残光魔法少女

夜方かや

第1話 少女


    ♪ ◐ ★ ●


 スターライト☆キャンディチャイム――。


 七色にきらめく。月の光さえ届かない、真っ黒に塗りつぶされた路地裏が。


〝魔法杖マジカルステッキ〟の先端からほとばしったのは、星屑のシャワー。


 くぅおおと悲鳴を上げて、ぬらぬらと黒光りするナマズの怪人の姿が消えて無くなるのを見届けて、完了――の合図にわたしはその身を翻す。そして大きな星型の、だけど丸っこいフォルムの杖を振り下ろした。


 怪人の残った魂とでもいうべき緑色の集合体が、ちゅどぉん、と音を立てて閃光するのを背中で感じながら、深く息を吐いた。


 邪悪の消滅に、世界は元通りのかたちを形成し直していく。時間が動き始める。


 差し込んできた月光が、フリルスカートのチェリーピンクを鮮やかに染め上げていった。


 わたしは駆け出す。路地裏を。宵の闇を。そして、この夜を。


    ♪ ◐ ★ ●






 目覚まし時計が鳴り響く。


 わたしはむくりとベッドの上に身を起こした。ベルを止めて時刻を見れば、もはや当たり前のように遅刻ギリギリだった。


 酸素の行き渡らない脳内でぼんやりなんてしていると、


「おねえちゃんっ!」


 部屋の扉を勢いよく開けざま、あーちゃんが言った。


「おはよぉ、あーちゃん」


 わたしが寝ぼけ眼で呟くと、あーちゃんはお母さんの物真似みたいなむくれ顔。


「おはようじゃないよー、おねえちゃん。遅刻しちゃうって」


 小五の妹に心配されるわたしは、寝癖もひどい髪の毛をかきながら、えへへと笑った。

 わたしはパジャマを脱いで、ブラウスに袖を通す。その間もあーちゃんはせわしなく動き回ってくれていた。用意してくれたしわくちゃのスカートを履いて、だけどせっかくの櫛は通している暇がなかった。

 赤いランドセルに導かれるように、たどたどしい足取りで階段を下りる。


「おはよぉ」とわたしが言い終わらないうちに、


「おはようじゃないよー」


 お母さんはあーちゃんそっくりのむくれ顔で言った。


 ダイニングにはエプロン姿のお母さんと、コーヒーをすするおばあちゃん。お父さんの姿はない。とっくに仕事に出かけたらしい。

 わたしはお皿に乗ったトーストを引っつかむや、コーヒーに口をつける間もなく回れ右。


「もえぎ、成長期で眠たいのはわかるけどさ。食パンくわえて登校なんて、今時マンガでもないわよぉ」


 前ならえの先頭みたいに腰に手をあてて、お母さんは口を尖らせる。そんなお小言に、とりあえずえへへと笑ってごまかしてなんていると、


「おねえちゃん、わたし先に行ってるよっ」


 と、あーちゃん。赤いピンで留めた伸びかけのショートヘアーがふわりと揺れた。

 いそいそとハイカットのスニーカーに足を通して、あーちゃんが玄関の扉を開ける。わたしは、なんとなく見つめていた。赤いランドセルを背負った小さな背中が見えなくなるまで。

「行ってらっしゃーい、あさぎ」我に帰ったのは、もはや呆れ声と化したお母さんの言葉を聞いて。


「お母さんや、タバコはどこだったかの?」


「タバコはありませんよ、おばあちゃん。火でも起こしたら大変でしょ」


 早い時間帯でおばあちゃんと、お母さんのいつものやりとりが始まる。


 そして、わたしはいつものようにトーストをくわえて駆け出した。


 

    ♪



 予鈴のチャイムが鳴り響く頃、わたしは学校へと到着した。


 夏まっしぐらの七月初頭。朝は爽やかとはいえ、全力疾走の身には早くも汗が滲む。張り付いたブラウスと、トースト効果で余計にカラカラなのど。ベストなコンディションには程遠い。


 それでも遅刻は免れたからまあいいか。なんて余裕顔でいたはずなのに、下駄箱を空けた瞬間すべり落ちてきた水風船の片づけをしなきゃいけなくなって。良くてギリギリ間に合うかどうか。当然余裕なんて消し飛んだ。

