第8話 最悪な先輩④
有咲花。有咲霞の姉で10年前に目の前で亡くなった。
あの日の出来事はおぼろげだ。濡れたアスファルト。滴り落ちる血がマンホールに流れていく。誰かが、生気あふれた姉だったものを抱え、周りに声をかけている。
でも、その声が何を発しているか、わからなかった。雫は絶え間なく降り注いでいるはずなのに、雨の音も、叫び声も、何も、聞こえなかった。
「顔こわ……いま自分がどんな顔してるかわかる? すごいもったいない。 せっかくの可愛いお顔が悲しいことになってるけど」
一歩、一歩と無遠慮に近づいてくる。先ほど姉の名を口にした赤ジャージ。電灯の光はそんなジャージ姿に不釣り合いなほど整った黒いロングヘアーの輪郭を映し出す。
「どうして姉の名前を知ってるんです」
「役所で調べりゃすぐにわかることじゃん」
─そうなんだ。
こちらの最大限の警戒心を込めた疑問をなんの動揺もせずに返したものだから思わず納得しかけた。いくら何でも他人の個人情報を簡単に知ることはできない。少し考えればわかることじゃないか。
ましてや会ったこともない初対面の人間の情報など、どうして知ろうと思えるのか。それを知ってるのはさっきの巴戸葉って女の人くらいのものだろう。
「要件は何ですか」
「急ぐじゃん。 まあ大した用じゃないしそこらへんで話でも」
「そうですか私は寮の門限があるので失礼しますさようなら」
早々に立ち去ろうと横を通り過ぎようとする。
「寮の門限とっくに過ぎてるくせに」
そう言われて足が止まってしまった。それを言われると立つ瀬がないのだが、事実は事実。もしそれを告げ口されようものなら面倒だった。ましてや先ほどのコンビニの騒ぎを告げ口されようものなら、この場で黙らせるしか……。
「確かにあそこのルールなんてあってないようなものだもんな」
そういって一人納得したようにうなずき、振り返り思いっきり肩を回してきた。勢いのはずみで頭が揺れ、軽く貧血を起こしそうになる。頭を寄せてきてその女の人は「すこし付き合いなよ」とあごで寮に向かう道を指してきた。
─怪しすぎる。
霞はすぐに相手の提案に乗るほど単純じゃない。先ほどの大立ち回りの後に突然現れ、主導権を握ったような顔をして個人のプライバシーに土足で踏み込んできた。そんな人間についていくほど自分は甘くない。
「とりあえず、食いなよ。あげるから」
レジ袋から何かを取り出し、それを有咲にぽいと弧を描くように投げてきた。それが何かもわからないまま、有咲はそれを難なくキャッチした。手の内がひんやりとしていた。
手を広げる霞。そこにあるものと目の前の女を見比べる。
─とりあえずこの人に敵意はないらしい。
霞は自分を納得させ、言われるままにその女の隣に並んで歩いた。渡されたものはなんて事のない、ハーゲンダッツのバニラ味。王道の王道。慣れ親しんだアイスを目にした瞬間、霞の警戒心は一気に解きほぐされていった。
いざ並ぶと、意外にも背は高く頭ひとつ分ほど違っていた。黒く長い髪は腰まで届きそうなほどストレートに手入れされていた。脚も長く、それでいて力強さを感じる歩き方は有咲には新鮮なものだった。テレビのモデルが目の前に現れたような身体ををしているのだから。そんな隣の長身のモデル体型の人が赤ジャージを何食わぬ顔で着ていて歩いているのだから、アンバランスさに戸惑いを隠せないのだった。
「単刀直入に聞くけど」
寮まであと一つの交差点まで差し掛かったところ、それまで特に語り掛けてこなかった相手がこちらを見て、語り掛けてくる。
「まだ暴れ足りないだろ」
心臓を軽く触られた心地がした。霞にとっていい気分ではない。それは先ほどの乱闘騒ぎを見ていたから、ではない。
夜遅くとはいえかなりの騒音だったのは暴れた本人でさえ理解できる。
だが相手は、明確に「何を求めているか」に踏み込んできた。
ゆるみ切った警戒心はもとに戻っていった。
─何が目的? 近づいてきた目的は? そういえばさっきは姉さんの名前を出してきた。 どこで知ったの? 役所は絶対違う。 だとしたら”魔憑き”のなにか…。
不明。 女の行動に解を見いだせない霞は眉根を寄せる。
「いろいろ聞きたそうな顔してんね。 まあ答えてあげてもいいけど、いい話があるんだ」
そういってその人は寮ではなく、その隣のアパートへと入っていく。
「そっちよりもまだお前にとっちゃ魅力的な提案だと思うけどな」
この人は、さっきの巴戸場とグルだ。そんな直感が霞に走る。
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