23 雲州の狼

 毛利家宿老・志道広良しじひろよしと、先々代当主・毛利弘元の継室である杉大方すぎのおおかたは、多治比猿掛城から一路、吉田郡山城を目指して、馬を疾駆させた。

 その疾駆してくる馬を見て、ひとりの若者が、道をよけたが、必死の想いの広良と杉大方は、特に気にも留めずに、先を急いだ。

 若者は、疾駆するふたりを眺め、ただごとではないな、と、ひとりごちた。


「吉田郡山城を門前払いされ……ならば多治比猿掛城で経でも読もうと来たが……これは……何かあるな」


 若者は、広良と杉大方の来た方向、多治比猿掛城の方を睥睨へいげいする。


「何ぞ……みやこを思い出すな、なあ……」


 そよ兵気へいきという奴かな、と言って、若者は、ひとつ伸びをして、そして、多治比猿掛城へ向かうのであった。

 もし、志道広良と杉大方が、ふだんであれば、この若者を見て、彼のことを思い出したかもしれない。


 ……かつて、法体ほったいで、「法蓮坊」と呼ばれていた、この若者のことを。



 出雲いずも

 月山富田がっさんとだ城。

 この、守るということに特化した、巍巍たる山城の前に、吉川家の雪はいた。

 安芸・多治比から駆けに駆け、愛馬を乗り潰す寸前にまで追い込み、ようやくにして辿たどり着いたのである。


 ……天に三ツ星が輝く夜の下、吉川家の姫は、城門をたたいた。


「お願いします! お願いします! 開門、開門!」


 なにゆえ、かような若い女子おなごが息を乱して城門を叩くと城兵が訝しんでいたが、何事かと駆けつけた尼子久幸が、すぐに開門するよう命じた。


はよう開けよ! 兄上の、御当主さま、尼子経久さまの奥方の姪御ぞ!」


 城兵は即座に門を開け、雪は開き切る前に飛び込んでくる。


「あ……久幸さま! じじ様、じじ様はいずこ?」


「落ち着け! 今、水なりと持ってくるでな……休んでいるうちに、お前が来たことを言うておく」


 久幸は柄杓ひしゃくに水を汲んでくるよう言いつけ、自身は経久に事の報告に向かった。

 経久は、ただごとでないことを悟り、早速、城門に走り、雪が何か言う前に彼女を抱き上げ、そのまま城主の間へと連れて行った。


「じ、じじ様、かような抱っこなど……恥ずかしゅうございます」


「さようなことを言うておる場合か! 第一、抱っこされたところで、それを怒る相手でもできたか?」


 経久は売り言葉に買い言葉で言っただけだが、雪はそれを聞いて、ぐっと押し黙った。

 はて、図星と言わないまでも、かすったか……と経久は思ったが、もう城主の間に着いてしまったので、黙って雪を下ろした。


「……さあ、雪。何かあったのか? このじじ様に言うてみい?」


 何だかんだ言っても、経久はこの義理の姪に甘い。国盗りと裏切り、そして策謀の中で生きている分、経久は、身の回りのことと人には正直かつ無欲だった。


「…………」


 雪は懐中から、多治比元就の書状を取り出す。


「多治比の、元就さまから……これを」


「……ふむ」


 仮にも、今となっては安芸の毛利家を仕切る立場にある男のふみだ。

 おろそかにはできない。

 経久は、威儀を正し、雪から押しいただくようにして、その書状を受け取った。

 この場にいない元就に対して一礼し、そして勢いよく、書状を振るようにして、一気に広げた。

 何を伝えてきたのか、それが気になったからである。


「…………」


 経久は文面をなめるようにして見て、読んで、そして……最後はため息をついて、ゆっくりと書状を床に置いた。


「……はあ」


 経久が書状を読むのを、固唾を飲んで見守っていた雪は、元就が何を記したのかを聞く。


「……じじ様? 元就さまは何と?」


高師直こうのもろなお


「はあ?」


 突拍子もない、突然の、南北朝時代の足利家の執事の名に、雪は不得要領な表情かおをした。


「いや……高師直の名が、何で今、出てくるのです?」


「高師直が……たしか、兼好法師に書かせたくなったワケがわかるのう……これはアレじゃ。そう、アレじゃ」


「兼好法師?」


 今度は徒然草の著者である吉田兼好。

 一体、元就は書状に何を書いているのか。

 雪はそっと書状に手を伸ばし、経久が何も言わないので、そのまま手に取って、引き寄せた。

 長い。

 しかも、同じ言葉が何度も出てきて、くどい。

 それが、元就の書状を見た印象だった。

 雪が難儀しながら黙読する横で、経久はかいつまんで言うと、と口を開いた。


「安芸武田家・武田元繁。これが、大内から離れ、そして今、尼子からも離れて、安芸を盗ろうとしている……そのため、毛利、吉川も、この国盗りに呑まれる……そう、前段で書いてある」