 全部で五個の水風船のうち、割れたのは実際三個だけで、運が良いかと思わせて。抜け目なく、下駄箱内の中履きは水浸しだ。気持ちが悪いけど仕方がない。靴下を脱いで、びちょびちょのバレーシューズに足を通す。季節は七月、乾きはそう悪くないはずだ。

 リノリウムの廊下に、中学生活のを残しながら歩くわたしは、ふと掲示板に目が留まった。


 日に日に増えているのは『不審者注意』のポスター。おどろおどろしい人影が忍び寄るポスターの前で、まだ教室へと向かわないでいる女子生徒が話し込んでいた。


『……ちゃんが、先週『ナマズオヤジ』に声を掛けられそうになったって言ってたよ』


『えっ? 私は『ゲラゲラさん』に襲われそうになったって聞いたよ……』


 小学校から中学に上がると、自然とそのスタイルも変わってくる。女子は特にその傾向が強い。目立たない程度に化粧をしたり、小物なんかにもお金をかけるようになる。そして噂話。さもない噂も今じゃ、しっかりとしたリアリティーで着色されるくらいのものだ。

 噂話に登場するのは、不審者とも妖怪ともしれないキャラクターたち。


 ナマズオヤジ。


 ゲラゲラさん。


 コスプレババア。


 エトセトラエトセトラ……。


 本当があって噂になるのか、噂がやがて本当になるのか。そんなこと誰も分からない。それ以前にきっと誰も興味ない。それなのに、というかだからこそか、噂は話さずにはいられない。


 通り過ぎた女生徒の噂話はいまだ尽きそうもない。


「……ねぇ。あれって『バサバサさん』じゃない?」


 くすくすと笑い合う声を後ろに、わたしは真っ直ぐ教室を目指す。化粧なんて論外。制服はしわだらけ、寝癖で髪のバサついたままの――わたしは。



    ◐



 一昨日よりも昨日、昨日よりも落書きの増えた机にうつぶせるわたしを起こしたのは、やっぱり今日も不来方こずかたしずくという女子生徒だった。


四方山よもやまぁ、いつまで寝てんだよぉ、テメー、ふざけてんじゃねえぞぉ」


 ただただわたしは眠くって、どうにもこうにもわずらわしい。額面どおりでひねりもない、目覚めの言葉ならなおさらだ。

 それでも仕方がないから、わたしは上半身を持ち上げた。ふと見ると、机の落書きの『死ね』が、掌に鏡文字で貼り付いていた。


「四方山ぁ、テメー、なんのつもりだぁ」


 正直焼けすぎの感がある真っ黒な顔で、不来方しずくは睨みを利かせる。彼女の後ろには、宮藤みやふじよすがとその取り巻きたちが、もはや食傷気味の面持ちで覗いていた。


 わたしはそんな不来方しずくを、今日も必死だな、と思いながらぼんやり見上げた。


 金髪ショートの襟足をいじりながら、見下ろす不来方しずく。彼女はブルーの瞳で睨みつけてきたけれど、カラコンの不具合からか、瞬きが異常に多かった。

 第二ボタンまで開けたブラウスと、短めのスカート。そこから伸びた華奢な手も足も、焦げたトーストみたいに真っ黒だ。黒髪おさげとメガネがトレードマーク。そんな彼女のほうが、少し地味めだったけど可愛かったとわたしは思う。だけどそれから三か月、今や彼女にその面影はなかった。


 家庭の事情でわたしがこの町へと越してきたのは、中学二年の春だった。


 人見知りしないわたしは、新しい学校でも特に臆することなく人間関係を築けていた。男子とも、クラスの女子グループを仕切る宮藤よすがとも、そしてイジメられていた不来方しずくともあの頃は普通に話していた。なに不自由なくて、穏やかな普通の中学生ライフ。

 だけど、それも長くは続かなかった。理由は簡単だ。この町が『巣』だったからだ。

 魔法少女としての夜の活動のしわ寄せは、そのまま日中へと繰り越されていった。普通の中学生ライフを維持できないほどに、日々わたしの外見は荒んでいく。


 あとは簡単だ。夏が始まるころには、イジメのバトンはわたしへと引き継がれていた。


 宮藤よすがに言われるがまま、不来方しずくは外見上の改造を経て、下から二番目へと這い上がった。

 宮藤よすがにあてがわれた高校生とつき合わされ、今度は太ももにタトゥーを入れようなんて取り巻きたちの無茶ぶりにも愛想笑いを浮かべる。下から二番目の彼女は、最底辺としての戒めをわたしに知らしめてくれる。今日も今日とて、せわしなく。


