第19話 【断章】消せない『未練』
冬も近づいているというのに、珍しく温かい晴れ間が覗いたいつもの祝日――礼拝を終えて出て来る領民の中に、最近よく交流する見覚えのある家族を見つけ、イリッツァは帰りがけの彼らに声をかけようと近寄った。
「あっ!聖女様」
父親に手をつながれた少年――ヤーシュが、先んじて近づくイリッツァを見つけ、嬉しそうに手を振る。それに引かれるように、両親と妹のイリアもイリッツァを振り返り、柔らかな笑顔を浮かべた。
「聖女様。今日もありがとうございました」
「いえ、とんでもありません。敬虔なエルム信徒に、神の御加護がありますように」
聖女らしく微笑んで、イリッツァは聖印を切って祈りをささげる。家族四人もまた、それに従うように祈りの形を取った。
「最近、ヤーシュがよく教会に出入りしているようで。…すみません、何せやんちゃ坊主ですから、何かご迷惑などおかけしていないでしょうか」
「いえ、そんな。最近は、友達のグレンと一緒に、聖人祭の手伝いをするんだと嬉しい申し出をしてくれていますよ。私たちも人手が足りませんので、とっても助かっています」
にこ、と笑って幼いヤーシュの頭を撫でて褒めてやると、少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。
「そうでしたか…グレンにも、お礼を言わなければですね」
「え?」
聞き返すと、ヤーシュの父親は、少し複雑そうな顔で苦笑した。
「ヤーシュ、イリア。お母さんと一緒に先に帰っていなさい。――聖女様、少しお話をさせていただいても?」
「あ、はい。もちろんです」
「えー、父ちゃんだけずるい!俺も――」
「貴方は今日、剣術稽古があるでしょう!早く帰ってお昼ご飯食べちゃいなさい!」
「う゛…はぁい…」
母親の容赦ない鋭い指摘に、苦虫を嚙み潰したような顔でしぶしぶうなずく。ふふ、とイリッツァはその子供らしい表情に笑って三人を見送った。イリアも嬉しそうに手を振っている。
三人の姿が見えなくなったところで、ヤーシュの父親を振り返り、人気がなくなった礼拝堂のベンチの一脚に腰かけるよう促す。二人で並んで座り、祭壇の奥にあるエルムの宗教画を眺めていると、静かに男が口を開いた。
「聖女様は――ファム―ラ共和国を、御存じですか」
「え――…あ、はい。行ったことはないんですが、話に聞いたことは何度も。北方にある厳しい雪国ですよね」
「そうですか。さすがは聡明な聖女様だ。神童と呼ばれただけのことはある」
「いえ…昔、ファム―ラに縁のある人と、交流があっただけです。その人から、色々な話を聞きました」
「あ、そうなんですか。移民の方ですか?」
「ん――…厳密には、彼の、母が。父親は王国の商人で、商売でファム―ラを訪れていた際に恋に落ちて、女性がこちらに移り住んだようです。息子の彼自身は、二人が結婚してこちらに住むようになってから生まれたようで、母の影響でファム―ラの言語や知識をよく知っていましたが、住んだことはないと言っていました」
「はは、まぁ、住むにはなかなか厳しい土地ですからね」
言いながら、男は前方の宗教画をゆっくりと眺める。
「では、私と妻が、ファム―ラ出身の移民であることはご存じですか?」
「……ぁ…はい。いえ、厳密には、そうではないかな、と思っていた…という感じですが。その――ヤーシュ、という名前は、珍しいので」
少し気まずさを覚えながら正直に答えると、中年の男はふっと口の端に笑みを刻んだ。
ファム―ラは、一年の半分以上が雪に閉ざされた厳しい北国だ。その寒く厳しい気候故に、ファム―ラの言語は、外気温に喉をやられないよう、小さく口を開いて短く端的に発音できる単語が多い特徴がある。名前の音節も、だいたい一音か二音しかない。王国の人間が訪れると、「それは本名か?愛称ではなくて?」と尋ねられることがほとんどだという。
