『アイ』のかたち

すめらぎ ひよこ

『アイ』のかたち

 夕暮れ時の赤々とした陽射しが、閑散とした電車内を照らす。


 その電車の隅に、男は座っていた。身なりは決して良くはない。薄汚れたズボンにコート、整えられていない髪に無精ぶしょうひげ。紙袋に入った何かをいとおしそうに抱え、濁った目で微笑んでいる。


 電車にまばらに乗り込んでくる人々は、浮浪者然としたその男を避けるように座席を選んでいく。


 乗車している誰もが、電車内に漂う微かな異臭の源はこの男だと思っている。


 その考察はほとんど正解といえるが、厳密には不正解だ。


 部活帰りの女子高校生たちが、ちょうど男に聞こえる程度の声で愚痴をこぼす。


「なんか臭くない?」

「ホームレスが乗ってるからでしょ」

「三組の子が行方不明になったの、あいつが犯人じゃないの?」

「ありえる」


 女生徒たちは、男を遠巻きに見ている。あざけりを隠そうともしない薄ら笑いを浮かべて。


 その愚痴は実質、自分よりと見なした存在を攻撃し、下賤な優越感に浸るためのものだった。


 だがそんな雑音こえは、男の耳には届いていない。男の頭の中は、『愛とは何か』という哲学に満ちていた。それほどまでに、男は初めて芽生えた感情を大切に抱えている。


 電車内に咳払いが響く。女子高校生の向かいに座る中年のサラリーマンが、彼女らを睨んでいた。その目は、不謹慎なことを言うなと言外に伝えている。


 女生徒たちは面白くなさそうな顔で、スマートフォンを弄り始めた。


 まもなく次の駅に到着するとの旨のアナウンスが流れる。


 その場にいる誰もが、男が降車することを望んでいた。女生徒たちの非常識な愚痴をとがめた男ですら、そう望んでいた。それは無理からぬことであった。その男がどうしても、異臭の原因だとしか思えないからだ。


 薄汚い男がおもむろに立ち上がる。


 電車内に不快な緊張感が流れる。


 見た目や様子から、とても正気を保っているようにも見えず、ともすればなんの躊躇もなく人を殺しかねない危うさを、周囲の人々は感じ取っていた。


 男が立ち上がった理由はもちろん、次の駅が目的地だっただけである。


 電車が駅に到着すると、男は紙袋を抱えたまま電車から降りていった。ちらりと見えた紙袋は、ところどころ赤茶色のシミで汚れていた。


 電車には異臭の残り香と、言い表すことのできない気持ち悪さがだけが残った。


 男は楽しそうに、そして恍惚とした様子で歩いていく。すれ違う人々はみな、怪訝けげんな顔で振り返る。


 駅から二十分ほどで、目的の場所にたどり着いた。そこはとある一軒家だった。なんの変哲もない一般的な家屋であったが、どことなく暗い空気が流れている。その家が、というよりは、そのあたり一帯が陰鬱な雰囲気で包まれていた。


 男がインターホンを押すと、元気のない声の男が応じてきた。


「はい、なんでしょう……」

「あ、あの……な、中島なかじまさんのお宅ですよね? お、お話があってや、やってきました……」


 男は緊張からか、うまく言葉が発せないでいた。


「……イタズラなら警察呼びますよ」

「ぼ、僕ははあいさんの恋人です!」


 男自身も驚くほどの、大きな声が出た。人と話す機会が乏しく、声の強弱を調整するのに難儀しているようだった。


 しばらくすると、やつれた中年男性が家から出てきた。だが、男の身なりを見るなり、顔をしかめた。


「誰だ、あんた。うちの娘に彼氏がいたなんざ聞いたこと無いぞ」


 目の前の不審な男に対する剥き出しの怒気と嫌悪感が、その声色から感じ取れる。


「十日ほど前です。一目惚れしたんです。そ、それで、その場で付き合うことになって――」

「まさか、お前が藍を誘拐したのかっ!」


 男の突然の告白に、中島は激昂げっこうした。十日前から、自分の娘――藍が行方不明になっていたからだ。


 この事件が原因で、この一帯は不安と同情で息の詰まるような空気が漂っているのだ。


「と、とんでもない、です。藍さんとは愛し合っています!」


 どことなく噛み合っていない会話。そして、目を合わせているというのに、男の目はどこか遠くを見ているような、胡乱うろんな印象を受ける。


「僕をひ、一目惚れさせるってことは、当然僕のことも愛してるはずです。だから僕の愛は自分勝手なものじゃありません!」


 支離滅裂、という表現に尽きる言葉。だが男は、論理が破綻していることに気付いていない。


「娘をどこにやった!」


 中島は男に掴みかかろうとする勢いであったが、同時に男に対して形容しがたい不気味さを感じていたので、その場に踏みとどまった。行き場のない怒りが、拳に力を入れさせる。


「あ、藍さんは、連れてきています」


 だがその理解不能な言葉を聞いて、一気に血が引いた。先ほどから感じている得体の知れない妙な恐怖感が、唐突に正体を現したような気がした。


 男は、中島の強張こわばる表情を気にも留めず、話を続ける。


「ぼ、僕、一目惚れなんて信じてなかったんですよ。もしかして見た目だけで人を判断してるんじゃないって思っちゃって。み、見た目で人を判断するって、人として最低ですよね。だ、だから、僕のこの愛が本物だって信じたいから、見た目で好きになったんじゃないって信じたいから、こうなっちゃったことは、し、仕方ないんです」


 男は汚らしい紙袋から、十五センチほどのガラス瓶を取り出した。


 瓶の中は赤黒い何かが満ちていた。ところどころに黄色い塊や白い欠片、黒い糸束、ほかにも妙な色合いの物体が混じっている。


「でもこんなふうになっても、まだ好きだったんです。こんな気持ち初めてで、こんなふうに人を好きになることもあるんだってこと教えてくれてありがとうって。だから、け、結婚の挨拶に来たんです」


 藍の父親が瓶を見つめると、ガラス越しに娘と目が合った。


「ど、どうか娘さんを、僕に下さい!」

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