 そんな罵詈雑言の最中に、宮藤よすががあくびをした。瞬間、不来方しずくの顔色が変わる。


 わたしはきっと彼女の責めに動じてあげるべきなのだろう。一生懸命考えたに違いない下駄箱の細工や、脅し文句の数々。そういった責めの中で、数か月前に彼女が見せたであろう悲鳴や怯えを、わたしがみせないばかりに、不来方しずくは必死すぎるほどに、必死なのだ。それは分かっていた。おそらく、宮藤よすがに見栄を張ったに違いない。それも分かっていた。だから、彼女のためには動じてあげた方が良いのだろう。


 だけどわたしは途方もなく眠くって。


 予鈴のチャイムが鳴り始めるころには、また机に突っ伏していた。




 結局今日も寝てばっかりだったなぁ、思いながら誰もいない空の教室で伸びをする。裸足にかかと履きの上靴は、すっかり乾いていた。

 

 時刻は夕方、だけど日はまだまだ長い。開け放った窓から、掛け声が聞こえてくる。転校したばかりの頃は何部に入ろうか迷ったものだったっけ――、そんなことを思い出しながら玄関へと向かった。

 普通の中学校生活に縁遠いわたしは、家路につくべく下駄箱を開けた。そしてその瞬間、やられた、と思った。


 そこにわたしの『外靴』はなかった。


 物を隠すという行為は、まあ嫌がらせとしてはオーソドックスな部類に入るだろう。苛められっ子のポジションとしては、それも仕方のないことだとも思う。だけど実際、物にはなんの恨みもないはずだ。


 わたしはこの春に転校してきた。だから、去年まで着ていた制服や教材を買い揃える必要が新たに生じた。当然お金だってかかったのだ。

 引っ越したせいでお父さんは朝早くに会社に出勤しなくちゃならなくなった。そして今までもそうだったけど、残業で帰ってくるのはいつだって遅い。そうやってお父さんは一生懸命働いて、そのお金でわたしの制服や教材、そして外履きのローファーを買ってくれたのだ。それを思うと、わたしはなんだか申し訳なくて、とっても悲しくなった。


 わたしは一通りあたりを見回す。だけど探して回る元気もなかった。

 バレーシューズのまま玄関を抜けたわたしは、とぼとぼと歩いていると泣いてしまいそうで、途中から駆け出した。



    ★



「おねえちゃんっ」というあーちゃんの声に、わたしが目を覚ますと、そこは真っ暗闇の世界だった。


 あーちゃんがスイッチを入れた瞬間、発光した室内灯の明るさにわたしは目がくらんだ。

 やがてピントが合ってきた視界に映るのは、慣れ親しんだ自分の部屋と、お母さんの物真似も堂に入ってきたむくれ顔のあーちゃんだった。


「おねえちゃん、また帰ってきてそのまま寝ちゃったんでしょ」


 制服のままベッドにうつぶせていたのだから、言わずもがなってヤツだった。言い訳なんておこがましいので、わたしはえへへと笑ってごまかす。


 あーちゃんは前ならえの先頭みたいに、腰に手をあてて口を尖らせていた。眉間に皺なんか寄せているけれど、くりりとしたおっきな瞳と上気するほっぺたがなんだか一段と幼く見せる。

