第6話 -二条千草-

 鼻の奥をつんざくような鉄分もとい血の匂いで目が覚めた。次に、混濁する意識の中で、血の匂いと同時にカレーの匂いも感じ取って、神経が混乱した。キーンと耳鳴りがする。


 目元を擦りながらゆっくりと身体を起こして、あたりを見回す。知らない場所だった。木造の、ほとんど廃墟のようなボロボロの家の中だった。カーテンを閉め切ってあるのかもう夜なのか、家の中は真っ暗闇だった。かろうじて自分がソファの上で眠っていたことが確認できた。


 徐々に耳鳴りが小さくなってくると、今度は女の子のはしゃいだような声が聞こえてきた。上機嫌に鼻歌を歌いながら、時折誰かと話して笑ったりしている。楽しそうな声が聞こえてきた。


 気になってそちらに目を向けると、そこには地獄があった。


 思わず目を背けたくなる光景、なんて生易しいものではなかった。


 それこそまさに地獄だった。この現世こそが地獄だったのだと納得するのに十分すぎるほどに、それは地獄だった。


 人間の血液と肉片と骨と爪と歯と目玉と脳みそと神経がそこら中に飛び散っていた。


 女の子が、人間の人差し指をそのまま骨ごと噛み砕いていた。


 人間の太ももと肝臓が二つ並んで、鉄製の網の上で焼かれていた。


 私はそこで気絶してしまった。いや、気絶せずにもっとその光景の細部を観察していたかもしれないが、いずれにせよ私の記憶はそこで途切れてしまった。それ以上この光景を記憶として残すのを、脳が拒否していた。


 トラウマ、という一言で片づけてしまうにはあまりにも言葉が不足していた。『まるで地獄のようだ』なんて安っぽい言葉では到底描写しきれないような、あまりにも酷い記憶だった。


 気が付いたときには、私は穏やかな風が吹く平原に仰向けで寝そべっていた。雲一つない青い空の下に、なだらかな緑がどこまでも続いている。まるで名画の中に入ってきたかのような、とても綺麗な平原だった。さっきまでの地獄の光景との落差がひどくて、脳みその奥がぎゅっと締め上げられるように痛んだ。


 私は風に頬を撫でられながら上体を起こした。私の服装は水族館デートに行ったときと同じもので、胸の下あたりに、斜めに横切るような血痕がついていた。


 柔らかい芝生を踏んで立ち上がって、ここがどこなのかもわからないのでとりあえず地平線を目指して歩き始めた。


 しばらく歩いたところで、猫背の中原くんが空を見上げてぼーっと立っているのを見つけた。その瞬間に私の口角は一気に緩んで、足は反射的に走り出す。まるで年相応の少女のように手を振って大きな声で「おーい!」と呼び掛けながら走っていくと、やがて中原くんはこちらに気づいて、ふっと微笑んだ。


「やっと目が覚めたんだ」


「中原くんは、ここがどこだが知っているの?」


「わからない。わからないけど、そんなことはもうどうでもいいじゃないか。ここがどこなのかなんて、そんな些細なことは、もうどうでもいい」


「些細なことじゃ、ないと思うけど」


「些細なことなんだよ。僕と二条さんがこうして同じ場所で同じ空気を吸っていられるという奇跡に比べたら、そんなことは本当に些細なことなんだ」


「……どういうこと?」


 中原くんは微笑を浮かべて遠くを見つめるばかりで、その表情も声のトーンも全く変わらない。中原くんは私と会えて嬉しくないのだろうか。恋人同士なのに。


「やっぱり人間、欲を出すことが一番の罪だと僕は思うんだ。現状にある幸福に感謝せずに、より良い未来の幸福に焦点を合わせること。こんな罪悪は他にない。僕らはいつだって、今の自分のそばにある幸福に感謝すべきなんだ」


「人殺しのほうが罪深いんじゃないかな」


「人殺しなんてのは、法律で禁止されているというだけで、本質的に言えばそこまで罪が重いわけではないと思うんだよ。人殺しを解禁してしまったら国家が崩壊してしまうから、国家が秩序を守るために人殺しを法律で禁止しているだけ。倫理的な問題は後からとってつけたようなものなんだよ。確かに死を望んでいない人の命を勝手に奪い取るのは、罰せられるべき罪悪だよ。だけど、死を望んでいる人と、誰かを殺したいという欲求を持っている人が出会って、そこで殺しを行うことは、僕は特に問題のないことだと思う。だけど法律の下では、そういう状況の殺人であっても罰せられることになるよね。そういう状況の殺人を許してしまったら、いずれ国家が不利益を被ることになるからだ。真に道徳性を追求するのなら、死にたがっている人間を楽に死なせてあげること、そして、殺人欲求を他人に害を与えることなく正しく消化することくらいは、許容してもいいと思うんだけどね」


 ……中原君って、こんなに喋る人だったっけ。


「ね、ねぇ、中原くんはここで何をしているの?」


「二条さんを待っていたんだ」


「……わたしはもう、ここにいるけど」


「うん、そうだね。だからもう、僕の役目は終わった」


 言うと、中原くんは私に背を向けて歩き出した。なんとなく私も、中原くんの後を追うように歩き出す。


「二条さん、これからどんなことがあっても、僕のことを忘れないでほしい」


「言われなくても、忘れないよ」


「二条さんと僕は、必ずまた会えるよ。普通の形での再会ではないかもしれないけれど、それでも、僕と二条さんはまた、会うことができる」


「……さっきから中原くんが何を言っているのか全然わかんない」


 すると中原くんの姿が消えた。ぱっと点滅するようにそこから跡形もなく消え去った。あまりに突然の出来事で理解が追い付かなかった。私はどこまでも続く平原に取り残されてしまった。


 私はどうしようもなく、また、目が覚めた時のように平原に横たわった。何をすればいいのかわからないので眠ることにした。仰向けになってしばらく雲一つない鮮やかな青空を眺めてから、目を閉じる。


 いつまでそうして目を閉じていたのか。気づかぬうちに頬を撫でる風がなくなっていて、代わりに何者かに頬をつつかれた。


 目を開けると、視界の端に葉月の心配そうな顔が映った。



 

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イイ女の作り方 ニシマ アキト @hinadori11

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