第三話

「なっかはらくーん、どーん!」

「うおっ!」


 昼休み、普段つるんでいる友達が皆部活やら委員会やらの集まりでどこかへ行ってしまって、僕は仕方なく一人で自分の席に座ってぼーっと二条さんを眺めていたところ、急に後ろから何者かに全体重をのしかけられた。


「こんにちはー中原くん。そういえば私たちって、ちゃんと喋ったことなかったよね?」

「え、えー、あ、うん、ソウダネ」


 後ろからのしかかってきたのは、クラスメイトの女子である葉月さんだった。そう、女子。女子が僕の背中にのしかかっているということはつまり、そういうこと。


 ぷにぷにパニックパラダイスだった。


「あは。照れちゃってる? 中原くんかわいーねー、うぶな男の子って感じィ?」


 僕の首に手を回しながら、僕の耳元で囁く葉月さん。身体は密着したまま。僕は背中に葉月さんの体温を感じたまま。


 生暖かくて柔らかい身体が、僕の背中に押し当てられる。


 柔らかい、不思議な感触。


 なんだか視界がぼやけてきた。


「あれ? おーい、なんか目の焦点があってないぞー。だいじょーぶー?」

「あ、ああ、だいじょう、ぶ、だよ」

「ホントかな?」


 葉月さんが、僕の首に回していた手のひらをそのまま上方向に滑らせる。そして葉月さんが手で僕の口を覆う形になる。


 葉月さんの、少し冷たくて細っこい指が、僕の顔面の半分を覆う。


 葉月さんの手はレモン風味の良い匂いがした。


「うーむ、中原くんの顔あっついね。熱あるんじゃない?」

「あ、あの、ハナレテクレマセンカ」

「えー、やだよ。こうやって身体を密着させてると、なんか落ち着かない? 千草ちゃんは落ち着くって言ってくれるんだけどなー」


 千草ちゃん、つまり二条さんのことか。


 二条さんは人と密着していると落ち着くらしい。


 今度試してみようか。


「いや、僕は、おちつかないから」

「いいよ別に中原くんが落ち着けなくても。そんなのどーでもいー」


 葉月さんはいちいち僕の耳元で話すから、葉月さんが声を出すたびに僕の耳に吐息がかかる。それに呼応するように、僕の耳が熱くなっていく。


「あのさー中原くん」


 葉月さんは本気でこの体勢のまま僕との会話を展開するつもりらしい。


 となると僕は、僕の身体中の全精力でもって、僕の理性をなんとか支えなければならないらしい。


「中原くんって最近、なんかやたらと千草ちゃんに話しかけに行ってるよねぇ? あれ、どういうこと?」

「…………」


 僕が最近やたらと二条さんに話しかけに行っている。


 確かに事実だ。そりゃあ、僕と二条さんは恋仲なのだから、日常会話ぐらいは基本中の基本だ。恋人同士なのだから、日常会話ぐらい普通に自然にする、はずなのだけれど。


 なぜか二条さんは、僕と付き合い始めてから今日に至るまで、恋人にしては態度が素っ気なさが過ぎる。だから僕はここ一週間ずっと、僕たちは本当に男女として付き合っているのかと疑問に思っていた。疑問に思ってしまった。


 でも、どれだけ自分のことを疑ってみても、僕は確かに鮮明にあの日のことを記憶している。あの日、僕が二条さんのことが好きだと告白して、それから両想いだったことが判明して、僕たちは晴れて付き合うことになった。あの日あの時の二条さんの笑顔を、僕は鮮明に、どうしようもないほどに記憶しているのだ。


