母親の直観

楠秋生

第1話


「ねぇ、お母さん、まきって覚えてる?」


 ほろ酔いで帰って来た優奈は、帰りに買ったアイスを口に運び、酔いをさます。


「中学生の時の友達ね? 確かどこか遠くに引っ越したわよね」


 繕い物の手を休めずに、母の香苗が聞き返した。


「そう。大学生のときに家族でこっちに戻ってきてたんだけど、卒業して三年もたったし、この春から一人暮らししているんだって」

「あら、そうなの? 今日の飲み会に来たの? いつものメンバーで飲んでたんでしょう?」


 いつものメンバーというのは、優奈が中学生の頃からの仲良しグループだ。当時は槇もそのメンバーの一人だった。


「うん。そう。毎日ご飯作るのに苦労しているみたいよ」

「ちゃんと自炊してるの。偉いわねぇ」

「うん、大変みたい」


 優奈は目の前に並んでいる父のための料理皿の端を、スプーンでコツンと叩いた。父は今日も帰りが遅いようだ。


「ね、いつもメニューってどうやって決めてるの?」


 香苗の料理はいつもバラエティに飛んでいる。


「そうねぇ、買い物に行ったときに安かった食材を見て、直観で決めてるかな。後は、昨日魚だったから今日は肉とか、たまには麺類にしようかなとかかしら。三、四日分のメニューを決めながらまとめ買いして、あともう一日か二日は残ったものでメニューを考えたり、臨機応変にしてるのよ」

「ふーん。今度会ったら、槇にも教えて上げよう」

「主婦の買い物の仕方と一人暮らしじゃあ違うとは思うけどね」



 そんな話ををしてから優奈は、早く帰った日は料理を手伝うようになった。


「私もそのうち一人暮らしするかもしれないしね」

「あら、いい傾向ね」


 不器用な優奈は家庭科が嫌いだったから、それまでは何度言われても料理はしなかった。調理実習で失敗したのを不味いとみんなに笑われてから、トラウマになっていたのだ。「掃除や洗濯は手伝うけど、料理は絶対無理!」という優奈に、香苗は無理強いはしなかった。

 そんな優奈だったから、はじめは材料を洗ったり、切ったり、炒めたりで、調味はしなかった。


 ある週末、昼ごはんのおかずを炒めているフライパンに調味料を入れる香苗に、優奈は訊ねた。


「いつもレシピとか見てないけど、調味料の量ってどうやって決めてるの」

「直観よ」


 そう言ってくるりと醤油を回し入れる。


「やっぱり直観かぁ。今晩は私がやってみよう!」


 優奈が決心して小さく呟いたのを香苗は聞き逃さなかった。


「ちょっと待って! それは直観じゃなくてでたらめよ」

「え? 直観ってつまりぽんって思いついた感覚なんじゃないの?」

「違うわよ。 経験と知識にもとづいて、瞬間的に下す判断よ。だから、最初はきっちり計量するのよ。経験のない直観なんてないんだから。慣れてきたら目分量にしてもいいけど、最初は少なめ少なめにするの」

「ああ、入れすぎ防止?」

「そう。薄味は追加できるけど、濃くし過ぎたらどうしようもないからね」


 なるほど。だからあの時失敗したんだなぁ、と優奈は小学五年生の調理実習の時のことを思い返す。




「うちのお母さんの料理、すごく美味しいんだから!」


 優奈は母の料理をいつも自慢していた。おやつ作りも上手で、遊びに来た友達にもクッキーやパウンドケーキを焼いて出してくれた。


「優奈ちゃんのお母さん、ケーキ屋さんみたいにうまいよね」

「うらやましいなぁ」


 優奈もお菓子作りは手伝ったことがあった。材料を計量したり、クッキーの生地をこねたり。

 だから、料理もできると思ったのだ。それで実習のとき、香苗がいつもやっているように、醤油をくる~りと回し入れてしまった。家の量より少なかったにも関わらず。おかしくなった味をなんとかしようと色々追加して、もっと大変なことになった。


「優奈ちゃんのお母さんはお料理上手でも、優奈ちゃんは下手なんだね」


 こそりと囁かれた言葉は、優奈の胸に棘となって突き刺さった。

 その後、一度だけ家でこっそり作ってみた煮物も、不味かった。そりゃあそうだ。こっそりと、一人前のカボチャをたいてみたのだから。香苗がやるようにくる~りとでは多すぎたんだろう。今なら、わかる。もちろん、当時も少なめにしようという意識はあった。ただ、くる~りにこだわってしまったのが間違いだったのだ。




「料理は足し算よ」


 香苗が味見をした小皿を優奈に渡す。


「ちょっと薄いでしょう?」


 醤油と砂糖を少し追加してから、もう一度小皿を差し出す。


「これでどう?」

「うん、美味しい!」


 そうか。少なめから足していくのか。

 失敗したときにちゃんと聞けばよかった。それをせずにこんな年まで逃げて来てしまったことを今さらながらに後悔する。


「今からでも、料理上手になれるかなぁ」

「大丈夫よ。何事も経験経験! 毎日手伝ってくれたら、お嫁に行く頃には上手くなってるよ」


 にこやかに微笑んだ香苗の目に、いたずらな光が宿る。


「それで? 槇くんは、いつ挨拶に連れてきてくれるの?」

「……なんでわかったの? っていうか、いつから知ってたの?」

「母の直観、かな。飲み会で会った話をしたときには。もうつきあってたんでしょう?」


 断捨離とか言って荷物の整理をしたり、苦手だった料理にチャレンジしたり、その他色々から、ね。なんとなくそろそろかな、と。


「何年あなたの母親をやってると思ってるのよ。怒るタイミングも、拗ねるタイミングも、折れるタイミングも、なぁんとなく、わかるものよ」


 母の直観、恐るべし。


「料理もね。こじらせてるなぁ、とは思ったけど、必要になるときには言ってくるのがわかってたからね」


 全部お見通しかぁ。悔しいような、くすぐったいような、不思議な感覚。

 私もいつか、こんな風になりたいな。もうすぐ出ていくこの年になって、改めてそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母親の直観 楠秋生 @yunikon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説