19 安芸の夜天に三ツ星輝く時
「……小倉山城から出奔したそうだな……何が理由か知らんが、もし見かけたら戻るようにと伝えられているぞ」
「……そう」
いつもなら何か言って返す雪が落ち込んでいるのを見て、多治比元就は、居城・多治比猿掛城に連れて行くことにした。
宿老・
*
多治比猿掛城の城主の間に着くや否や、改めて、雪は自分が
「……まったく、じじ様の、尼子経久の弟たる尼子久幸さまの娘が正室としているのに、もう側室に……とか、ふざけているとしか思えない!」
「…………」
元就は両手を袖の中に入れ、沈思していたが、やにわに立ち上がった。
「……一大事だ」
「えっ? いや、そうだけど……というか、それで、引っかかることが……」
気色ばんでいる元就に、雪は満足しながらも、むしろそこまで凄まなくてもというぐらい、元就は立ち上がったまま、その場をうろうろと歩き回り出した。
「……このままではいかん、安芸武田家は……このままでは」
ついには髪の毛をがしがしと
「雪どの」
「は、はい」
そういえば、自分は元就にどうして欲しいと思ってここへ来たのかと雪は思いながら、うなずいた。
武田元繁の側室にと強要されることを止めて欲しかったのか。
たとえば、どこか遠くへ行こうと誘われるとか。
いや。
そんなことではない。
家を出奔したが、結局、出奔した時から、自分でも分かっている。
安芸武田家の勢威は巨大。
少なくとも、安芸の中では。
それに逆らうなど、愚の骨頂。
結局、元就に同情して欲しかったのか。
それとも、好いていたとでも、言って欲しかったのか。
この。
目の前の。
こじき若殿と呼ばれ、蔑まれつつも、
そう。
結局は、己の気持ちなど、無きものとされ、誰かの妻となる運命に抗いたかっただけだ。
それが弱小とはいえないまでも、国人の
知っている。
だが。
この、目の前の青年なら、こじき若殿という逆境から這い上がった男なら、自分のことを、そういう運命から救ってくれると、勝手に思っただけだ。
あの、夕刻の
自分はただ、己の願望を投影しているだけに過ぎない。
だから。
この、多治比元就は。
最初から、必要以上に自分に近づかなかったではないか。
そう。
最初から……。
「……何故、泣く?」
「何でもございません……失礼しました、多治比どの。これまでも……」
雪が涙をぬぐうのを、元就は真顔で見ていたが、ふと、何かを思い出したように、文机に向かった。
「雪どの、済まないが、ことは急を要する」
「はい、はい、分かっています……すぐに、小倉山城に、
「……何を言っておるのだ? そんな
「……え?」
暇とは。
この男は、この期に及んで、何を言い出すのか。
「良いか。安芸武田家が、有田城を返せとか攻めるとかいうのは分かる。元々は吉川の城であったが、ここ最近は、安芸武田家の配下の
分かるな、と元就は書状を書きながら言う。
雪としては、うなずくしかない。
「ところが、だ」
元就は、書き損じた紙を忌々しそうに丸めて捨て、新たな紙を出す。
「側室というか、いわば人質に雪どのを出せ、と言うて来た。これは、返せとかそういう話ではない。吉川家を屈服させたいのだ」
「そ、それはそうでしょう」
そもそも、そんな要求の目的は、それしかない。
いまさら、この男は何を言うのか。
「そうでしょう、ではない!」
激怒する元就に、雪としては、何をそんなに怒るのかと仰天して、思わず中腰になる。
「尼子経久どのの奥方は吉川家の御方。であるというのに、その係累である吉川家にこの仕打ち。尼子家の後押しを受けて、安芸を攻略していると思うておったが、これではちがう。話がちがう」
怒りに震える手を叩いて鎮め、元就は書状を書きつづける。
「……つまり、安芸武田家は、尼子家とも縁を切る気でいるのだ。そして、よくよく考えたら、尼子家も、元々は自らの手で安芸へ攻めないのは、
安芸武田家は、そこに気づいた。気づいたからこそ、大内家だけでなく、尼子家も手を出せまいとして、このような勝手な行動に出た。吉川家に、
「……そして、ことここに至ったからこそ、吉川家はもう、安芸武田家からの攻勢が来る。それは避けられない」
大攻勢だ、と元就は言い直した。言い直しつつも、筆を走らせ、ようやくに書状を書き終えた。
