第二話
結局、あれから一時間目が始まるまでに二条さんが教室に戻ってくることはなかった。今日は一時間目から家庭科で移動教室なのだけれど、僕は最後まで教室に残って二条さんが戻ってくるのを待っていた。そして二人で家庭科室まで一緒に歩こうと企んでいた。
それなのに、二条さんはいつまで経っても教室に戻ってこなかった。僕はギリギリの時間まで教室で粘っていたから、家庭科室に着くのが遅れて先生に怒鳴られることはなかったけれど冷たい視線を向けられた。家庭科の教科担任はわかりやすく怒りを表に出さずに、その代わりにこうして無言の圧力をかけてくるから苦手だ。あんな目で見られるくらいなら、いっそ激しく怒鳴ってくれたほうがこちらも気分が清々しいのに。無言で睨まれるだけだと、なんだか僕と先生との間に巨大な黒い岩のようなわだかまりができたみたいで、気分が悪いのだ。そしてもっと言うと、ずっと気分が悪いままなのだ。
今日は調理実習だから、遅れてきた僕は一人でささっとエプロンを身に着ける。ちなみに僕はエプロンの存在意義を理解していない。こんなものはただ暑苦しいだけだと思っている。どうせ汚れるのならエプロンが汚れるのも制服が汚れるのも同じだろうに。
そして先生が黒板を使って説明を始めた。今日はカレーを作るらしい。カレー作りの工程について、その死んでいるかのような表情とは裏腹にはつらつとした声で女性の先生は説明する。そんな一気に説明されてもよくわからないし、どうせ同じ班の女子たちに全て任せていればなんとなるだろうと僕はその説明を上の空で右から左へと流していた。
説明を聞き流しながら、僕はまだ二条さんのことを考えている。
急に走り出して口元をおさえながら教室を出て行った二条さん。あんなに慌てて一体どこへ行ってしまったのだろう。心配だけれど何もできない自分が格好悪くてむずがゆい。
あのとき僕は二条さんをすぐに追いかけるべきだったのだろうか。でも追いかけたら、二条さんに気持ち悪がられるかもしれないし。……いや待て。
僕と二条さんは付き合っているのだから、交際関係にあるのだから、気持ち悪がられるはずがないじゃないか。
「ねぇ中原くん。なんで遅れてきたの?」
調理室の机を挟んだ向かい側に座る女子が少し身を乗り出して、かろうじて聞こえるほどの小さな声で僕に質問を投げかけてきた。
彼女は
「いや、あのー、ぼーっとしてたら、気付いたら時間が過ぎちゃっててさ。それで、ね。今日は寝不足なのかもしれない」
「……嘘でしょ」
「嘘じゃないよ。なんでだよ」
「今首に手を回してた。中原くんが嘘つくときのくせだよ」
頬杖をついて僕の顔を見上げる西園寺さんはにやりと口角を軽く上げて、僕のくせを指摘してくる。僕は慌てて首に回していた手を下ろした。
「え、いや、なんだよそれ」
「ねぇ、本当はなんで遅れたの?」
西園寺さんにしては珍しく真剣な瞳で、僕は目の中を覗き込まれる。僕はその瞳に少し気圧されて、目線を逸らす。
「どうでもいいじゃないか、そんなこと」
「どうでもよくないよ。わたしにとってはとても重要なことなの」
「なんで」
「なんでもいいじゃない、そんなこと」
「じゃあ僕が遅刻した理由だってなんでもいいだろ」
「それはなんでもよくないよ。重要度が違うもん」
本気で言っているのか何なのか、よくわからない。西園寺さんはいつもこうして、すべてを理解して超越したうえで会話しているような話し方をする。実際のところは何もわかっていないくせに。
「それで、なんで遅れてきたの? いい加減に答えてよ」
「か……別のクラスの友達に、用事があったんだよ。それで遅くなったんだ」
「……本当に?」
「本当だよ」
今度は首に手を回していない。
「なんだ、つまんないの」
「何を期待してたんだよ」
「二条さんのことを助けに行ったのかと思った」
「は?」