「ヤーシュが生まれたのは、まだファム―ラにいた頃でした。名付けも、こちらの常識を知らないままつけてしまって…こちらに来てから生まれたイリアは、王国の慣習に従ったのですが」
父親は、苦笑して少し俯き、後ろ頭を掻いた。
ほとんどがエルム教徒しかいない王国では、エルムの名前にあやかり、ア行・ラ行・マ行のどれかを名前の中にいれるのが普通だ。『ヤーシュ』という名前を聞いただけで、王国の大人はすぐに、彼が移民であることを悟るだろう。
「ファム―ラの人にとって、王国の言葉は発音が難しいと聞いたことがあります。あと、件の知人はよく『長い』と言っていましたね」
「その方は王国育ちという割に、まるで生粋のファム―ラ人ですね。その通りです。家では、ヤーシュのことを、私も妻も『ヤー』と呼びます。…王国の人からすると、ちょっと変な響きでしょう?」
「はは…いえ。想像がつきます。――知人も、私の名前を「長い」と言って、「え、そんな略し方する?」と思うような愛称で呼んでいましたから。王国民からすると、むしろ発音しづらいだろう、と思うのですが、本人は気にしていなかったようです」
耳の奥で蘇る、懐かしい響き。
『ツィー』と、他の誰も呼ぶことはない愛称で、何度も親し気に呼ばれた、遠い記憶。
――もう、二度と、永遠に鼓膜がその響きを拾うことはないけれど。
「名前は、子供に親が最初に贈る、心のこもった贈り物です。エルム様も、名づけの尊さを聖典で説いています。私たちも、ヤーシュという名前を贈ったことを誇っていますが――そのせいで、あの子には、昔から、苦労を強いてしまいました」
「……あぁ…」
イリッツァは、その言葉の背景を察し、小さくうなずく。
幼い子供というのは、純粋で――それゆえに、残酷な一面を持つ。
慣れない響き、エルムにあやからない名づけ。それらは、幼い子供の共同体の中で、異質なものに映ったが最後、無邪気に、純粋に、異物をはじき出そうと、人の心の奥にある残酷な一面が顔を出す。
「でも、今のヤーシュからはそんな気配はちっとも――」
「はい。…グレンのおかげです。聡いあの子が、淡々と、ファム―ラの知識を皆の前で披露してくれて――仲間外れにしていたヤーシュの傍に、ずっと寄り添ってくれました。彼がいなければ、今も彼は孤独に震え、誰の手も取ることなく、エルム様の教えに沿えない人生だったでしょう」
エルムは、聖典の中で、愛を与えあうことを、『手を取る』と表現した。家族と、友人と、恋人と。大切な人との関係を育むことを、『手を取る』と表現し、推奨する。誰の手も取ることが出来ないものは、エルム教では哀れな存在であり、救うべき対象だ。ゆえに、教会は孤児や老いて伴侶を亡くした老人などに、積極的に『手』を差し伸べる奉仕活動をする。
「ヤーシュも、本当は、グレンを誰より大切に思っています。きっと、彼のためなら己を顧みないでしょう。ですが、御存じの通りのなかなかのやんちゃ坊主で、負けん気が強く、意地っ張りなところもあり…今でも時々、素直になれずに、衝突してしまうことがあるようです」
「あぁ……なんとなく、想像がつきますね…」
くす、と子供たちの顔を思い浮かべて笑うと、父親は困った顔をした。
「今は、グレンが大人なので、ヤーシュの可愛くない言動も、彼が受け入れてくれているのですが――いつか、愛想をつかされてしまいそうで。…聖女様、あの子に、どうしたらわかってもらえるでしょうか。以前から一度、相談させてほしかったのです」
「うぅーん…困りましたね。あの年齢の男の子は、基本的にやんちゃで素直じゃないのが普通ですから…むしろ、グレンが大人すぎるくらいです」
元・男だった経験から、同じくらいの歳頃の男社会の『普通』はよく知っている。イリッツァは眉を下げて困り顔を作った。
口元を覆うようにして、しばし考え――ふ、と少しだけ瞳を眇めた。
「では、一つだけ、ヤーシュに言い聞かせてください。――喧嘩をしてもいいけれど、謝罪と仲直りは、必ずその日のうちに行うこと、と」
「――――え――…」
父親は、一瞬その少女の横顔に言葉を失う。