 雪は今、その前段を呼んでいる最中だったので、黙ってうなずいて、経久に先をうながす。


「……この機に、毛利としては尼子につきたいと書いておる。書いておるが……


「何故ですッ」


 雪が顔を上げて抗議する。経久は落ち着けと言って、それから説明する。


「多治比どの自身が記しておる……安芸武田家は、尼子からも離れると……なれば、今さら、尼子についたとして、何となる?」


「それは……安芸武田家に攻められた場合、じじ様が兵を……」


「無理じゃ」


 経久は

 天性無欲正直の人であり、可愛い姪のために動いてやりたいとは思うが、その前に、尼子経久という男は国主であり、国盗りが生き甲斐だ。その欲望は、誰にも止められない。


「……今、石見だけでなく、さらに備中びっちゅうの方にも手をかかっておる。今、動かせるのはこの月山富田城の城兵くらいよ」


 それも、城の守りを疎かにするわけにもいかず、うかつに動かせない。雲州の狼・尼子経久が君臨しているとはいえ、尼子家勢力圏内の国人たちは反覆常らず、その支配は不安定であった。


「……なればこそ、安芸は安芸武田家に盗らせるつもりであったが、当てが外れたわ」


 安芸武田家には、経久の弟にして腹心の尼子久幸の娘を嫁がせてある。安芸武田家が安芸を制した暁には、外戚として影響力を及ぼし、間接的に安芸を支配するつもりでいたのだ。


「……え。では、なにゆえ元就さまは、わたくしをじじ様の元へ向かわせたのでしょうか」


 たしかに元就は、大内家もも、安芸には来られないからこそ、安芸武田家の出番となった……というようなことを言っていた。ならば、尼子経久が安芸へ出兵できないことも理解していたはず。なのになぜ……吉川家の雪に、尼子経久宛ての書状を託して、月山富田城へ行かせたのか。


「……それは、その文の後段に書いてある。まさしく……高師直が兼好法師に、を書かせたくなる気持ちが分かったわい」


 経久は戸惑ったように、頭をがしがしと掻き始め、雪が書状の続きを読む横で、近習に弟の久幸を呼ぶように言いつけていた。


「……まあ、わしもかつて、出雲という国を失ったことがある。気持ちは分からんでもない……それこそが、わしが国盗りをするりどころではあるが」


 尼子経久は文明十六年(一五〇〇年)、幕府や守護、そして国人らから反発を受け、その城を包囲され、守護代の地位から下ろされてしまったことがある。やがては復権するものの、以来、経久は国盗りに邁進まいしんするようになる。

 いつまた国を失うやもしれん。

 その恐怖が、失うよりは奪ってやれという、経久の野望の原点となった。


「……じじ様が何を言っているか分かりません。なぜ、国を失うということが、元就さまの、この文にかかわりがあるのでしょうか? それに、さっきから高師直だの、兼好法師だの……何が言いたいのです?」


 雪にとっては、尼子経久の経歴とその野望の来歴は、傾聴に値するものではあると思ったが、今、元就が何を書いてどうしたかったのかという目下の問題にとっては、大したことは無いと思えた。

 それにしても、この書状、くどい。

 なぜ、毛利弘元の子として生まれてだの、杉大方が継室として嫁いできてだの、今さらなことをつらつらと書いているのか。


「……ああ、もうッ! じじ様、読み終わったのなら、何が言いたいか分かりましたよね? 教えて下さい!」


 そのとき、雪は珍妙なものを見た。

 尼子経久が、柄にもなく、照れているのだ。


「……じじ様?」


「……雪よ、わしがおぬしにそれを読ませていること自体が特別なのじゃ。ということなら、言い訳が立つから、読ませておるに……」


 そう言って、そっぽを向いてしまった。

 そうなると、雪としても、このくどい文章を読みつづけるほか、無い。


「…………」


 そして、ようやく終わりが見えてきた。

 紙の端が見えてきた。

 有り得ないかもしれないがとか、もしかしたら万一とか、こんな私に本当にとか、一体いつまでつづくのかという文章の、ようやく最後の方に、こう書かれていた。


「吉川家の雪は、自分にとって大事な女であり、どうか匿って欲しい」


と。

 ちなみに、高師直は、恋文の代筆を、吉田兼好に依頼したと言われている。


 かつて――城を奪われたことがある多治比元就は、大切に思う存在を敢えて遠ざけた。

 そうすることにより、これからの血戦から、自らを襲い来る運命から、大切なその存在を、守ろうとしたのである。

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