第3話 She looks lonely.

 私はセックスが大好きだ。他のどの行為にも劣らず、私はセックスが一番好きだ。雰囲気がどうとか流れがどうとか上手い下手がどうとか、そんなことには一切こだわりがない。ただ、セックスという行為が純粋に大好きなのだ。


 その理由はただ単純に、セックスをすると他人と繋がっているのがはっきりと目に見えるから。


 私はセックスをしているとき、ものすごく安心する。人と直接繋がることによって、この世界で私は独りではないのだということを肌で直に実感することができるから、ものすごく安心する。


 セックスの気持ちよさとはすなわち、この安心感にあるのだと思う。


 この世に生を受けた瞬間から常につきまとう、自分はこのだだっ広い世界で永遠に独りぼっちなのかもしれないという不安から一時だけでも逃れることができるから、こんなにも気持ちいいんだ。その恒久的な不安から解放されるから、こんなにも満ち足りた気分になるんだ。


 だから私はセックスしているときにものすごく穏やかで安らかな気持ちになる。実際には小汚い年上の男に抱かれているけれど、私は女神の腕の中に優しく包まれているような錯覚さえ覚える。


 セックスをするのは楽しい。気持ちいい。愉快だ。悦楽の極みだ。私はこの行為が好きで好きでたまらない。好きで好きで仕様がない。


 はっきりと物理的に人と繋がるのがこんなにも気持ちいいことだなんて、処女だったころは想像もつかなかった。


 ずっと人と繋がっていられることができれば、それはどれだけ素敵なことなのだろう。


 できることなら、ずっとこうして、男女の垣根を超えて自分が繋がりたい人と繋がっていたい。実際に肌と肌で繋がり合って、安心していたい。


 なぜ異性としか繋がることができないのだろう。


 なぜこんなにも楽しくて愉快で気持ちいいことが、異性同士でしかできないのだろう。


 同性の人同士では、どうしても繋がり合うことができないのだろうか。


「お前、なんでいっつも笑ってんの?」

「え、笑ってないけど」

「今じゃねえよ。してるとき」

「ああ。あれは、楽しいから」

「は?」

「楽しいから、するのが」


 西園寺はまたため息をつく。タバコ臭いから息を吐くときは反対側を向くぐらいの気遣いはできないのかな。


「あのな、別に演技してても良いから、あんな目を見開いて楽しそうに笑うのはやめてくれねえかな。不気味なんだわ。なんとなく萎えるし」


 未成年淫行を犯している分際でよくもそんな上からな要求ができるな、なんて言葉は喉の奥に引っ込める。そんなことを言ったらほぼ確実に殴られる。


「でも私、演技下手だよ」

「下手でも笑ってるよりはいい」


 言ってから、西園寺は寝返りを打って私に背を向ける。西園寺はまたいつものように、がさごそと床に転がっている鞄か何かを漁って、財布を取り出す。私はその間にベッドから降りて、下着を身に着ける。


 西園寺の家に来るのは、今週だけでもう三度目だ。


 最近、徐々に徐々に私を呼び出す頻度が上がっている。西園寺は、徐々にそれとなく頻度を上げれば私がそのことに気付かないだろうと思っているのかもしれないが、さすがの中学生もそこまで馬鹿じゃない。舐めるな。


「ほいこれ、今日の分」


 差し出された五千円札に印刷された樋口一葉のその澄ました顔を見ると、表情筋が歪んだ。


 お前はその二次元の世界から、自分には全く関係のない三次元の世界を眺めているだけでいいんだもんな。そりゃあそんな表情も作れるよな。


「……あのさ、なんか最近、頻度多くない?」

「なにが」

「呼び出す頻度」

「……別に、変わってないだろ」

「変わってるよ。最近明らかに多くなってる」

「別にいいだろ。悪いか?」

「…………」


 西園寺の言葉尻の音量が、妙に大きくなった。つまり、言葉尻に苛立ちこもっていた。


 論破されたわけでもなく、あるいはなにか圧倒的な根拠を提示されたわけでもないのに、私はそれだけで何も言えなくなってしまう。ただ語気を荒くされただけのことで、私にはもう打つ手がなくなってしまう。


 口の中が苦い。


「ほら、子供は暗くなる前に早く帰れ」

「……うん」


 私は西園寺に背を向けてから着替えを済ませて、五千円札を財布にしまってから、いつもどおりビニール袋で敷き詰まった廊下を経由して、ぎぃっと音を立てながら玄関の扉を開く。すると途端に頬の熱が寒風によって奪い去られていった。


