第3話 トシュカトルの大祭
「ナルバエスの討伐は、俺がこの新大陸に来てやったことのうちで、もっとも取るに足らない仕事だった」
ナルバエスは片目を槍で貫かれ捕獲され、戦闘は半日ですべて終わった。
同朋とはいえ、ナルバエスの率いるスペイン軍は、アステカの戦士と比べるまでもなく脆弱であった。
だが、結果として、ナルバエス兵を参入することで、コルテスの保有する兵力は歩兵千三百、小銃手、射手がそれぞれ八十。大砲二十、馬九十八頭になった。
幸福の女神が、コルテスにほほ笑みかけているように思われた、その時。
首都テノチティトランからの、凶報が来たのである。
アステカ人が、大反乱を起こしアルバラード率いる残存部隊を包囲したという。
「俺がテノチティトランを離れさえしなければ。あるいは、ナルバエスが来なければ」
言っても仕方のないことだった。
分かっていても痛恨だった。
目の前にあった、新大陸の覇者たる大勝利が砂つぶのように手のひらから
「アルバラードさまも、お辛かったのでございましょう」
沈痛な面持ちでディアスも頷いている。生ぬるい風が松明を揺らし、二人の影があたかも嘲笑う群衆のように揺れ動いた。
†
毎年5月にアステカ王国では、トシュカトルという大祭を行う。
年間を通じてもっとも盛大な祭礼の一つで、祭りが最高潮になった時に王宮前の大広場で数百人の大舞踊が行われる。
その舞踊にアルバラードとその部下は、突然襲い掛かり徹底的な大虐殺を行なったという。
聖なる大祭を、これ以上ない形で邪魔されて憤怒したアステカ全市民は、大反乱を起こし王宮にスペイン人を閉じ込めてしまった。
それまでは、アステカ人たちはコルテスを平和の神ケツァルコアトルとみなし、王宮に招き入れ友好的であった。
アステカ王のモクテスマ二世を王宮に幽閉し、実質コルテスが王座に座っても、アステカ人は従順だった。
それが、完全に一転してしまったのである。
この報告を聞いた時、コルテスは愕然とし『さすがの彼も途方にくれて言葉も出なかった』と後にディアスは書き残している。
アルバラードは祭りに乗じて、スペイン人に襲いかかる計画をアステカ人が立てていて、そこで機先を制して攻撃をしかけたのであって、正当防衛だと主張したのだった。
「すさまじい恐怖であったのだろうな」
何度目になるか分からないため息をついた。
「そのようですね。擬似戦争をするような、勇猛さ示す舞踊だったらしいですね。トシュカトルの大祭というのは」
戦の歌に歌が重ねられ、歴戦の勇者が完全武装して躍り出る。アステカ人三十万人が一丸となって、襲いかかってくるように思えたらしい。
たった百名の残存部隊を率いるアルバラードの恐怖たるや、想像を絶したのだろう。
本来であればアルバラードは、決して無能な副官ではない。
「だが、大失態を犯したことに間違いはない」
営巣用の個室に閉じ込め、謹慎させているが事態は深刻を極めている。
ナルバエスを討伐したコルテス一行は、王宮に無事に帰還できたが、アステカ人は話し合いに応じようとせず、スペイン人の全滅のみを求めているのだった。
それほどに、トシュカトルの大祭は彼らにとっては重要で神聖なものだった。
雨音が聞こえてきた。
振り続ける雨は、牢獄のようにコルテスを王宮に閉じ込めている。
残りわずかな食料と湧き水と雨水。
籠城を続けたところで、本国からの援軍も期待できない。
「ふ……」
考えるまでもなく、状況は絶望的だった。
これほどの窮地に立ったことは、未だかつてない。
スペインでの歴史上でも、これほどの困難な戦争は聞いたことがない。
どう考えても全滅必至で、それも生きたまま心臓をえぐられ、生け贄にされる死が待っている。しかも、遺体はトウモロコシとトマトで煮て喰われるのだ。
しかし、まだ生きている。生きているのである。
生きているという思いが全身を駆け巡り、窮地において絶望は体の奥底で熱となって、コルテスの魂を熱くさせる。
「これより、撤退作戦を開始する」
冷徹なコルテスの、内に秘めたる英雄の魂に火がついた。
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