第20話 運命の『邂逅』

 聖人祭まであと四日――ナイードでも、準備は佳境になっていた。

「聖女様、こっちは出来たぞ!」「聖女様、これはどうしたらいい?」「聖女様、寒いだろ、こっち来て一回温まりな」

「はいはいはい!…頼みますから、話しかけるのは順番にお願いします!」

 イリッツァは困った顔で返事をしながら、祭壇が組まれている広場の中を呼ばれるたびにあちこち飛び回る。

 今年はもう五十の声を聴くダニエルと、か弱い――ように見えるだけで本当は趣味:鍛錬で誰よりタフなのだが――少女イリッツァしかいないということで、領民たちは積極的に祭りの準備を手伝ってくれていた。おかげで、なんとか今日中には準備が完了しそうだ。

「聖女様!さっき、教会に人が来てたよ。様子見に行かなくて大丈夫?」

「えっ、本当ですか?グレン、教えてくれてありがとうございます」

 わざわざ走って知らせに来てくれた少年に礼を言って、イリッツァはいったん広場の準備を司祭に任せ、教会へと走った。人々に囲まれているダニエルは、聖職者の鏡といっても差し支えないほどの人望で、周囲からあれこれ世話を焼かれている。

 留守にするため、教会にはしっかりと鍵はかけてきたはずだ。この、領民全員の顔と名前が一致するほどの小さな領地で、物取りなどいようはずもないが、ごくまれに旅人や商人などといった来訪者もある。用心のための施錠だったが、もしも礼拝目的の旅人などが訪れていた場合は、すぐに教会を解放しなければいけない。

(お、あの人か?)

 走って教会に近寄っていくと、教会の前で呼び鈴代わりの鐘を何度か鳴らして困った顔をしている男の影が見えてきた。そばに荷馬車があるから、旅人ではなく商人なのかもしれない。

「すみません!お待たせしました!教会に何か御用ですか?」

「あ…これはこれは可愛らしいお嬢さん。ここの修道女さんかい?」

 近寄っていくと、男はイリッツァを見て優しそうに目を細めた。ダニエルと同じくらいの初老男性に、イリッツァは慌てて手を振って応える。

「あ、いえ、見習いです。――今、司祭は聖人祭の準備で不在なので、代わりに私が御用をお聞きします」

「あぁ――すまないね。忙しい時期に迷惑なのはわかっていたんだが、どうにも商売の無事を祈らずに旅立つのは気が引けて」

「それは大変です。エルム様にぜひともお祈りを捧げてください」

 にこ、と聖女の微笑みを返しながら、教会の鍵を開け、礼拝堂へと導いていく。敬虔な信者らしいその老人は、丁寧に礼を尽くして祈りをささげた。

(どうか、彼の商売がうまくいくよう、見守りください)

 老人の隣で、イリッツァも目を閉じて聖印を切り祈りをささげる。エルム神が、祈られる人間によって加護を変えるほど狭量ではないと信じているが、きっと神の化身と呼ばれる聖女からも念押しでお願いしておく方がお祈りの効力は強そうだ。

「ありがとう、お嬢さん。これで、安心して旅立てるよ」

「はい。…今日出立するのですか?」

「ああ。聖人祭までにブリア領に入りたくてね」

「なるほど。それは急がねばなりませんね」

 言いながら、老人を伴って再び教会の表に出る。先ほど見たのと変わりない場所で、落ち着いた瞳の老人の愛馬が荷台を伴って大人しく待っていた。

「可愛い馬ですね。――撫でても?」

「あぁ、もちろんだ。見習いとはいえ神に仕えるお嬢さんに撫でてもらえるなんて、こいつは果報者だな」

 くしゃ、と人のよさそうな笑みを浮かべた老人に笑って、イリッツァは馬にゆっくりと手を伸ばす。

「馬が好きなのかい?」

「はい。……昔は、よく愛馬の世話をしたものです。休みの日に、友人と一緒に、背に乗って遠乗りするのが好きで」

「おや。見かけによらず、ずいぶんとおてんばなお嬢さんだったんだね」

「…はは」

 曖昧に笑ってごまかし、鬣をゆっくりと梳いてやる。よくしつけられている老人の馬は、気持ちよさそうに目を細めた。

 兵士にとって、馬はともに死地に赴く戦友と同義だ。馬との信頼関係を築くことは、戦場に赴く戦士として絶対に必要な事前準備だった。リツィードもまた、兵団に与えられた愛馬をかわいがり、積極的に世話を焼いたものだった。