 あーちゃんは、ふわふわとしたタオル地のパジャマに着替えていた。半乾きのおでこには、ペタリと前髪が張り付いている。


「もうすぐご飯だけど、その前にお風呂入っちゃったほうがいーよ」


 わたしは面倒くさくて、そのひますら惜しんで寝ていたかったけど、


「おねえちゃん、昨日もお風呂入ってなかったでしょ」


 なんでもお見通しの、よく出来た妹にせっつかれてすごすごと立ち上がった。


 湯気ももうもうな浴室。

 服を脱いで、二日ぶりに頭や体をそそくさと洗った。

 肩まで浸かったお湯は、二番風呂らしい適温で、ふにゃー、と力が抜けるよう。

 なんのかんののんびりと、『セルライト』との激闘に疲労する身体と、イジメられっ子な毎日の精神を癒す。


 半分眠りかけて、溺れそうになって、慌ててわたしは我に返る。気付けば三十分以上浸かっていたらしい。

 面倒臭がりにも、だけど幸せなひとときに後ろ髪引かれながら、わたしはお風呂を出た。


 脱衣場で、水気を拭ってパジャマに着替えていると、そこにあーちゃんがやってくる。


「おねえちゃん、髪乾かしてあげる」


 にこりと笑ったあーちゃんに促されて、椅子に腰かける。

 頭皮に触れるドライヤーの温かな風と、あーちゃんの細い指。鏡に映るわたしの顔はきもちくて、にこにこしている。


 と。


 あーちゃんが何か言った。だけど、それはドライヤーの音に掻き消されて。

 わたしは何の気なしに「どしたの、あーちゃん」て聞き返したのだけれど、鏡越しのあーちゃんは少し薄暗い表情。

 ドライヤーの電源を落としたあーちゃんは、ちょっとためらいがちに、


「おねえちゃん……だいじょうぶ?」


 と言った。


 わたしには、その「だいじょうぶ」が、何に対しての「だいじょうぶ」なのか、当然わかった。

 あーちゃんはもともと感の良い子だ。とはいえ、感の良し悪しに関わらず、この数か月の姉の劣化ぶりを見せられれば、気づかない方がおかしいというものなのかも知れないが……。


 心配されていたたまれないわたしは、鏡越しに「大丈夫だよ」、とは言ってみるものの、やっぱりあーちゃんは浮かない顔。だからわたしは、えへへと笑うことしかできなかった。


 髪の手入れも完璧なわたしは脱衣場をあとにする。あーちゃんの手を握って。

 あーちゃんにブローしてもらった髪の毛は、喜んでるみたいに揺れていた。

 こうしてみると、わたしの腰まで届くロングヘアーもなかなかのものだなって思えた。今朝までのベタベタ具合が嘘みたい。サラサラとこぼれるような指通りと、キラッキラのキューティクル。満足げなわたしに、だけどあーちゃんはまだ不安の色を残したままだった。


「ちょっとはマシになったじゃない、もえぎ」


 ダイニングでお皿を並べるお母さんが、苦笑いで言った。


 テーブルの上には四人分の食事が用意されていた。わたしとあーちゃん、お母さんとおばあちゃん。お父さんは今日も遅いらしい。

 お父さんの仕事はきっともう終わっているはずだ。でも今年から、通う時間が去年の三倍になったお父さんは、やっぱり今日も夕食には間に合わない。


 職場まで遠くなったのには理由がある。この夜三度目のご飯を催促するおばあちゃんを、ちらと見た。


 以前のおばあちゃんは、小柄だけどいつだって背筋をしゃんと伸ばして、どこかちょっと怖い雰囲気のある人だった。

 男の人みたいな短髪に、無類のヘビースモーカー。チンピラみたいな柄物のシャツを好んで着ていて、パッと見は、おばあちゃんというよりおじいちゃんって感じだ。まあ、わたしのおじいちゃんはどっちとも早くに亡くなっていて、おじいちゃんってどんな感じなのか良くは分かっていないのだけれど。


 特に母方のおじいちゃん。おばあちゃんの旦那さんは、お母さんがまだ小さい頃に亡くなっていた。その辺のことは尋ねても、おじいちゃんは病気で亡くなったの――とお母さんは曖昧に返すだけだったし、そして実際顔も見たこともないおじいちゃんに対して、わたしが興味を持つこともほとんどなかった。


「おばあちゃん、味噌汁も飲まないとダメよ」


 お母さんが、お味噌汁の入ったお椀をおばあちゃんの手元へと運ぶ。


「分かんなくなってな……」


 おばあちゃんはどんよりとした色の瞳を緩ませて、力なく笑った。


 おばあちゃんは声を掛けられないと、同じ食器のものしか食べないし、日に何度も同じ質問をする。火事の心配があるから今はタバコを取り上げられているけど、時々シケモク探しに出かけて、よく迷子にもなる。


「分かんなくなってな」が口癖なのに、おばあちゃんは毎夜のように外に出かける。お母さんの目を盗んで脱走するその手腕は天才的で、おばあちゃんの「分かんなくなってな」同様、毎夜交番に保護されるおばあちゃんに向けての「頭が痛い」がお母さんの口癖になっていた。それでも最近では、それを毎夜の『恒例行事』と位置づけ、お母さんもだいぶ慣れてきたようだ。