 まあ、呼び出す頻度ぐらい、多くても少なくてもどっちでもいいか。どうせ、西園寺と会うことよりも優先すべき事柄なんて、私にはないのだから。


 一度大きく白いため息を吐いてから、今にも崩れ落ちそうな階段を降りて、駅への道を、いつもより早足で歩いた。


 この際だからはっきり言うのだけれど、あの西園寺信也という男には魅力というものが一切備わっていない。人を惹きつけられるほどの力が、あの男には全くないのだ。


 なぜかお金は持っているけれど無職だし、行動も言動も口調も所作も何から何まで乱暴で品がないし、煙草と酒が大好きだし、容姿も中の下で、自信を持って女友達に紹介することはできないぐらいレベル。まあ、私の場合は、あんな年上の男を友達に紹介なんて絶対にしないけれど。


 西園寺にはたぶん、私の他にガールフレンド的存在はいないのだろうと思う。そういう様子が見られないし、なにより、あの男に必要以上に近づくような偏食家の女が、私以外にいるとも思えない。


 西園寺には一切魅力がないことをわかっていながら、私は西園寺と何度も今日のように会っている。では私は偏食家なのか。そうなのかもしれない。


 いや、厳密に言うと私は、雑食家、といった方が正しいのかもしれない。


 私は、男だったら誰でもいいのだ。魅力があるとかないとか、そんなことは私にとっては至極どうでもいい。ただ、その人が私の相手をしてくれるかどうか。問題はそこだけだ。


 西園寺が無職であっても、清潔感がなくて酒や煙草が大好きでも、女性に対して暴力を行使するような人間であっても、私にとってそんなことは問題ではない。そんなの本人の好き自由にさせていればいい。


 ただ私を求めてくれれば、ただ私に向き合ってくれれば、それでいい。


 西園寺とこの先ずっと一緒にいたいとは思わないけれど、それでも今、こうして私のことを求めてくれて、私の相手をしてくれるのなら、私にとってそれ以上のことはない。別に私のことを異性として見てくれなくてもいい。私も西園寺のことを異性として見ているかといえば、怪しいところだ。


 きっとこの気持ちは恋ではないのだろうと思う。


 まだたった十四年間しか生きていないから、恋というものが一体どんな代物なのかは知らない。だけどきっと恋は、今の私が抱いているような、ひどく自分勝手な欲望塗れの気持ちではないだろう。


 恋がどんなものなのか、知的好奇心は刺激されるけれど、実際に恋がしてみたいとは思わない。一般的思春期女子のように、恋に飢えているというわけではない。


 十四歳の時点でこんな考え方をしてしまっている私の人生には、おそらく恋なんてものは必要ないのだろう。いや、必要ないどころか、私は恋に触れることすらできないのかもしれない。


 異性のことを寂しさを埋める道具としか捉えられない私に、恋なんてものは分不相応だ。


「さみぃ……」


 西園寺の住むアパートから離れれば離れるほど、私の感じる寒さは増していった。



「……ただいまー」


 たまにはこういう挨拶でもしてみようかと思って試してみたけれど、想像してたよりも五倍くらい恥ずかしかった。


 もちろん返事は返ってこない。


 足先をふるふる振って靴を脱ぎ捨てて、そのまま廊下を進んでリビングに向かう。リビングの扉を開けると、真っ暗な部屋で、お父さんがテーブルの上のノートパソコンを頬杖をつきながら眺めていた。ブルーライトに照らされた、その眼鏡の奥の虚ろな目は、パソコンの画面から目線を動かすことはない。


 私はリビングの照明をつけてから、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出す。冷蔵庫の中は相変わらず生肉が異様に多い。取り出したペットボトルの中身をコップに注いで、一息で豪快に飲み干してから、自分の部屋へと向かおうとした矢先、「おい」としゃがれた声で呼び止められた。


「今月の飯代、そこ」

「ああ、うん」

「……足りるか?」

「うん」

「……ならいい」


 お父さんは頬杖を作り直して、私に向けていた視線をパソコンへと戻す。


 私はテーブルの上のお札を回収してから、足早に自分の部屋に向かって、到着してから扉を閉じる。その瞬間、喉につっかえていた小骨がすっと消えてなくなるような感覚があった。