領民にとって見慣れたはずの少女の横顔は――十五とは思えぬほど大人びた、愁いを帯びた微笑みを宿していたから。
「次に会った時に言おう、と思っていても――人生、何があるかわかりません。その些細な喧嘩を最後に、二度と――永遠に、会えなくなってしまうことだって、あるのですから」
「――――それは、もしかして」
カラカラに乾いたのどに、声が張り付く。
イリッツァは、いつもの完璧な笑顔で――それ以上の追求を避けた。
ぐ、と父親が言葉を飲み込む。なんとなく、想像がついたのかもしれない。
イリッツァは、そのまま前方のエルムの宗教画を見上げた。遠い日の記憶をたどるように。
些細な言い合いをして――素直になれなくて。次に会った時には、謝罪をしようと心に決めていたのに、結局それは、叶わなかった。
あれからもう、十五年――ずっと、ずっと、心に残っている。
死の間際に、『未練』として――転生をしてでも会いたいと、思うほどに、ずっと――ずっと――
冬の気配が少しずつ近づいてきていた日だった。例年より早い初雪になるのではと言われるくらい、寒い冬だったことを覚えている。
カルヴァンが、「奇跡の部屋」と同僚から呼ばれている自室で遠征用の荷物をひとまとめにしてぎゅっと荷袋の紐を固く締め、忘れ物がないかの最終確認をしていると、バタン、と音を立てて背後の扉が音を立てた。同室の友人が帰って来たらしい。
「……?どうした」
何も言わずとも、発する気配だけで機嫌が察知できる程度には、付き合いが長い。カルヴァンは、確認の終わった荷物から目を上げ、何かもの言いたげな様子の友人――リツィードを振り返った。
いつも完璧な笑顔を張り付けている友人は、今日は珍しくその顔に何も浮かべていない。少しだけ――本当に、よく観察しないとわからない程度に少しだけ、ほんのりと眉間にしわを寄せていた。
(珍しい)
喜怒哀楽のほとんどが抜け落ちているような、人間らしさのない作られた笑顔を浮かべていることの方が大半の彼が、この表情を見せるのは、記憶にある中でも多くない。だが、その珍しい表情は――ここ半年で、急によく見るようになった気がする。
「…何か、言いたいことがあるなら言え」
もうすぐ、遠征の出立式だ。兵団の制服に袖を通しながら、カルヴァンは水を向ける。リツィードは、表情を変えぬまま少し俯き、ぐっと息をのんだ。
「…お前……さっき、また……儀式で、祈らなかっただろ…」
「は?」
押し殺した声で言われた内容が理解できず、思わず眉根を寄せて聞き返す。
(何を言っているんだ、こいつは)
「今更、何を言い出す。――俺が、神になんぞ祈るわけないだろう」
「っ…!お前っ…そ、そんなんで――もし、無事に帰って来られなかったら――!」
「無事に帰って来られるかどうかは、神の力じゃない。俺の力次第だ。遠征先で野垂れ死んだとしても、それは俺の実力不足だった。それだけだろう」
「で、でもっ…母さんが死んで、魔物の討伐遠征が増えて――昔より、ずっと危険な任務が増えて――!」
「知ってる。俺もお前も、死ぬ確率は大して変わらない。だから、毎日鍛錬するんだろう。少しでも生き延びるために」
初めて出逢ってから、すでに十年ほど経っている。邂逅の瞬間から変わらない考え方を、今更責められるとは思わず、カルヴァンは怪訝な表情のままいつも通りの考えを告げた。
この半年くらい、だ。どうにも、リツィードの考えがいまいち読めない。
何かを隠しているような気がするが――何度水を向けても、微かに眉を寄せる表情を浮かべるだけで、結局口を割ることはなかった。
「遠征前の儀式は、遠征中の無事を祈る、大事な儀式で――」
「だから、そんなもの、何の足しにもならない。事実、俺は今まで一度も祈ったことなんかないが、こうして無事に――」
「俺が!!!代わりに!!!祈ってやってるからな!!!!」
「――――」
遮るように叫ばれ、言葉を切る。
(――――なんだ、いきなり)
