第9話 最悪な一日 ─終─
赤ジャージの彼女は、老朽化したトタン屋根が目立つ寮とは別の、隣接する新築アパートへ入っていった。そのアパートは寮とは対照的な新築のレンガ造りで貧乏くさい寮への当てつけのように建っていた。
それでいてオートロック式のエントランスで、わざわざ引戸の鍵を閉めないといけないので、セキュリティの面でも寮との差を否応でも認めざるを得なかった。
暖色の蛍光灯がエントランスを明るく照らしてくれるおかげで深夜の寒さを感じない。暖房が効いているのが大きいのだろう。
その人はいかにも家賃の高そうなアパートのエントランスの中に私を招き入れた。
「まずあたしの名前は、
このアパートはうちの私物でな、もともと使われていなかったところを使わせてもらってるんだよ。お前と同じように一人暮らしが気ままだからな」
道中口数少なかった甕山と名乗る女性は饒舌に語りだす。
まるで道中誰かに聞かれるのを嫌がっていたかのように。
「それにしてもお前も災難だよな。一人暮らししようと決心したとはいえあんなボロい寮でろくなセキュリティも施されていない空き家同然で住むことになるなんてな。 どうせならもっと気の利いた部屋用意しておいてくれよって」
「いつまで続くんですそれ。 用があると思ってこっちはついてきたんですよ。 あなたが私と同じような境遇であれば話はわかりますけど、今日初めてお会いしたんですよ。 赤の他人がどうして私のことを知ってるんですか」
いつまでもくだらない無駄話に付き合いきれない。相手の意図が読めない以上長居はできない。そう思い、リッチなアパートよさよならと踵を返す。
「焦らなくても、今見せるよ」
そういうが早く、甕山はいきなりアパートの新築の真新しい白い壁に寄り掛かった。すると足元の空間が歪みだした。
白のタイル床に黒いシミのようなものが染み出されるように空間に出現した。
現れたのはカメだった。それもペットとして飼う小型ではなく、ガラパゴス諸島などで見るおよそ人と同じぐらいの大きさ。
見せられたものの迫力は凄まじく、有咲にはそれが魔であることをしばらく忘れるほどだった。
─魔人間。ここまで大きいのははじめてですね……。
欲の強い人間に魔が憑りつくのは本人がそうであるので肌で理解しているがここまでの大きさとなると幼少のころから抱えていることになる。
それほどまでの欲をため込んで生活できている甕山の底知れなさを、有咲はこの時初めて実感した。
「びっくりすのも無理ないね。 あたしも長いこと憑りつかれてるけどあたしよりデカいやつ見たことないからな」
有咲は相手に動揺したことを悟られないよに必死に表情を整え、すまし顔で
「それで、何ができるんです? その子」と返す。
甕山は質問には答えず、ただこちらを見つめてニタニタとしている。
その見透かしてくる目が、有咲の心をささくれ立たせる。
「桐ヶ谷透華、お前の姉の友人だそうじゃん」
─ああ、まただ。
またも知らないはずの情報が知られている。巴戸葉のときも今も、今日初めて会った人間が踏み込まれたくない領域に平然といる。
そのことが有咲には許せない。許せるはずがなかった。
カメは重たげに顔を上げ、大きく口を開くと、首のあたりを上下運動させると、いきなり白い物体を吐き出した。
ぬめり気のある卵を、口から吐き出すその瞬間、甕山は落ちそうになったその卵を難なくキャッチしてのける。キャッチしたその卵を、甕山は殻も割らずに飲み込む。一通り飲み込んだ後、甕山は何事もなかったように言葉を発してきた。
「有咲霞、3月生まれ、歳は16。まあ、ここら辺のことは今更いう必要ないな。
今日は入学式が終わった後すぐに桐ヶ谷と保健室で密会。
桐ヶ谷とは姉の有咲花の友人であるという情報だけで近づいた。
そのあと帰ってきた後は巴戸葉に金をせびられ難なくそれを逃げ延びる。 まあ、あいつの集金癖はこれからも続くだろうけど。
見ての通り、あたしが何で今日あったばかりのあんたのことを知っていたのかはこの子のおかげ」
─さらっと恐ろし気なことをしゃべった気がするんですけどこの人……。
そう言って甕山は人の大きさほどもあるだろうカメのことを抱きかかえる。ようは魔人間である甕山はそのカメによって情報を知ることができるということらしい。
今日、保健室で何をしていたのかなんてことはそのカメを通して文字として情報を認識している、らしい……。
その情報がどこから得ているのかは話してはくれなかった。
当然だろう、こうして魔をさらけ出すだけでも本人にとっては恥ずべき事のはずなのに、今日あった巴戸葉もこの甕山って人も臆面もなく私に見せつけてくる。
だからこそ思う。なぜこうもプライベートな情報が筒抜けなのだろう。巴戸葉も、この人も自分は知ってて当然と言いたげに
有咲にはその心理がわからない。わかりたくもなかった。
「こうして恥ずかしい魔を見せてるのは、あんたに頼みたいことがあるからなんだ。 あたしと一緒に仕事してくれないかな」
「仕事ですか?」
「そう、といっても給料が発生するわけではないけどな。 今日桐ヶ谷に単身で突っ込んだんだろ? いやすげえよ、あの鬼女に挑むなんてあの学校じゃいないからな。あたしはあんたのそういう肝っ玉の据わったところは買ってるんだ。 んで、その仕事の内容なんだけど、さっきの不良どもを蹴散らしてほしいんだ。 あたしはほら、青教会のやつらの仕事奪ってあいつの鼻っ柱をへし折りたいんだよ。 桐ヶ谷の鬼に占められてからずっといい子のまんま。 正直息が詰まりそうでまいってたんだ。 あの鬼女が青教会の人間だってわかってたんだろ、だからこそこの仕事はあんたに任せたいんだ」
「それは、これを引き受けろっていう強制ですか」
「お願いしてんだよこっちは」
苛立ちからつい話の腰を折ってしまった返答をすると、甕山はそれまでの猫撫で声とは打って変わってドスの利いた声ですごんできた。
しかしそれは一瞬で、すぐににこやかに微笑み返してきた。
この人も私を利用しようとしている。この手合いは相手の利益を優先しているように見せて結局は自分の利益になるように立ち回ろうとしている。だからこうして私に近づいてきた。
姉というこちらの弱点をついてきたのがその最たる証拠だろう。
こんなのがこれからも続くんだろうか。
だとしたら、とんだ笑い者だな、私。
私が始めた復讐を他人に利用されるくらいなら、利用してやる。
それで
「わかりました。 それがあなたの溜飲が下がるのであれば喜んでお受けしますよ」
─そういえば巴戸葉先輩にも同じこと言われたけど、あっちの返答はどうしよう。
有咲は、あやふやなままにしていただらしない先輩のことを思い返していた。
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