その声が思いのほか大きくなってしまって、先生が説明の声を止めた。目の前の西園寺さんは顔を伏せて声を抑えて控えめに笑っていて、黒板の前の先生はまた冷たい目で僕のことを睨んでいた。僕が誤魔化すように苦笑いすると、先生は何事もなかったかのように説明を再開した。
心の削れる音がする。
「くっ、ふふ。どしたの急に大きい声出しちゃって」
「いや、なんでそこで二条さんの名前が出てくるんだよ」
「だって今朝の中原くんずっと二条さんのこと見てたし、なんかキョドりながら話しかけてたし」
「いやぁ別に、そんなことは、ないだろ」
「二条さんと中原くんって昨日まで全然喋ってるの見たことなかったのに、今日になって急にどうしたの?」
「まあ、ちょっと、な」
別に西園寺さんに、二条さんと僕が付き合っていることが露呈してしまったところで僕はなにも困ることなどないのだけれど、なんとなくそのことを西園寺さんに告げるのは憚られた。
「なに、怪しい関係?」
余裕がたっぷりににやにや笑いながら、西園寺さんは言う。その笑顔を見ていると、僕はなんだか困惑してくる。
「まあ、そんな感じ」
「ふーん、そ」
西園寺さんは乗り出していた身をもとの位置に戻してから黒板に向き直って、机の下で僕の脛を蹴った。ガッガッガと三回蹴った。普通に痛かった。
「わたしに隠し事なんかしても、無駄なのにね」
西園寺さんの表情はどこか悲しげに映った。
*
「ねぇねぇ、カレーおいしい?」
「ん、まぁまぁ」
僕が答えるやいなや机の下で脛を蹴られる。
「ねぇ、おいしい?」
「……おいしいよ」
「それは良かった。中原くんは作るときに何にもしてないんだから、残飯処理よろしくね」
「わかってるよ」
僕の皿に盛られたカレーだけ、他に比べて明らかに量が多すぎた。西園寺さんの皿の五倍の量はある。
「わたしが丹精込めて作ったカレーなんだから、それくらいぺろっと食べられるよね?」
「いや、わからん。めっちゃ多いし」
僕が答えるやいなや脛を蹴られる。
「食べられるよね?」
「……もちろんだよ」
僕と西園寺さんの隣に座っている、僕と同じ班の男子と女子は、なにやら笑顔で談笑していた。僕の隣の男子の皿にはやはり、僕の皿の量の五分の一しか盛られていない。こいつだって僕と同じく何もしていなかったのに。もうこれはいじめの域なんじゃないか。
そういえばこの二人、付き合っているんだっけ。そんな噂を小耳にはさんだことがあるけれど、それが事実なのかはわからない。この二人は幼馴染同士で仲が良いから、それをからかってそういう噂が流れているだけかもしれない。
まだ十四歳の身分だというのに男女の交際をするなんて僕には考えられない。いや考えられるじゃないか。
まだ僕には二条さんと付き合っているという実感がいまいち湧いてこない。
「なんかさ、こうしてるのって新婚生活みたいだよね」
着々とふくれていく腹を押さえながら、食べても食べても一向に減る気配のない目の前のカレーを恨めしく睨んでいると、すでにカレーを食べ終わった西園寺さんがそんなことを言った。
「は、どうしたんだ急に」
「こうして向かい合って、中原くんがわたしの作ったカレーを食べてるの。新婚生活みたいじゃない?」
西園寺さんはニコニコ楽しそうな笑顔で、こてっと顔を傾げる。
「……そんなことないだろ。こんな騒がしい調理室で、風情も雰囲気もないし」
ガッとまた脛を蹴られた。西園寺さんは僕の脛を蹴ればなんでも自分の思い通りになると思い込んでいるんじゃないか。
まあ、その通りなのだけれど。
「……そうだな。新婚生活みたいだ」
「そうだよねーこんな結婚生活が理想だよねー」
口元は笑ったまま、目だけはガン開きで西園寺さんは圧力をかけてくる。机の下では僕のつま先をぐりぐり踏みつけている。
「将来はこんな生活ができたらいいのにねー」
将来は僕のつま先を踏まないような人をお嫁に貰いたいなぁと、遠い未来に想いを馳せて気を紛らわせながら、僕は必死にカレーをかきこんだ。
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