盗まれた大事なもの
憂杞
盗まれた大事なもの
「ねぇ。私の大事なアレ、盗んだでしょ」
――なんだ、怒ったような顔して。
「あなたが盗んだことはもう分かってるのよ。早くアレ返して」
――アレって? 何のことだよ。
「とぼけないで。こっちは昨日からずっと
――おいおい、冷静になれって。ストレスが溜まっちまうだろ。
「ずいぶん余裕ね、
――落ち着け。まず確認したいことがあるんだ。
「……何よ」
――昨日から失くしてるって言ったよな。最後にそれを見た時って具体的に
「昨日は一日じゅう家にいたわ。その朝までは確実に私の手元にあったのよ。あなたも知ってるでしょう?」
――単に紛失しただけの可能性もあるだろ。外ではないにしても、家の中に落ちているかもしれない。
「ずっと肌身離さず持っていたのに、失くすなんて有り得ないわ。誰かさんに盗られでもしない限りはね」
――どうだか。一度は部屋じゅうを探し回ってみるべきじゃないか?
「ちゃんと探したの。でも見つけられなかった。本当はあんな大変なこと、したくないのに」
――あぁそうかい。僕はそもそも、その大事なアレが何か知らないんだけどなぁ。
「……いつまで白ばっくれるつもり?」
――それって失くしやすいくらい小さなもの?
「確かにアレは、ベッドの下に入り込みそうなほど小さくはある。でも対策はしてるわ」
――なるほどな。あくまで盗まれたって言いたいわけだ。
「あなたが盗んだことは明らかなの。確証があって言ってるんだから」
――ふぅん。ベッドか……そういえば、ベッドと聞いて思ったけどさ。
「何? またはぐらかす気?」
――今どこに住んでるんだっけ。アパート?
「何を馬鹿なことを。一軒家に決まってるわ。私達がアパートに住めるわけないもの」
――他の人と一緒に? 今も?
「夫婦で暮らしてるでしょ、今は。なんでそんな分かりきったことまで確認するの?」
――夫婦で、か。じゃあ訊くけど……そんなにも僕を疑う理由は何だ?
「……呆れた。そんなの、あなたが私と一緒に住んでるからに決まってるでしょう? 今も同じ我が家にいながらよく言えるわ!」
――はっ。こちとら住まわせてくれて感謝はしているが、それで僕を泥棒呼ばわりするのは違うんじゃないか?
「泥棒よ。私の大事なものを盗んだのだから。あなたにはアレを奪う動機だってあるでしょ?」
――その動機とやらを聞こうか。
「私が初めて手にしたアレを、あなたはずっと羨ましそうに見ていたもの。それだけじゃない。あなたは私の目の前で何度もアレを取り上げて、我が物顔で持ち去ろうとしていたじゃない。忘れたとは言わせないわ」
――仕方ないだろ、僕にとっても大事なものなのだから。君はどうだ? 君にとってはアレがどう大事だと言うんだ。
「逆に訊きたいわ。何かおかしいというの?」
――なんであんなものを急に欲しがった? あんな飾り気のないもの、今まで目もくれなかったくせに。最初は僕のために買ってくれたものと思ったくらいだ。
「とんだ勘違いね。あなたには……」
――僕には?
「……私の苦労なんて分かるはずないわ」
――何の話だ?
「私にとってのアレはね、病院で使うものなの」
――は? まさか、大事にしている理由って。
「…………」
――まぁ、そうだな。分からないだろうな。僕には永遠に体験できないことだから。
「まだ返してくれる気はないのね」
――納得できないからな。アレは君にとって、いや、君みたいな人にとって絶対に欠かせないものか?
「……全員がそうとは言い切れないかもしれない。でも私は駄目なの。アレがないと不安で不安で堪らなくなるのよ」
――そんなに大変なのか。これからの君は。
「大変よ。でも……ごめんなさい。あなたにもつらい思いをさせたかもしれない。ごめんね、構ってあげられなくて」
――!
「今度、あなたにも同じものを買ってあげる。私達が無事でいられることへの前祝いとしてね。だからお願い、もう少しだけ待っていてほしいの」
――あぁ、分かったよ。僕だって家族だ。それなら我慢する。
「よろしい。それでこそ、この子のお兄ちゃんよ」
――……クゥーン。
柴犬のココがしおらしく鳴いたので、私は彼の頭を撫でてやった。
裏庭で木椅子に座った私の前から、ココがそっぽを向いて離れていく。その奥にある傷んだ犬小屋の中に、黄色く丸いものがひっそりと転がっている。
「やっぱり、ここにあったのね」
私は立ち上がって大事なもの――テニスボールを拾い上げた。
これはいずれ来る陣痛を和らげるために買ったものだけど、まさかココが
空を見上げる。日が暮れ始めている。もうしばらくすれば、夫が仕事から帰る時間だ。
リビングへ戻ろうとすると、ココが駆け寄ってきた。彼は私の大きなお腹に顔を近づけては、また愛らしい鳴き声を上げている。どうやらお兄ちゃんも弟の誕生が待ち遠しいみたい。
妊娠してから七ヶ月が経とうとしている。不安に思うことも沢山あるけれど、それ以上に我が子に早く会いたいという気持ちが強い。近くで待っていてくれる家族もいるのだから。
……ところで、私がなんとなくでも犬の言葉が分かるのはなぜだろう?
ふと疑問に思ったけれど、深くは考えないことにした。
盗まれた大事なもの 憂杞 @MgAiYK
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