第28話 トラール男爵

 

 領主館もスムーズに入る事が出来た。

 リビエールの時はもっと手間取っていたので、それだけセシルが優遇されている事が分かる。

 この日は領主館の離れに泊まる事になっている。


領主館は人を圧倒するような大きさで、門から建物までの距離もかなりあり、馬車で中に入っても何の違和感もない程だった。

 辺境伯の領主館の2倍以上はありそうだった。

 だがセシルには落ち着いて見ている余裕は無い。


「はっはやく……」


 緊張で大きい方が漏れそうになっていた。

 ようやく馬車が止まり、降りるとキッチリ整えられたビッとした執事が丁寧な挨拶をしようとするが、それをイルネが遮る。


「申し訳ない。挨拶は改めてさせていただくので、セシルをトイレへ案内していただけないでしょうか? ギリギリなのです」


 話を遮られてカチンと来た執事だったが、漏らしそうとの話を聞いて慌てて案内する。

 館が大きすぎてトイレに行くのに時間が掛かかってしまうのだ。

 セシルはお尻をキュッとしながらつま先立ちのような変な体勢でうねうねと歩く。


「なっ……なんでこんな遠いの」


 そう小さい声で呟く、涙目で顔は冷や汗が出ている。


 執事も焦っていた。

 トラール男爵にセシルをしっかり持て成すように言われていたのだ。

 男爵がかなり気合を入れて、この日の為に時間をかけて準備をしていた事も知っている。

 そんなに大事にしている客が漏らして恥をさらしてしまったとなると、執事の責任になってしまう。

 下手したら失職してしまう可能性がある。

 失職の原因が客の脱糞などと絶対に認められない。



「こっこちらでございます」


 何も言わずセシルはトイレにサッーと消えていく。

 恐らく間に合ったようだ。と執事はホッと息を付く。


 セシルが用を足す間、気まずい空気になったイルネと執事が挨拶を交わす。


「先ほどは挨拶中に大変失礼しました。セシルの護衛兼侍女を務めます騎士爵のイルネ=

ローレンスと申します」


「ご丁寧にありがとうございます。今回、セシル様御一行をおもてなしさせていただきます。執事長のアラールと申します。何卒宜しくお願い致します。」


 そこで会話が止まりまた気まずい空気が流れる。

 何しろトイレの前であるし、初対面の人とうんこ待ちなのだ。


 しばらくすると、ホッとしたような顔でセシルが現れた。

 トラール男爵の人を待たせている事を思い出して慌てて謝罪する。


「すっすみませんでした。緊張してしまって」


「気にしなくてもよろしいですよ。この館は広うございますから、トイレの際は早めに仰ってください。あぁ申し遅れました。執事長のアラールと申します。何卒良しなに」


「はいっ! えーと、セシル=トルカです。よろしくお願いします」


 セシルは平民であるので特に名字は無いのだが、平民であっても村を出た先で同名の人がいた場合、区別する為に村の名前を名字として使う事もある。

 セシルは今後、貴族との付き合いが増え名字が無いとバカにされる可能性がある為『村の名前を名乗りなさい』とリンドルから指示されていた。


「では参りましょうか。お館様がお待ちです」


 ここで領主を待たせている事に気付いてセシルは慌てる。

 イルネはその様子を見て、セシルの手を取り「落ち着いて。大丈夫だから。慌てる必要はないわ。深呼吸」


 手を取られたセシルはビクッとしたが、イルネだと分かり安心する。

 歩きながらも何度か深呼吸を繰り返し落ち着くことが出来た。


 館の入り口付近まで戻ると武器を預け少しだけ身軽になったダラス達が待っており、改めて領主が待つ部屋に向かった。


 ライムとマーモは馬小屋でエサを与えてくれるそうだ。

 2匹には大人しくしているように言いつけておいたので、何も問題は起きないだろう。


 アラールの案内について行く。

 立派な美術品が所々飾られており、見るものを圧倒する。

 アラールが立ち止まり「こちらでございます」と声を掛けてきた。

 トラール男爵の待つ部屋は豪奢な扉で、扉を開くための侍女が二人も控えていた。


「失礼いたします。セシル様御一行到着いたしました」


「入るが良い」


 侍女がゆっくりと扉を開けると、そこは食事をする部屋だった。

 豪奢な絵が天井や壁を覆いつくすように描かれており、高級そうな壺が部屋を飾っていた。


 セシルだけでなく騎士までもが息を呑むほどの豪華さだった。


 セシルたちがあまりの豪華さにポカンとしていると、男爵自らがセシルの元に歩いてきた。

 通常、上位の人物から歩いて近付くなどあり得ない。


 それに気付いたサルエルが慌ててセシルを小突き小声で伝える「しゃっ謝罪を」

 セシルも自分の失態に気付き慌てて謝罪を口にする。


「もっ申し訳ございません。絵があまりに綺麗で」


 8歳の割に機転の聞いたセシルの言葉にサルエルやイルネは驚く。

(いつの間にこの様な事を言えるように?)

