない』
『アンタは普段から食い過ぎなのよ』
『喰おうが飢えようがオレの自由だ』
松本の指先と口から無数の管のような触手のような物がのびた。芋虫のようなプクプクとふくれた指の先端が割れたかと思うと、その中から管がのび僕の体に潜り込んでいく。
植物が根をはるように体の中に管が泳いでいく。座ったままの僕の背後から包み込むようにして松本は立っている。
口から奇妙な管が無数に吐き出され、僕の頭部を覆い尽くしていた。顔にミミズの大群が貼り付く感覚。体内に何かを移そうというのだ。
『ゴク……うまそうだ。一口で構わないから食いたいぜ』
『駄目よ。どうせ大量絶滅の時には入れ食いでしょ。今は食うんじゃないわよ』
背筋が冷たくなり、あまりの恐怖で吐き気をもよおした。律子先生は意味ありげに僕の顔を覗いた。僕は一体何に改造されようとしているのか。
そして何も見えなくなった。感覚も痛みもない。ただ僕は消えていった。僕という存在がゆっくりと消えていくのが分かった。
「…………」
「……」
意識を失う寸前、朦朧とした意識の中で聞き覚えのない声を聞いた。年寄りの男性が二人で言い争いをしているような声。そして耳をつんざくような銃声。
タナーとアッシュ。二人のアメリカンヒーローが僕を助けに来てくれたに違いない。
身体中に緑色の粘膜がついていて気持ち悪かった。なんと、助けてくれたのはライダースジャケットを着た白髪の老人たちだった。しかも額と腕に血が流れておりジャケットは所々破れてみすぼらしかった。
「君は玲奈さんの息子さんじゃな」
「は、はい」
「間に合ったようじゃの」
もう一人の剥げた年寄りは膝を守るように教室に戻ってきた。僕が気を失っている間に壮絶な戦いがあったことが想像できた。
「くそっ、逃がしちまったぞい。焼きがまわったのぉ、儂らも」
「あ、あなた方は?」
二人は縺れ合うように教壇に座り込んだ。ため息をついてタナーと呼ばれたほうの老人が口を開いた。
「儂らは、お前さんと同じように改造されずにすんだ人間じゃよ。本名は田中と芦田じゃ」
「だからタナーとアッシュなんですか?」
「……まあの。聞いとったんかい」
あの連中は人類を効率的に支配しようと企んでいる知恵のある菌類だそうだ。近々人類の大量絶滅を計画しており、その実行部隊を造っているらしい。
わざわざ手をくだすことなく人間どおしで殺しあうように。僕は何が何だか分からなくて、ただ怯えていた。あやうく自我のない怪人に改造されるところだったそうだ。
「とにかく助けてくれて有り難うございました。どうしてかは分からないけど」
「お袋さんに聞けばええ。しっかし、空き容量が80%もあるっちゅうのは凄い努力じゃの」
「……どういうことですか?」
「成果がまったくゼロでもスペックを上げ続けると、容量自体が増える。お前さんの中身は空っぽじゃが
タナーの脇でアッシュは喉を撫でた。しわしわの首には黒い血がこびりついていた。
「諦めが悪い性格なのか、本当にバカなんか。あるいは努力をせずにはいられなかったんじゃろう。たまに、そうゆう真っ直ぐな子がいるから辞められん」
「や、やっぱり、僕の努力って無駄じゃなかったんですか?」
「……まあ、こっちの話じゃ」
しばらくして二人の老人は姿を消し、僕は数学のテストを続けることになった。意味も分からぬまま回答用紙を埋めていった。
「大人しく元の生活をしておれ。いつかまた会いにくるかは誰にも分からん」
あれから僕の運動神経は良くなっていった。最近はよく世界記録がでるし、ジャンプすれば三階まで飛べた。
教師たちが消えても、誰も疑問にも思っていなかった。老人たちが何者で誰と戦っていたのかは永遠のミステリーだ。
でも失踪した母さんは生きている。そして僕はこれからも自分を鍛え続ける。誰かを守るためには、立ち止まってる暇なんてない。僕の時間は動き始めたばかりなんだから。
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