「ん…?――この馬も、敬虔な信者のようですね」

 ふと、馬の手綱にかかっている小さな飾りに気づき、イリッツァはふわりとほほ笑む。すると老人は少し照れくさそうに笑った。

「いや、商売は私の管轄だが、旅の安全は彼の管轄だからね。エルム様にあやかりたいと思って、聖印が刻印された飾りをそうして身につけさせているんだよ」

「本当に、素晴らしい行いですね。きっと、エルム様も貴方たちを見守ってくださっています」

 エルム神は、異教徒に厳しい宗教だ。半面、心から心酔する信徒には誰よりも優しい。

「帰りも、ナイードに寄られるのですか?」

「あぁ。そのつもりだよ。なんだかここは、不思議と居心地がいい。『奇跡の領地』というくらいだから、エルム様のご加護が強いのかな」

「どうでしょう。そうだと嬉しいのですが」

 言いながら、手綱に飾られた聖印を手に取り、そっと目を閉じる。

「どうか、貴方が無事にナイードに帰って来られますように」

 ふぉ――と、ほんのりと淡い光が聖印飾りを包む。

「こいつは驚いた――聖なる魔法の加護をもらえるとは、もったいないことだ。ありがとう、お嬢さん」

「…いえ。商売も旅路も、万事うまくいくよう、私もナイードからお祈りしておきますね」

 にっこりとほほ笑んで、老商人を振り返る。老人は、頭を下げて感謝を述べた。そのまま荷馬車に乗り込み、愛馬を駆って、ブリア領の方角へと去っていく。

 この宗教国家の中にいてもなかなか見ないほどの敬虔な信徒の旅立ちをしっかりと見送ると、広場の方があわただしくなっているのに気付いた。目をやると、あわただしく人々が領地の入り口に向かって駆け出していくのが見えた。

(…なんだ?)

 聖女たるイリッツァが施した結界を破る魔物の侵略など考えられない。いや、もし本当に侵略だったとしても、玄関口からご丁寧にやってくる魔物などいないだろう。

(うーん…誰か、領民が沸き立つくらいの身分の高い人でも来たのか?)

 だが、そんな知らせはなかったはず――

 となると、お忍びで?

 ――こんな、特に目立った特産品も何もない、片田舎の小さな領地に?

 眉を顰めていると、広場からダニエルが司祭服を走りにくそうにはためかせて、慌てた顔で走ってきた。

「司祭様。どうしたんですか?何か、あわただしいようですが――」

「い、イリッツァ…!貴女も、早く、行くのです…!」

「えっ、えっ…?」

 いきなり手を取られて、驚きながら聞き返す。

 ダニエルは、もどかしそうに――しかし、どこか嬉しそうな顔で、イリッツァを振り向いた。

「やっと――貴女の夢を、叶えてあげられますよ」

「ゆ、夢――…?」

 手をひかれるままに足を動かしながら、訳が分からないままついていく。

 たどり着いた先には、すでに領民たちで人だかりが出来ていた。

(うわ、すごい人数…領民全員出て来てるんじゃないか?)

 人ごみの一番後ろで、怪訝に眉を顰める。おそらく、この人の輪の先に、お目当ての何かがあるのだろうが、こう人垣が多くては、十五歳の小柄な少女は目の前の大人の背中しか見ることが出来ない。

 すると、隣で手を引いていたダニエルが、その手を離したかと思うと――ふわり、と少女を抱き上げる。

「へっっ!!!?ししし司祭様!!!?」

「どうぞ、そこの上にお乗りなさい。きっと、そこからなら見えるでしょう」

 やさしい飴色の瞳でそんなことを言われてしまえば、言われたとおりにするしかない。傍に積み上げられていた木箱の上に少女を下ろした司祭は、満足げにうなずいた。

「とはいえ、一体みんな、何をそんなに熱狂して――」

 ――――――――――――

 キン――

 一瞬で、周囲の騒がしい音が遠のく。

(え――――――――――)