 だが、セシルは思った事を口にしただけである。


「そうかそうか! この良さが分かるかね! 見事だろう? 王都で一番の絵師に描かせたのだ」


「はい。凄いです。この様な凄いのは見たことがございません」


 そこで再度サルエルに脇腹を小突かれ、名乗っていない事を指摘される。


「もっ申し遅れました。セシル=トルカです。よろしくお願い致します」


 お腹と腰に手を当てて貴族の礼をする。


「我輩はジャック=トラール=モルザックだ。妻は所用で数日おらぬでな。挨拶出来ずに申し訳ない。さぁお腹が減っているだろう? 早速頂こうではないか。気に入ってくれると嬉しいのだがね」


 見た目は40代半ばで黒髪をオールバックにキッチリ撫でつけており、口ひげがあり年齢以上の貫禄がある。体格は細身でありながら体は引き締まっている軍人のようだ。

 お金にがめつく、領民に重税を課し贅沢をする。と、とことん評判の悪いトラール男爵だが、話すと意外と好印象を抱かせる。

 平民に対して横暴に扱うのは日常茶飯事だが、自分の利になると判断した人物に対しては、自らへりくだる事も厭わないのだ。

 館で働く平民の使用人も意外にも好待遇で評判が良い。それも好待遇にする事によって自分が得をすると知っているからこその行動だ。

 厄介な事に『出来る』クズなのだ。

 身内には甘い為、不正なども中々露見しない。


 イルネ達護衛はマズいなと警戒度をグッと上げた。

 8歳であるセシルなら目の前で優しくされれば、その人は優しい人と判断してしまうだろう。

 裏の顔なんて判断する力はない。

 イルネはサルエルからの厳しい指導も、逃げ出したい気持ちに駆られながらも愛情がある事を感じているが、もしセシルが直接サルエルの厳しい指導を受けたら、サルエルは『怖い人』であり『嫌いな人』となってしまうだろう。


 8歳と言う年齢は人を判断するには幼過ぎる。

 そういう点で、表面上『良い顔』をするトラール男爵は非常にマズい人物だ。


 領主が長いテーブルの上座に座り、その横にセシルが案内された。

 これも異常だ。

 普通、隣の席は身内か配下の者を配置する。

 初対面の、ましてや『平民の子供』に対してこの領のトップである男爵があり得ない対応だ。

 身分をあまり気にしないリンドル辺境伯でさえ、食事の時の席はセシルを下座に座らせた。

 これはリンドルの性格どうこうではなく、領主の地位とはそういう物なのだ。

 さらに貴族によっては同じテーブルに着く事すら汚らわしいと避けるくらいである。


 領主の隣に座らされたセシルの周りはトラール男爵の重鎮達が座り、下座の方にセシルに同行している騎士達が座った。


 しかし準貴族である騎士の立場では、男爵に対して席順如きで文句を付けるわけにはいかない。


「私は騎士でもありますが、セシル様の侍女でもありますので、セシル様の後ろに付かせていただきたいと思います」


「よいよい。セシルの世話は私の侍女がするから安心なさい。そなたもたまには職を忘れて一緒に食事をなさい。私のもてなしに問題があると言うなら別だが?」


 優しそうな雰囲気だったトラール男爵の空気が急に変わる。


「いっいえ、そのようなつもりはございません。ではお言葉に甘えて私もお食事をいただきたく存じます」


「うむ。料理長が腕によりをかけて作ったそうだ。楽しんでくれたまえ。がっはっはっ。ああそうそう。そこの女性もいっしょに席に着いて食事をしたまえ」


「私が男爵様とご一緒の席に着くなど恐れおおございます」


「元は貴族であろう? 気にするな。二度言わせるな」


「……有難く」


 サルエルも席に着くことになった。


 これでセシルは完全に孤立してしまった形だ。

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