急な激昂についていけず、呆れた顔で親友を見る。親友は、眉間に寄せた皺を、少しだけ深くしていた。
「俺がっ…お前の代わりに…っ…祈って、るんだ…毎回っ…」
「――――…へぇ」
「っ……もし、俺が祈らなくなったら、どうするんだ!」
「は?」
「そんな調子で――もし、俺が、お前の無事を祈れなくなるようなことがあったら、お前、どうするんだ――!」
「――はぁ」
あきれ果てて、左耳を軽く掻く。何だ、こいつ。急に。
「…別に、頼んでない」
「っ――!」
カッ――とリツィードの顔に一瞬赤みが差す。
(――珍しいな、本当に)
それは、十年の付き合いで――もしかしたら、初めて見たかもしれない、表情。
おそらく――怒り、という感情に分類されるであろう、表情だった。
「も――もう、知らねぇっ…!今回は、絶対祈ったりしないからな!神罰が下っても、恨むなよ!」
「はぁ。もとから、そんなもの信じちゃいない」
カルヴァンの、いつも通りの神をも恐れぬ飄々とした物言いに、ぐっと言葉を詰まらせ――怒りの表情のまま、リツィードは部屋を飛び出していった。
それを見送って、やれやれ、と嘆息する。
「本当に…何なんだ、あいつは」
最近、特にいつもと違う表情をすることが多くなった。『人』らしくなっていることは、カルヴァンにとってうれしいことのはずなのに――なんだか、妙に落ち着かない。
「祈りなんて、何の足しにもならないだろ」
頼りになるのは、己の力だけだ。
自分を守るのは、自分の力。
親友を守るのも――――自分の、力だ。
「…まぁ…俺の力なんか必要ないくらい、強いけどな。あいつ」
誰にともなく独り言ちて、準備を終えた荷を背負う。
神の力なんて、信じない。誰かに守ってもらうことなんか、期待しない。
守りたいものは、自分の手で、守り抜く。どんな困難からも――どんな、災厄からも、すべて。
カルヴァンは、最近手に入れた剣を腰に差し、準備を整えて、出立式へと向かった。
――この会話が、人生で最後の会話になるだなんて、その時は微塵も思っていなかった――
馬の背に揺られながら、空を見上げる。
冬の近づく鈍色の空。――あの頃と同じ、空の色。
どうにも、遠征の移動中というのは、暇すぎて良くない。この時期は特に、ろくでもない記憶ばかりが蘇る。
左耳を軽く掻いて、三十路間近となったカルヴァンは小さく嘆息した。
(もう少し、何か、あっただろう。――せめて、マシな、会話くらい)
今ならわかる。あの当時、やたらと何かを堪えるような表情が多くなっていた親友。何度水を向けても、決して口を割らなかったのは――きっと、自分が『聖人』であることを打ち明けるべきか、ずっと思い悩んでいたのだろう。
なぜ、話してくれなかったのか。
聞く耳など持たないと思われたのか。――所詮、その程度の、信頼だったのか。
十年、誰より密に育んだと思った友愛は、実はひどく一方通行だったらしい。全てが終わった後、唯一無二の親友と思っていた彼に、実はまったく信頼されていなかったことを知って、リツィードの死後、カルヴァンの心は完全に凍てついた。
エルム教の聖典の言葉を借りるなら――手を取っていたのはカルヴァンだけで、リツィードは、決してその手を握り返してはくれなかったのだろう。するり、としっかり握り合っていたと思っていた手からあっさりと彼は逃れ、あっという間に、この世からも消えてしまった。
まるで、あの日の、雪のように。
後悔、などという言葉は使わない。――そんな言葉で表せるほど、安くない。
頼りになるのは、己の力だけだった。
親友を守れなかったのは――己の、力不足だ。
決して、神の力などではない。
神のせいになど、しない。
(俺は、神罰なんて、信じない)
これは、断じて神罰などではない。
すべて――親友と思っていた相手に、有事に頼ってすらもらえなかった己の未熟が招いた、灰色の現実でしかないのだ――
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