 それなのに、どうして。


 どうして、僕と二条さんはまだ、恋人らしいことを何もしていないのだろう。


 二条さんは本当のところで、僕のことをどう思っているのだろう。


「別に、どうしたってわけじゃ、ない」

「そんなことないでしょー? 誤魔化そうったってそうはいかないよ。あんまりあたしのことを舐めちゃあいけなーい」

「いや、だから……、この前たまたま話す機会があって、そのときになんとなく仲良くなって」


 なぜだか僕は、『二条さんと付き合っている』とは言えなかった。


 それを言う自信がなかった。


 自信? 自信ってなんだろう。


 僕と二条さんが付き合っているというのは、紛れもない事実なのに。


 自信がないことなんて、ありえないのに。


「話す機会って、どんな?」

「え、」

「どんな話をしたの?」


 葉月さんはとても小さな声で、僕の耳元に囁く。普段の距離感ならば絶対に聞こえないような吐息や唾液の音が、僕の耳に直接入り込んでくる。


「話、っていうのは、その……」

「あたし気になるなぁ。千草ちゃんがキミみたいな男の子と仲良くなる理由が、どんなものなのか」

「……それは、言えない。秘密」


 秘密というか、はなからそんなものは存在しないのだ。僕と二条さんはまだ、中身のある会話をしたことがない。


 嘘をつけばつくほど、誤魔化すのが面倒になってくる。


「……へえ、意外と生意気な口きいちゃうんだ、中原くん」

「…………」


 葉月さんは密着していた身体をより一層僕に押し付ける。ぐぐぐぐっと体重をかける。僕は机に手をついた。


「そんな悪い子は食べちゃおっかなー」


 にししっといたずらっぽく笑うその吐息が、僕の右耳の鼓膜を震わせた。


「あむ」


 かぷり、と。


 そしてその右耳が、食べられた。


 僕の右耳が、葉月さんに食べられた。食われた。


 葉月さんが、僕の右耳を口内で弄ぶようにべろべろ舐める。


 食われる。


 そして僕は、全身が総毛だった。身体中の内臓がふわっと持ち上がるような感覚があった。


 今までの人生で経験したことのないような莫大な恐怖感が、身体の奥から噴火するように爆発して、全身を駆け巡る。腹の中に気持ち悪い何かがどんどん溜まっていく。脳髄がキーンと張り詰める。目がカッと開いて、呼吸が荒くなる。どくんどくんと心臓が激しく早く痛いほど鳴っているのがわかる。


 手先が震え始めた。


 がたがたと、奥歯が震え始めた。


 なんだこれ。


 これは、やばいんじゃないか。


 これは、危ないんじゃないか。


 もしかすると。


 ここで死ぬんじゃないか、僕は。


 そんな根拠のない予感が電撃のごとく脳内を走ったとき。


 僕は反射的に椅子から立ち上がっていた。


「……おおっと」


 僕の耳から口を離した葉月さんが、少しの驚きが混じったような笑みで、僕を見上げていた。


「急にどしたの中原くん。そんなに耳舐められるの嫌だった?」


 僕はその葉月さんを睨むように見下ろした。


 いや違う。僕は葉月さんのことを睨みたくて睨んでいるんじゃない。


 無意識に、この人は睨まなきゃいけないと思った。


 この人は警戒しなければならないと、無意識がそう言っている。


 しかし、警戒しなければならない理由なんてないはずだ。葉月さんはただのどこにでもいる平凡で無力な女子中学生なのだから。ほとんど何もできない何も知らない、ただの子供なのだから。


 それなのに、僕は葉月さんがただの中学生であることを理解しているのに、その葉月さんの余裕百二十パーセントの笑顔を見ていると、とてつもない恐怖を感じた。


 葉月さんは「よっこいしょ」と中学生らしからぬセリフとともに立ち上がって、笑顔で僕の肩に手を置いた。


「耳を舐めてしまったことはごめん、謝るよ。だからさ、中原くん。あたしのことをこの世の最悪をすべて結集させた禍々しい物体を見るような目で見ないでよ、ね?」


 それは至って穏やかな声だった。それは至って優しい口調だった。


 その声に恐怖感は一切感じられなかった。


「なにしてるの? 葉月さん」


 僕の肩に手を置いている葉月さんの肩に、西園寺さんがその手を置いた。


「おーっと若菜ちゃん。あーいや、これはその、違うんだよ」


 葉月さんは慌てて僕から手を離して、誤魔化すように必死に両手を振る。


「何が違うの?」

「いや何も違くないんだけどその、うん、違うんだよ」

「ねえ、何が違うの? 葉月さんは、中原くんと一体何をしていたのかな?」


 西園寺さんは猫のように目を細めた優しい笑顔で、だけれど口調は強めに、葉月さんを詰問する。葉月さんは誤魔化すような苦笑いで後ずさる。


 すると葉月さんは僕のワイシャツの服の裾をちょいとつまんで、


「ちょっと中原くん、こっち来てくれない?」

「えっ」

「中原くん、行っちゃだめだよ」


 僕が葉月さんに引っ張られるままついて行こうとすると、西園寺さんががしっと僕の腕を掴んで引き止めた。そのままぐいっと西園寺さんの側へと引っ張られる。


「中原くんは、もうこれ以上葉月さんと付き合っちゃだめ」


 いやに低く冷たい声で西園寺さんは言った。どうして優しい笑顔なのにそんなドスのきいた声がだせるんだろう。


「あ、あのさぁ若菜ちゃん。あたしは別に、中原くんを取って食おうとしてるわけじゃないんだよ。だから、その、なんだろう。あたしは別に、中原くんとどうにかなりたいとかじゃないから、安心して?」