 一昨年まではもうちょっとしっかりしていたのに――いつかお母さんがため息交じりに吐いた独り言をわたしは思い出す。


 お母さんは、そんなおばあちゃんを施設に入れようか悩んだらしい。その頃のわたしたちは別の町に住んでいて、もしくは両親がすむその町に連れてこようか、とも。

 でも、急激な環境の変化はよくない症状を起こしかねない――お医者さんはそう言っていたそうだ。

 だから、わたしたちがこの町にやってきた。割に都会っ子だったわたしたち家族は、良く言えば自然の色濃い、悪く言えば最たるものもない、どこか寂しいこの町へと。

 施設も考えながらだったとしても、やれるところまでやってみよう――お父さんは言った。それはきっとお母さんのことも気遣ってのことだったのだと思う。



    ●



 少なくとも、去年の今頃まではそんなことはなかったはずだ。

 それは例年のお決まり。

 忙しいお父さんのことを気遣ってか、年に一度、お盆前にはおばあちゃんたちの方から我が家を訪ねてきていたからだ。

 おばあちゃんと、そしておばあちゃんと一緒に暮らす鴇子ときこ叔母ちゃん。


「おばあちゃんが来るとタバコ臭くなって嫌だわ」


 言いながらもお母さんは、おばあちゃんと鴇子叔母ちゃんと一緒に過ごせて、とっても嬉しそうだった。それが一昨年の話。そして今までの話。


 だけど、去年わたしたちの家にやってきたのは鴇子叔母ちゃんだけだった。


「ごめんね、姉さん。今日はみんなの顔だけ見せてもらって帰るわ。母さんがね、急に今年は旅行に行きたいって言い出してね。なんだか最近、言ってることがあやふやになってきてちょっと心配ではあるんだけど」


 鴇子叔母ちゃんはそう言っていた。


「あんたも早く結婚なさいよ」何かにつけてお母さんに言われる鴇子叔母ちゃんは、お母さんと六つ離れた妹だ。育児疲れもないせいか、四十に届くっていうのに、いつだって若々しく見える。

 いつも少し地味目の黒っぽい服を好んで着ていたけど、長く美しい黒髪と相まって、どこか神秘的だった。そしてわたしはそんな鴇子叔母ちゃんが大好きだった。


「もえぎも大きくなったわね」


 鴇子叔母ちゃんが言って、お母さんが応える。


「そりゃそうよ、今年から中学生だもん」


 鴇子叔母ちゃんは優しく微笑んで、


「そっか。じゃあ、中学生の部屋でも偵察しますか」


 無邪気にウィンクした。


 わたしはちょっとだけ照れながらも、自分の部屋に鴇子叔母ちゃんを連れて行った。

 こじんまりとした机の上に並べられたお気に入りのアクセサリー。壁に張られたアイドルのポスターとコルクボード。コルクボードは溢れんばかりの写真で埋め尽くされている。

 ベッドに腰掛けた鴇子叔母ちゃんの目は、一枚の写真に止まった。


「懐かしいわね、これ。ホント大きくなったわ、もえぎ」


 その写真は、小学生に上がったばかりのわたしと鴇子叔母ちゃんのツーショット。結構な時が経つというのに、叔母ちゃんは写真のまま変わらないように見えた。

 やがて鴇子叔母ちゃんは机の棚に収められていたアルバムを手に取る。それは七五三の記念の品。叔母ちゃんはページをめくっていく。写っているのは七歳のわたし。着物姿の前半が終わると、お色直ししたドレス姿に変わる。ぎこちない笑顔を浮かべた当時のわたしが選んだのは淡い水色のロングドレスで、花飾りとレースがあしらわれていた。