 鞄を床に放ってブレザーとスカートを脱ぎ捨てながらベッドに潜り込んで、毛布を首元まで引き寄せる。


 そして目を閉じると、お腹の奥のほうがだんだん温かくなってくる。そしてその暖かみが徐々に身体全体にしみわたるように広がっていって、眠気に丸のみにされる。心拍数が安定してきて、瞼が重くなる。


 毛布が与えてくれるのは仮初めの安らぎ。


 では真の安らぎは、人と人との間に存在している、と私は考えている。


 毛布が仮初めの安らぎである理由は、毛布は寂しさを埋めることができないからだ。


 それはいわば無生物的な安らぎ。そこに真の安心感は存在しえない。


 だけれど私は、この毛布にくるまれている感覚が好きだ。


 寂しさを埋めることはできなくても、どこの心の穴も埋めることができないというわけではない。毛布も、全てとは言わないまでも心の穴を埋めることはできる。ただ毛布が身を包んでいると言うだけのことで、なぜこんなにも安心できるのだろう。毛布が安全を保証してくれるわけでもないのに。


 父親と同じ空間で同じ空気を吸っているよりも、毛布に身を包まれているほうがよっぽど安心する。実質的な安全度でいえば、父親と一緒にいるほうがいくらか安全なのだろうけれど。


 あの父親と一緒にいるととても息が詰まる。心の穴がぼかぼか開きっぱなしになる。


 さっきリビングにいたあのお父さんと私は、実は血が繋がっていない。だから、とても抽象的な表現をすると、家庭事情が色々と複雑なのだ。


 私のお母さんは私が十歳のときに離婚していて、そして私が十二歳のときに、今私と共に暮らしているあの男と再婚した。それから一年後、私が十三歳のとき、つまり去年にお母さんは事故で死んでしまった。いや、ここは中学生らしく、他界した、と言っておこう。


 そういう事情があるから、私とお父さんは戸籍上は親子という名前の関係性に位置付けられているけれど、私は今のお父さんと知り合ってからまだ二年しか経っていない。お父さんは、十四年間ある私の人生のうちの、たった二年間しか知らないのだ。


 お母さんが再婚を決めた当初から、私とお父さんの間に流れる空気は、なんというか、とてつもなく凄まじい感じだったのだけれど、お母さんが他界してからは、もはや凄まじいというレベルをゆうに超えている。今のお父さんと私との間に流れる空気は、今にも喉が引きちぎれてしまいそうなくらいに張り詰めている。


 それに最近だと、葉月のことがある。


 私はこの目で、葉月とお父さんが手を繋いでホテルを歩いているのを見てしまった。あのお父さんが、私の同級生の友達と手を繋いで歩いているのを、私は見てしまった。


 お父さんが、女子中学生と交際しているという事実を、私は知ってしまった。


 その事実も、私のお父さんへの苦手意識に拍車をかけている。


 なんで女子中学生なんだよ、それもなんで葉月なんだよ、と、その当時の私はあらゆるマイナスの感情に呑み込まれていた。悲しいし、悔しいし、つらいし、気持ち悪いし、不快だし、とにかく私の脳内は暗黒に染まっていた。もちろん葉月に対しての感情も同様に。


 私にはお父さんのことが一ミリたりとも理解できない。でもとりあえず、お父さんが私のことを大事に思っていないということは理解できる。


 そりゃあ、大事にするはずがない。お父さんにとって私は再婚相手の付属品でしかないのだし、お父さんには葉月という私の他に愛すべき女子中学生がいるのだ。


 私はお父さんのことが理解できないし、理解したいとも思えない。


 できるだけ早くお父さんとの縁を切りたい。何かお父さんに対して恨みがあるわけでもないのに、私はいつもそんなことばかり考えている。


 安らぎの存在しない人間関係なんて、そんなものは無意味だ。


 西園寺との間には物理的なつながりによる安らぎがあるし、葉月との間には、偽者といえども観念的な安らぎがあるように感じる。他の人との関係にしても同様に、なんらかの安らぎ、つまり私にとってのメリットが存在する。でもお父さんとの間には、それがない。


 だからお父さんとの関係は必要ない。無駄なものだ。掃いて捨ててしまいたい。


 毛布を頭まで被って、胎児のような姿勢になって、私は目を閉じた。




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