卒業の花

入ヶ岳愁

卒業の花

 大きく欠伸をした途端、会議室の乾燥した空気と細かな埃が僕の喉を刺した。空咳が一つ出る。

「風邪ですか」

 机を挟んで向かいに立つ岩蕗が、書類の束に深く目を落としたまま声を掛けてきた。僕は彼がこちらを見ていないと知った上で、ただ黙って首を振った。

 僕は部屋の隅で眠っていた空気清浄機の電源を入れた。僕や岩蕗よりずっと古株らしいその機械は、唸り声を上げて呼吸を始めた。最後にいつフィルターが掃除されたのかも知らない。僕はしばらく清浄機の音に耳を傾けていた。

「退屈ですね」

 岩蕗がそう言った。先程より僕と距離が空いているからか、先程より大きな声だった。僕が作業もせずぼんやりしているのを咎めたのかと思った。僕はまたしても何も答えずに持ち場へ戻った。

 確かに、今僕らがしている作業は退屈だ。段ボールへ乱雑に押し込められていた古い書類を、年度別に分けて穴を開け、ファイリングする。入社四年目でなぜこんな仕事をと言いたいところだが、最近僕は仕事で少々ミスをしていた。察するに、これは上司が僕に与えた罰当番だ。わざわざ僕の苦手な岩蕗をバディにしてきた辺り、たいした罰だと思う。

 岩蕗は僕より一年遅れて今の部署に配属されてきた。その年に中途採用されてきたところで、第二新卒として仕事上は僕より下に置かれたが、実年齢は僕より三歳上になる。実際会うと、十歳くらい齢が離れているんじゃないかというくらい岩蕗は老けて見えた。固そうな髪には白いものがまじり、体型以上に頬が痩せこけて見える。分厚い縁無しの眼鏡を掛けている。その奥の眼は割に大きく、瞼も二重なのでそこだけくっきりとした印象を受けるが、始終何かに失望するかのように視線を伏せているせいで、むしろ陰気さに輪が掛かっていた。

「こういう作業は、小学生の頃委員の仕事でよくやりました」

 その岩蕗が、今日はいやによく喋る。普段なら自分から話しかけてくるようなことはない。僕は戸惑いから穴開けパンチに置いた手を止めて、目の前の男を観察した。俯いて書類をめくる岩蕗の顔はいつもと変わりなく見える。

「何の委員ですか」

 僕は岩蕗のことを扱いづらく思っているが、毛嫌いしてはいない。だからあまり続けて無視する気にもなれなかった。

「企画委員です。学級会の催しとか、卒業式で体育館にぶら下げる紙の飾りを作ったりとか。そういう雑用をしていました」

「自分で立候補したんですか」

「まさか。くじで負けました」

 小学校に通っている岩蕗というのが、どうにも想像できなかった。今の枯れきった男の顔が黄色い帽子を被り、ランドセルを背負って道を歩いている画が頭に浮かんだ。

「私以外にもう一人、クラスの女子が企画委員に決まりました。彼女は立候補でした。優等生といいますか、何かあれば自分から進んで貧乏くじを引くような、危なっかしいところのある子でした。誰も委員に立候補しないのを見て、彼女一人が手を挙げたんです」

 岩蕗はちらと自分の手の平を見て、机に置いてあったスポンジでその指を湿らせた。僕も手元のスポンジで同じことをした。

「企画委員の仕事は年中あるわけではありません。卒業式と入学式が重なる春や、運動会のある秋の一時期には忙しくなりますが、それ以外は精々月に二三度ほど、教師に言いつけられて作業するだけです。放課後にもう一人の女子と残って、机を二つ突き合わせて。二人だけのために教室の電気を点ける気になれず、西日だけを明かりに窓辺でプリントをホチキス留めしたり、厚紙を折ったりしていました。仕事そのものは退屈ですが、やってみると悪くはありません。雑用だけとはいえ、教師にまじって学校の運営を支えているような気になれたんです。元々裏方向きなんでしょう」

「もう一人の、企画委員の女子とは話したんですか」

「よく話しました。なにせ仕事は退屈でしたので」

 岩蕗は迷う素振りもなくそう答えた。それは平生の岩蕗の寡黙さからすれば意外な答えだったが、今こうして二人きりで言葉を交わしていることを思うと、あまり不思議なことではないような気もしてくる。

「授業のこと、習い事のこと、今している作業の大変さについて。ほとんどの場合話しかけるのは彼女の方からでしたが、私が雑談を持ちかけることもあります。時々とはいえ小学五年生の一年間を同じ仕事をして過ごしていたわけですから、次第に仲良くなって、委員とは関係ない時にも喋ったり遊んだりするようになりました。結局、私と彼女は六年生でも同じ企画委員になったんです。今度は二人ともが立候補でした」

 バチン、とそこで音が鳴った。見ると岩蕗は整理し終えた一抱えの書類に何度かに分けて穴をあけているところだった。岩蕗が腕に軽く体重を掛ける度、二穴のパンチはうるさい程に音を立てた。