書き終えた書状を、
「そう……大攻勢だ、避けられない、大攻勢……それは……呑み込む……毛利家をも、な」
自嘲するように、元就はその言葉をこぼした。
むしろ本命は毛利。
おそらく、吉川家、有田城は分かりやすい標的として、攻略の対象となろう。
だが、その実、安芸武田家は、武田元繁は、毛利家を攻めるだろう。
吉川家は、腐っても鬼吉川だ。
いざとなれば猛将・宮庄経友を擁する家だ。
そして何より、当主そして嫡子である吉川元経が健在であり、攻略はできるにしても、容易ではない。
対するや、毛利家はどうだ。
当主はすでに
おまけにその幼主の外祖父である高橋久光が石見から出張って来て、毛利家を牛耳る始末。
そうなれば。
「そうなれば……目標はここか……」
元就のひとりごとに、雪はもうついていけないというか、経緯を追って話をしてほしいと思ったが、元就の鬼気迫る雰囲気に、それは
「……雪どの」
「は……はいっ」
不意に話しかけられ、雪は緊張する。
元就は今、何を考え、何をしようとしているのか。
「……これを」
元就は、先ほど完成させた書状を雪に差し出した。雪は黙って受け取り、その書状を見た。
そして宛て先を見て驚愕する。
「じじ様!?」
尼子経久殿、とそれは大書されていた。
「な、なぜじじ様が……」
「雪どの」
「は、はい」
「雪どのが、吉田郡山城に来たのは、というか、私と会えたのは、幸いだった」
実にありがたいことだ、と元就はうなずく。
何が何だか分からない雪だったが、少なくとも、自分が期待するような「ありがたいこと」ではないと感じた。
元就はそんな雪の心中を知らずに、言葉をつづける。
「おかげで……安芸武田家の、武田元繁の野望をうかがい知ることができた。安芸武田家は……大内家からも、尼子家からも独立し、独自の大名……というか、本来の安芸の守護代として返り咲くつもりだ」
その野望の前に、吉川家や毛利家、そして他の国人領主など、食われてしまうだろう……元就は、そう危惧する。
「…………」
雪としては、固唾を飲んで、元就の次の言を待つ。
自分を側室に、という話から、よくぞそこまで思いついたものだ、と素直に感心した。
「……この危機において、もはや……いや、ちがう……いや……うむ、そう、尼子家に頼るのが良いと思う」
元就の雰囲気が、急に元の穏便なものに戻った。
何だか物足りないな、と感じているのに気付いた雪は、おそらく、元就という男をもっと知りたくなっているのだ、とひそかに悟った。
「雪どの、この書状を託す。この書状を持って、尼子経久どのに会いに行ってもらいたい」
「この……書状、もしや……」
「そう、私は尼子家に頼る、と書いてある」
「えっと……」
「むろん、かような事態が
勝手に吉川家のことを頼むのも問題があると思うが、この際やむを得ない……そう、元就は付け加えた。
「いろいろ言いたいのは分かる。だが雪どの、時間が無い。安芸武田家が、さような、城を返せだの、雪どのを不埒にも求めるなど、言語道断な真似をしてきたのは、もう、返答によっては攻める支度が整っている、と見た方が良い」
「不埒……」
今さらそんな言辞を気にする余裕があるのか、と雪は自嘲したが、たしかにことは急を要する。安芸武田家の攻勢は、今、まさに動き始めているだろうことは、自分にも察せられた。
「……分かりました」
「おお。かたじけない……あと、吉川家には、小倉山城には寄らずに、直接に、
「何故?」
「時間が惜しい。あと、あの元経どの、お兄上のことだ……おそらく、雪どのを拘束してくるぞ。その書状も取られる」
「……たしかに。では、元就さま、参ります」
「頼んだ」
*
……夜天に三ツ星が輝いていた。
雪は今、馬上、月山富田城へ向かっている。
「……元就さま」
雪は嬉しかった。
元就は自分を頼りにしてくれる。
そのことが、今は嬉しかった。
一路、月山富田城へ。
今は行こう。
じじ様なら、尼子経久なら、何とかしてくれる。
……喜び勇んで馬に鞭をくれる雪だったが、元就の書状に、何が書いてあるかまでは、考えが及ばなかった。
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