題:微笑む人

三衣 千月

題:微笑む人

 小さな頃から、絵を描くことが好きだった。腕をいっぱいに伸ばして、画用紙に殴りつけたクレヨンの赤や緑。時にはみ出したりもしたが、色とりどりの世界を刻み付けるのが好きだった。


 私には、それなりの才能というものがあったのだろう。よくそう言われたし、自分でもそう思っている。

 自分の中にあるイメージを、世界を重ね合わせて、イメージと世界の輪郭をぼかすように、そこに色を塗る。それだけだった。

 学生時代には、よくコンクールで賞を貰ったし、周囲からの賞賛は嫌な気分ではなかった。


 けれど、専門学校に入ってからはそうでもなかった。

 義務教育や通りいっぺんの普通教育では、それほど芸術を追求しない。だから、その中でいくら秀でていようとも、絵の才を測り取ることはできない。

 誰もが満点を取れるテストで100点を取ったところで、他より抜きんでている証明にはならないのだ。

 そんな浅すぎる芸術教育に嫌気がさして、独学で芸術を深めた変人たちの集まりが専門学校であり、私はつまり井の中の蛙だった。


 『井の中の蛙、大海を知らず。されど空の青さを知る。』

 私が最も嫌いな言葉だ。


 前半はいい。狭い範囲にこだわっていては、大観を得ることはできないから。問題は、どこの誰がつけたかも知らぬ後半部分だ。

 井の中から見える空など、やはり切り取られた空の一部でしかないし、空を飛んで実感とともに空を得たわけでもない。ただ強がって自らの得意とするものは必ずある、と無責任に言い放つ精神の在り様が気に食わない。

 結局のところ、己が矮小な存在であることの反証になってらず、ややもすれば井戸から出る気概のない閉じこもった存在であることを強く思わせる言葉ですらある。


 海を知らぬなら海へ行け。空を知らぬなら跳んでみればいい。


 専門学校で自らの未熟さを知った私は、ありとあらゆるものを学んだ。

 それは技法であったし、精神の在り様であったし、歴史であったし、人づきあいだった。

 絵は独りで描くものだが、誰かに見られなければそれは絵画ではない。芸術ではない。幼いころの、画用紙への落書きですら、親が鑑賞者である。見られない絵というものは、それ以下、それ未満の存在だ。


 そう考えてがむしゃらに20年。それなりに苦労はしたが、その甲斐あってなんとか絵画で身を立てていける程度にはなった。かつての専門学校の同期たちも、その一部は芸術方面で活躍している。

 誰もかれも苦労をするべきだ、とは思っていないが、過去の経験は、必ず自分自身を助けてくれる。それが、私の経験論であり持論だった。そう、――だった・・・




   〇   〇   〇




 専門学校時代の同期が近くまで来るというので、久しぶりに会うことにした。

 普段はアトリエにこもりきりだから、外に出た時の日の光はやけにちりちりとしていた。


 駅前のカフェで、懐かしい話や今後の展望などを述べ合う。


「絵画一本で食っていけてるのは、きっぱりすごいと思うよ」

「ありがとう。そりゃあ、苦労しているからね」

「昔からの、鬼気迫る表情で描くクセ、まだ治ってないんだろ、どうせ」

「別に直すつもりもないよ」


 学んだものを、感じたものを、キャンパスに写し取る。自分は未熟者だったのだから、良いものを創り出すには全霊をぶつけなければならない。それでも、まだ足りないと感じるのは、まだ絵画の奥深い部分に到達していないからだろう。

 私はまだまだ、井の中にいるのだ。


 話がてら駅から商店街のアーケードを歩く。

 この辺りも、大型商業施設の影響か、ずいぶんとさびれてきた。シャッターとシャッターに挟まれた一角に、見慣れないギャラリーがあった。急ごしらえの、まるではりぼてのような安っぽい作りの内装だった。


「おい、入ってみよう」

「……そうだな」


 おそらく、美大のちょっとした集合個展か、駆け出しの画家がやっているのだろうと何の気は無くギャラリーに入った。ぎくしゃくと、中にいた若い男性が挨拶してくる。

 思ったとおり、近所の美大の個展で、授業の一環としてスペースを借りて絵を展示しているとのことだった。


「若い時期にしか描けないものってのがあるからな。これなんか、いいな」

「そうだな。色使いが瑞々しい」


 粗を探すような真似はしない。

 真摯に絵画に向き合っていることは、作品を見ればだいたいわかるし、絵を描いた人物の人となりも、なんとなく見えてくるものだ。


 ギャラリーの、一番奥に、その絵はあった。


 それは一枚の人物画。

 題を『微笑む人』と記してあった。

 どこかのアパートの一室を背景に、椅子に座って静かにこちらを見ているであろう・・・構図。

 その人物には、顔がなかった。


「なんだこりゃあ……」


 同期の友人はそれきり言葉を失った。

 私も、言葉というものをその瞬間だけ忘れた。


 美は、沈黙を強いる。


 おそろしく長い時間そこに佇んでいた気もするし、ほんの一瞬だけだった気もする。

 ふらふらとギャラリーから出て、商店街の薄汚れたアーケードの天井を見る。


「ありゃあ、天才だな」


 友人が隣でぷつぷつと言った。

 あの絵からは、作者のことは何一つ分からなかった。それなのに、描かれた人物が微笑んでいることだけ、はっきりと分かった。顔のない絵だったというのに、それだけがはっきりと焼きついた。どのように微笑んでいたかも思い出せないが、微笑んでいたことは意識に刻まれている。


 私は、これまでの生を振り返った。

 絵筆を握り始めた時からすれば、30年近くにはなるだろうか。


「30年か……ずいぶんと長い時間を無駄にしたなあ」


 理解ができるとか、できないとか、そういった次元の話ではない。

 あれは、努力や学びでなんとかなる類のものではないと、私の直観が告げていた。


「良い悪いと、売れる売れないは別さ。お前は絵で身を立てているじゃないか」

「いや、もうやめておくよ。真の才能には道を譲った方がいい」

「……そうか」


 友人は、それきり何も言わなかった。

 私は、その日を境に筆を折った。井の中の蛙が外に出れば、轢き潰されることもあるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

題:微笑む人 三衣 千月 @mitsui_10goodman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