 数十秒ほどの間は僕も岩蕗も黙っていた。ひょっとすると話は今ので終わりかと思ったが、岩蕗は手元の書類へ全部穴をあけてしまうと再び口を開いた。

「あれは六年生の、十月頃だったと思います。学校全体で募金週間があって、各教室で朝礼の時間に募金が集められました。袋を持って机を回るのも、放課後にクラスごとの集計をするのも企画委員の仕事です。一つの教室に一学年分の委員が集まって、教師に監督されながら小銭を数えます。去年の同じ頃にもやった作業ですから、私たちは他のクラスよりもかなり早く済みました。踊り場の水道で銅臭くなった手を洗ってから、私と彼女は一足先に家へ帰りました。

 三日ほど経ってから、私たち二人は担任に呼び出されました。うちのクラスだけ募金の集計が食い違ったというのです。学校としても児童がお金を数え間違える可能性やその他諸々を考慮して、ちゃんと後から集計をし直していたんですね。ところが私たちが担当した募金だけが後から数えてみると相当少なく、さらに言えば、他のクラスや他学年に比べてもいやに金額が少なかったのです。

 私たちは職員室の隣にある応接室で、柔らかい革張りのソファに並んで座らされました。向かいには担任と教頭が座っています。私がちらと隣を見ると、明らかに状況に呑まれて動揺している横顔がありました。まさか、とは思いましたが、すぐに彼女はやっていないと分かりました。そんな人間ではないという信頼もありましたが、そもそも仮に彼女が盗みを働いたならば、集計自体を操作していなければおかしいのです。誰かが募金を盗んだのだとすれば、それは私たちが帰った後に起こったことでした。

 もちろん教師もその辺りは了解していたのでしょう。二人を呼んだのはただ話を聴きたいだけだと言って、私たちのために冷えたジュースまで出してくれました。ですが彼女は膝の上で固く拳を握るだけで、ジュースに口をつけようとはしませんでした」

 染みだらけの段ボールが、一つ空になった。机の上には同じ大きさのものがもう一つ未開封で残っているので、これでようやく折返しということになる。いつしか僕は自分の作業の手を止めて、岩蕗の言葉に耳を傾けてしまっていた。当の岩蕗はというと、話し続けながらも手は淡々と書類に向かっていた。

「彼女が、自分が募金を盗んだのだと自白した時、私も教師も呆気にとられました。彼女は目尻に涙を浮かべてただ繰り返し、私が盗みました、と言うのです。

 担任が、募金をいくら盗んだのかと問うと、覚えていませんと彼女は答えました。そんなはずはないのですが、それ以上彼女が口を噤んだので、教師も困り果ててその日は二人共を帰しました。その後私は一度も呼び出されませんでしたが、彼女は何度か職員室へ呼び出されていました。結局、彼女が犯人と決まったのか、真犯人を見つけ出せずに有耶無耶になったのか、そこの事情は私にもよく分かっていません。

 すぐに悪い噂が立ちました。彼女が職員室に呼び出される度その噂は膨らんでいって、いつしか彼女はクラスの募金を丸々盗んだことになっていました。彼女と仲が良かった私もなんとなく遠巻きにされました。

 教師は出来る限りのことをしてくれました。学級会を臨時に開いて疑念の解消を試みたり、募金が無事に済んだことを強調したのですが、それはむしろ噂の裏付けのような形になってしまい、彼女はますますクラスで孤立しました。私の見ないところで、いじめのようなこともあったかもしれません。彼女はその年の暮れ頃には、ついに学校へ来ないようになりました。

 その件について、私に何か原因があったとは思っていません。思いたくもありませんが、一方で彼女を前に何もしてやれなかったという、重い罪悪感と後悔がありました。私は時々放課後に彼女の家まで行って、プリントを届けました。彼女の母親は私を温かく応接してくれましたが、私は彼女の顔を見ることもついに出来ませんでした。

 ただ一度だけ、卒業式の直前に私はそれまでと違うことをしました。届けるプリントを、わざと何重にも折った花びらの形にしたのです。去年彼女と卒業式の前に作った、花飾りでした」

 岩蕗は廃棄書類を何枚か折って中心をホチキスで留めた。蛇腹になった紙を少しずつ開いていくと、そこには懐かしい見た目の花飾りが出来上がった。

「これを渡せば彼女も私に会ってくれるのではと思ったのですが、玄関先で十分くらい待って、戻ってきたのは母親だけでした。ただ、その手には桃色の花飾りがありました。彼女が折り紙で作ってくれたものです。私たちの卒業のために手向けられた花でした」

 それで、話は全てだった。口を閉ざした岩蕗に私は一言、

「なぜ、それを僕に話してくれたんです」

 と訊いた。岩蕗はそこで初めて顔を上げて、僕と目を合わせた。

 その時、僕は岩蕗の乾いた肌の奥に一瞬だけ、溌剌とした少年の顔を見た気がした。切れかけた蛍光灯が束の間光を取り戻したかのように。

 岩蕗は少しだけ笑うと、

「さあ。退屈だったからでしょう」

 と言って、すぐにまた書類を仕分ける作業に戻った。

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