 立ち姿の隣のページで、ドレスと同色の花飾りを頭に付けたわたしが見上げている。カメラマンの要望に精一杯背伸びするわたし。その姿を叔母ちゃんは瞳を緩めて眺めていた。

 床に膝をついて、花束を両手に抱える七歳のわたし。ふわりと広げたドレスの裾で映えるよう、上から撮り下ろされた写真。まるで日の丸の構図のように。


「ホント、大きくなったわ」


 懐かしむような瞳は、やがて現在のわたしの顔を捉える。

 お母さんの血を色濃く継いだわたしのあっさり顔とは対照的に、ほりの深い整った目鼻立ち。美しい顔をした叔母ちゃんの柔和な瞳、そこに真剣な色が灯っていく。


「ずっと迷っていた。でも、大きくなった今のもえぎになら、私は託したい」


 鴇子叔母ちゃんは、肩に掛けていたバッグの中から、長細い包みを取り出した。

「断ってもいいのよ」そう言ってから、鴇子おばちゃんは包みを開ける。中から出てきたのは、丸みをおびた星が乗っかる杖だった。


 星の鮮やかな黄色に、持ち手の部分は柔らかなピンク色。ファンシーな、まるでおもちゃみたいなそれを鴇子叔母ちゃんは持ち上げる。


「これの名は『莫耶ばくや』――〝魔法杖マジカルステッキ〟よ」


 冗談みたいな発言だった。それでもわたしは、鴇子叔母ちゃんの真剣な表情に固唾を呑んで聞き入る。

 そして鴇子叔母ちゃんは語りだした。


 それは不穏でいて、だからこそにとっても魅力的な秘密。誰しも願う、特別な十代の時間だけに許された物語、その主人公になれる魔法。それを紡ぐ許可証を得られた存在のお話――つまりは魔法少女の物語。


 危険の二文字を常にちらつかせる鴇子叔母ちゃんの話に、しかしわたしはすごくときめいていた。


 怪人――世の中にはびこる不純の集合体を、叔母ちゃんは『セルライト』と呼んだ。魔法少女はさまざまな姿かたちをしたセルライトと戦い続ける宿命なのだという。


 子供だましにも似た話に、だけど茶化すことなく聞き入るわたし。鴇子叔母ちゃんの真っ直ぐな眼差しを見た瞬間から、分かっていた。その話のすべてが事実であると。


 鴇子叔母ちゃんは言った。


「私もかつては魔法少女だったのよ。でも、それはもう、ずっと昔の話。長らく不在だったその崇高なる存在になれるとしたら……」


 鴇子叔母ちゃんはちらとわたしの顔を見た。そして、


「……それは、もえぎだ、って叔母ちゃんは思ってるの」


 胸が高鳴る。わたしの頭は、『魔法少女になったわたし』のことでいっぱいになっていく。

 見つめる叔母ちゃんの前で、わたしは頷いていた。自然と、だけど力強く。

 ふうっと力が抜けたように、叔母ちゃんは表情を崩す。微笑み、でも瞳の端には輝くものが映った。


「もえぎ、あなたならきっと立派な魔法少女になれるわ」


 鴇子叔母ちゃんがそっと杖を持つ手を伸ばす。

 わたしはしっかりと、かつては叔母ちゃんのものだった杖を掴む。


 その瞬間だった。

 わたしの頭を何かがかすめていった気がした。まるで閃光が駆け抜けていったような。わたしはその先をぼんやりと目で追った。窓の外の、遠くの空を。


「……えぎ、もえぎ、大丈夫?」


 どれだけそうしていたのだろう。心配する叔母ちゃんの声で我に返った。


「う、うん。なんでもないよ。ちょっと緊張しただけ」


 そう言って、えへへと笑う。

 叔母ちゃんはわたしの目を真っすぐに見て、小さく頷いた。 


「人知れぬ存在の魔法少女は、その姿をけして人前にさらしてはならないの。でも……それでも、叔母ちゃんの最初で最後のわがまま。魔法少女になったあなたの姿を目に焼き付けさせて」


 鴇子叔母ちゃんに教えられた通りに、わたしは杖を天高く突き上げる。


「スターライト☆ドレスアップ」


 着ていた水玉のワンピースがきらめく。生地はまるで数多の白い羽毛のように変化して、宙に舞う。と、次の瞬間には、フリルも愛らしいチェリーピンクを基調としたミニドレスとなって、わたしの体を飾っていた。