「安心? じゃあなんでさっきあんなに密着してたのかな?」

「あれは、その、あたしなりの距離の詰め方っていうか、仲良くなる方法? みたいなやつ。他意はないから、大丈夫」

「へえ、葉月さんって人との距離感が壊れちゃってるんだねぇ。私初めて知った。そんな素振り見せてたことなかったし」

「と、とにかくさ、中原くんとちょこっとだけ話があるから、中原くんのことほんの少しだけ貸してくれない? ね? おねがいだからさー」

「だめだよ。中原くんのことこれ以上たぶらかしたら」

「だからたぶらかしてるんじゃないんだって。もういいや。とにかく借りるから」


 葉月さんは強引に僕の手をひっつかんで走り出した。西園寺さんも僕の腕をかなり強く掴んでいたが、葉月さんの咄嗟の行動に対応しきれず、あっさり手を離してしまった。


 とんでもなく苛立ちがこもった大きな舌打ちをしり目に、僕と葉月さんは廊下を駆けた。



 階段の踊り場まで走ってきたところで、葉月さんは急にぴたりと足を止めて、そしてくるりと僕に振り返った。妙に機械的な動作だった。


「ってことで、あたしが言いたいことはたったひとつだけ」


 ぴっと人差し指を立てて、葉月さんは言う。


「あのね、千草ちゃんはね、水族館が好きなんだよ」

「は?」

「千草ちゃんは水族館に行くのが大好きなの。どう? 知らなかったでしょ」


 二条千草は水族館に行くのが大好き、らしい。


 それをなぜ僕に?


「中原くん、千草ちゃんと付き合ってるんでしょ?」

「え? あ、いや、その、付き合ってるのは、いや、その、まあ、付き合っているんだけども、いや、あー、えーっと……」

「あっはは、慌てちゃってかわいいねぇ。でもどれだけ隠してもそんなのあたしには全部お見通しなんだよ。てか、あたしじゃなくても、ちょっと観察してれば中原くんの態度が露骨すぎてすぐわかっちゃうけど」

「そ、そう、か……」


 顔があっつい。


「そういうことで、あたしからの恋愛あどばーいす。千草ちゃんを水族館に連れて行けばなんか良い感じになって二人の距離が縮まります。それであわよくばー、中原くんの欲望を思いのままに満たすこともできるかもしれません。本当です。嘘じゃないです。はいだから即実行! 行け!」

「え、どこに?」

「頭の回転がにっぶいなぁ中原くんは。千草ちゃんのとこ行って、そして水族館に誘う! はい即実行!」

「え、今?」

「今だよ今。今やらなかったらいつやるの? そうやってなんでもんかんでも後回しにして先延ばしにして、結局何もできずに死んでいく愚かな生き物こそが人間なんだね」

「え、いやでも、急にそんなこと言ったら断られるかもしれないし……」

「女々しすぎるね中原くんは。本当に全くもって女々しすぎるよ。度胸ってもんがないよね。だいたい、千草ちゃんが水族館行こうって言われて断るわけないじゃない。だから大丈夫だよ、安心して」


 葉月さんは僕の身体を回転させて、僕の背中をどんどん押して今すぐ教室に戻るよう急かす。僕はたたらを踏むように不格好に階段を降りる。


 水族館デートか。確かに良い案かもしれない。いや、そもそも、僕よりも二条さんとの付き合いが長く、それゆえに僕よりも二条さんのことについて詳しいはずの葉月さんが言うのだから、それは確実に良い案なのだろう。


 水族館デート。思えば僕たちはこれまで、デートらしいデートを一度もしていなかった。たまに二人で一緒に帰るぐらいが限界で、休日にわざわざ時間を取って個人的に会うなんてことは、一度もしていなかった。それぐらいに距離の開いた、淡泊な関係性だった。だから葉月さんの言う通り、この機会は二条さんとの距離を縮めるのに絶好と言える。


 それならば、せっかくのデートなのだし、僕もいろいろと計画を立てて、それなりにお金も奮発したほうが良いだろうか。水族館に行くにしても、近場の家族連れで賑わっているようなありふれた水族館ではなく、都会にあるようなお洒落で大人な雰囲気漂う、絢爛華麗な水族館に行ったほうが、得策だろうか。


「あーそうそう、ひとつ言い忘れてたけど、変にかっこつけて都会の水族館とかに連れて行こうとしちゃあだめだよ。都会の水族館はインスタ映えーとかに気を遣いすぎてて、水族館全体がせまっくるしいし、肝心の魚の種類も少ないからだめだめなんだー、みたいなことをこの前千草ちゃんが言ってたから。だから、ぜーったいに、この近くの、あそこの水族館に行かなきゃだめだよ。絶対にね。そうじゃないと千草ちゃんが泣きだしちゃうから。あの子はそういう子なの。いい? わかったね?」

「え、あ、ああ。わかったよ。そこまで言うなら」

「よろしい。ならばさっさと誘ってこーい!」


 どんと強く背中を押されて、僕は危うく階段から転げ落ちそうになったけれどすんでのところで踏みとどまれた。階段の下まで降りてから振り返ると、葉月さんが歯を見せて明朗快活に笑っていた。


 やはり僕はその笑顔からも、一切の恐怖感を感じることはなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る