16 兄の死
――安芸北部、山県郡有田城、陥落す。
その報を受け取った安芸武田家・武田元繁は床几を蹴り、しかし事の重大さを悟り、急ぎ己斐城の包囲を解いて、山県郡へと兵を向けた。
しかし有田城はすでに、吉川家が良将・小田信忠を入れており、にわかに攻略は不可能と思われた。
「おのれ!」
歯
が、小田信忠はその誘いには乗らず、有田城を堅守するに留めた。このあたり、もし毛利家が有田城を取っていたら、また対応が変わったろうが、吉川家は嫡子・元経は、状況がどうあろうが、家臣にうかつな真似を許さなかったので、信忠としても、安心して城にこもることができた。
「よくも、よくも……」
怒り心頭なのは、武田元繁である。
これまで破竹の勢いで、安芸を席巻してきたが、ここにきて、有田城とその周辺に足止めを食らうかたちとなった。
元繁としては、ここで停滞することは許されない。
なぜなら、時間が経てば経つほど、毛利家と吉川家――安芸国人一揆に逆転の目が出てくるからである。すなわち――大内家の大内義興、あるいはその家臣・
「大内か、陶か――どちらが来られても、今は困る」
最低限、有田城は奪還し、毛利・吉川、あるいは毛利だけでも叩き潰して併呑しておかねば、対抗できない。
焦る武田元繁であるが、彼にとって吉報がふたつあった。
ひとつは、大内家が海外――
「……くだらん、実にくだらん」
明との交易など、周防・安芸における支配権がなくば、砂上の楼閣だろう――武田元繁からすると、そう思えた。だが今は、時日を与えてくれるのならば、大いに励んでもらおうという皮肉な心持ちを抱いていた。
そして――もうひとつの吉報が、武田元繁を狂喜乱舞させ、そして彼をして、尼子からも自立を
それが――毛利興元の死である。
*
「ああ……これで安芸武田との……戦も……終わ……うっ」
毛利興元は、庶子の弟・
宿老・
そうこうするうちに、安芸国内を回ってきた多治比元就がようやく戻って来た。
元就は、有田合戦(この時は「第一次」となるとは知りようもない)の勝利に接し、これを安芸国人一揆の国人(地域領主)の協力の勝利として、加盟する国人たちに、その認識を共有するように話をして回ってきたところである。
興元は、元就を城主の間に招き、有田合戦の詳細と、安芸国内の外交、そして対安芸武田への今後を相談すべく、二人きりで密議を始めようとした。
「……兄上、酒でござるか?」
元就は、徳利を抱えた兄・興元に難色を示した。
「……許せ。祝い酒ぞ」
おぬしと私の策が成ったことへの祝いだ、と言われては、さすがの元就も、それ以上は苦言を呈すことは
「兄上、一杯だけですぞ、一杯!」
「分かった、分かった」
釘を刺す元就だったが、興元の嬉しそうな顔に、仕方ないかと酒を注いでやった。
ずっと、安芸国内の安定のため、尽くしてきた。
安芸武田家の叛乱に心を砕き、重圧に耐えてきた。
合戦の間は、酒は慎んでいたという。
もう一杯ぐらいは、乞われたら出すか。
……そこまで思案していた元就であったが、ふと目の前の興元が、杯を落として、そして床に伏していることに気がついた。
「……兄上? 兄上!」
汗が激しい。
息が荒い。
肌の色が
これは……。
「誰かある! 誰か! 殿が! 殿が危ない!」
急ぎ駆け付けたのは、興元の正室、高橋氏である。
「殿? 殿! いかが召されました!」
高橋氏に抱えられ、興元は半開きになった口から酒と唾液を垂らしながら、目を開けた。
「ああ……これで安芸武田との……戦も……終わ……うっ」
「殿!」
「兄上!」
興元は、ようやく自分が危篤に陥ったことに気がついたように、下から元就と高橋氏を見た。目をぱちくりとさせてから、元就に視線を合わせ、
「多治比、どの……」
「兄上」
「私は、もう、駄目だ」
「兄上!」
「いや、分かる……父上と、同じ……だ、これは。知っている、だろう?」
興元の息がさらに荒くなる。
ものすごい力で。
「聞、け」
「兄上……」
「私は、終わりだ……終わり、だが」
「もう、しゃべらないで!」
これは高橋氏の言葉である。興元は優しく頷いたが、すぐに表情を厳しいものに戻した。
「元就!」
「はっ」
生真面目な興元が、敢えて元就を呼び捨てにするところに、これからの発言の緊迫感が感じられた。
「元就……頼む、わが子を、頼む……」
このとき、興元の子、幸松丸はわずか二歳。当主としても、父としても、あまりにも早すぎる家督継承に、心配しかない。
「私は、もう、いけない……が、毛利は、幸松、丸、は……」
「…………」
「元就、お前しか、いない。他の者では……」
そこで興元はごほごほと咳き込む。咳き込むが、なけなしの力を込めて、元就を見すえる。
「頼む、元就。頼、む……」
「兄、上……」
「それ、と……お前、城、を」
「兄上?」
「京、に……ああ……すま、ない……」
「兄上? 兄上!」
「…………」
興元の目が見開かれたまま、硬直した。
異常を感じた高橋氏が、「殿、殿」と揺さぶるが、ぐらぐらと揺れるばかりで、興元は何も反応を示さない。
「ああ……」
高橋氏は泣いた。
元就は、天を仰いだ。
何ということだ。
あまりにも、急。
ようやくに、有田城を攻略し、維持し、安芸武田との戦線を膠着させ、あとは大内家の動きを待つばかりという状況を作り上げたのに。
しかし、大内家が動くことは無く、それが興元の神経を消耗させ、酒に溺れさせた。
毛利興元、この時二十五歳。
あまりにも若すぎる年齢の死、そして急すぎる死に、毛利家中は揺れる。
そしてそれは同時に、安芸国内において、安芸武田家・武田元繁の征服を抑止する者がいなくなったことを意味した。
……この時より、毛利家は、絶体絶命の危機へと転げ落ちていくことになった。
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