「〝魔法装束マジカルドレス〟も良く似合っているわ」


 滲んだ涙を拭いながら、叔母ちゃんはそう言ってくれた。

 そして、鴇子叔母ちゃんはわたしに、魔法少女としてのすべてを教えてくれた。


 その信念を――。


 戦い方を――。


 決して犯してはならない『禁忌』を――。


 わたしの大好きな叔母ちゃんは、わたしの魔法少女としての先輩は、


「――いつだって見守っているからね」


 最後にそう締めくくった。


 大好きな鴇子叔母ちゃんの、魔法少女としての先輩のためにも。わたしはその宿命を全うしようと固く誓った。



 だけど……。



 それから数か月後のことだった――鴇子叔母ちゃんが行方不明になったと知らされたのは。


 民生委員と名乗る人から電話があって、お父さんとお母さんは出かけて行った。この家に。当時はおばあちゃんと鴇子叔母ちゃんが二人で住んでいた、この家に。

 今でも鮮明に覚えている。帰宅したお父さんとお母さんの表情を。わたしは即座に、何か良くないことが起こったのだと直感した。


「もえぎ、あっちへ行ってなさい」


 温和なお父さんは普段見ることもない険しい表情で、怒鳴るように言った。

 わたしはダイニングの席を外しながらも、ドアの外で盗み聞く。


『とにかく……あの状態のお義母さんを一人置いておくわけにはいかないだろう』


 唸るようなお父さんの声に、呆然とした調子でお母さんはなんとか言葉を絞り出した。


『鴇子は……鴇子はいったいどこに』


 少しの沈黙のあと、


『わからない……だが、君も見ただろう。荒れ果てた家の様子を。民生委員さんも言ってたけど、あの分じゃ、いなくなってから間もない、ということはないだろう』


『壁のひどい落書き、『正』の文字をいくつも並べたようなあれを、本当に母が……」


 お母さんの言葉は掠れて消えていく。


『おそらく民生委員さんの言っていた通りだろう。たぶんお義母さんの記憶は曖昧になりつつあるんだ。朝晩の食事をとったかどうかも分からないくらいに。だから、あの正の文字だって、それを書き記そうとしたんだろう。お義母さんなりに頑張っていたんだって、君が良い方に取ってあげなくちゃ』


 お父さんの言葉に、お母さんは声を上げて泣き出した。

 再びの沈黙は、きっとお母さんが泣き止むまでお父さんが待っているからだろう。

 じっくり過ぎ去った時のあとで、お父さんは再び言葉を紡いだ。


「それにしても鴇子さんだ。捜索願は出してきたものの、なんらかの事件にでも巻き込まれていなければ良いんだが……」


 めまいがした。わたしの中で、悪い想像はどんどんと膨らんでいく。


 わたしを見守ると約束した鴇子叔母ちゃんが、急にいなくなるなんてありえない。わたしに魔法少女としての力を譲り、数か月。だけど、地域の人たちが鴇子叔母ちゃんの姿を見なくなったのはそれよりずっと前からだという。わたしの脳裏にふと嫌なイメージが浮かぶ。


「……わたしのせいだ。わたしに力を譲ったばっかりに鴇子叔母ちゃんは――」


 ――セルライトに襲われたんだ。


 口には出せなかった。口にしてしまったら、お終いのような気がした。


 だから。


 修繕したこの家へと引っ越すことになったのは、わたしにすればありがたい話だった。


 わたしは希望を捨てていない。


 この町は――『巣』だ。セルライトが毎夜のように湧いて出る。セルライトと共にあるのが魔法少女だとしたら、叔母ちゃんは力を失ったあともその動向を探っていたはずだ。

 なら、セルライトとの闘いの日々は、いつか叔母ちゃんの消息を掴む手掛かりとなるはずだ。それが蜘蛛の糸を掴むほどの頼りないものであったとしても、わたしは諦めない。


 希望を捨てないことこそが希望なのだ――魔法少女の信念を教えてくれた時、鴇子叔母ちゃんはそう言っていた。


 毎夜に及ぶ戦いが肉体や精神をすり減らしたとして、すがるべき信念さえあれば魔法少女の宿命を貫くことができるはずだ。わたしはひとり奮い立つ。


 ――と。


「ごちそうさまでした」


 わたしの隣であーちゃんが言った。


「もえぎ、あんた何やってんの?」


 ちっとも減らない夕飯越しに、頬杖をついたお母さんが呆れた調子で言った。

 えへへ、と笑っては、ご飯をかっこむ。そんなわたしのことなんてお構いなしに、


「お母さんや、タバコはどこだったかの?」


「タバコはありません。おばあちゃん、今日はシケモク探しに出かけないで下さいよ」


 おばあちゃんとお母さんは、毎夜の約束事じみた会話を交わしていた。


 わたしの方の約束事は、あと数時間後にやってくるだろう――。

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