 ぱちぱち、と目を瞬いて、その光景を凝視する。

 視界に飛び込んできた情報を脳がうまく処理できなくて、固まってしまったのを自覚した。

「――――――――――――ゆ、め…?」

 ポツリ…と無自覚に開いた唇から、情けない音が漏れる。隣に立つ司祭は、いつもの優しく穏やかな瞳で、にっこりと娘に笑いかけた。

「いいえ、夢ではありません。これは、まぎれもない現実ですよ」

 ダニエルの言葉は、半分聞こえていなかった。視神経から飛び込んでくる情報を処理するだけで、手いっぱいだったからだ。

 視線の先には、馬を引いた一団がいた。真紅に金の刺繍が施された衣服は、遠い記憶の中で、嫌というほどの見覚えのある装束。――敬愛する父が、仕事に赴くたびにいつも身につけていた衣装。

 しかし、何人もいる彼らの中で、イリッツァの目を引くのはたった一人だった。

 この国では珍しい、灰がかった藍色の髪。すらりと伸びた長身は、周囲の騎士よりも頭一つ分抜けている。精悍な男らしい顔つきは、見る女性をあまねく虜にしてしまうのは十五年前から変わらないのか、人ごみのあちこちから黄色い声が飛んでいた。ここからでは遠くてよく見えないが、その瞳には、遠い雪国の空を宿していることを知っている。

 そして――そして。

 その喉が、声が、人を食ったような笑みとともに、親し気に――『ツィー』と呼びかける、その様を。

 イリッツァは――リツィードは、確かに、知っていた。

「すげぇ!!!すげぇよグレン!本物だ!本物の、カルヴァン騎士団長だ!」

「う、うん、ヤーシュ…!す、すごい!でもなんで、カルヴァン団長がこんな田舎に――」

 カルヴァン。

 ――――カルヴァン。

 耳に、その音が届いたとき――やっと、脳の処理速度が、目の前の現実に追いついた。

「っ――――――――!」

 鼻のあたりがツンとして、眼の奥がカッと燃えるように熱くなる。

(あ、ヤバ――)

「い、イリッツァ!?」

 驚いたように引き留めるダニエルの声音を無視して、イリッツァは身を翻して全力でその場から逃げ出した。

 いつも、鍛錬を重ねていたはずなのに、少し走っただけで喉の奥から、熱い吐息が漏れる。ひくっと音を立てたそこは、気を抜くとすぐに嗚咽に代わりそうな気配を漂わせた。

(嘘だ、嘘だ、嘘だ――)

 全力で街を駆け抜け、慣れ親しんだ教会の中に逃げ込むように飛び込む。

 一足飛びで向かうのは、毎日祈りをささげる祭壇。エルム神の御前。

「っ……神、様…っ…!」

 はぁっと熱い息を漏らし、ぎゅっと目を閉じて聖印を切って額に手をやり、祈りの形を取ると――もう、堪えることが出来なかった。

 ぼたぼたと、うつむいた瞳から、塩水が大量にあふれて石の床に黒いシミを広げていく。

「っ、ぅ……っ…!」

 みっともなく嗚咽を漏らしそうになるのを必死に飲み込み、ぎゅぅっと手に力を入れて唇をかんだ。

 ――記憶の中で、涙を流したことなど、なかった。

 聖人が『人』のような感情に左右されるなどあってはならないと、幼いころから叩き込まれた前世の記憶。感情のままに涙を流すなど、最も忌避すべき行為だった。

 どんなにつらいことが起きても、泣いたことなんて一度もない。

 どんなに慕っても一度も振り向いてくれなかった両親に、愛情のこもらない瞳を向けられた時も。一人、自分だけを置いて彼らが天に旅立ったあの時も。拷問にかけられ、処刑台に送られたあの激痛の中だって――涙など、一筋だって流れなかったのに。

(ダメだ、止まれ、止まれ、止まれ――)

 母の厳しい声が耳の奥で蘇り、必死に涙を押しとどめようと心で言い聞かせるが、どうしても目から溢れる熱い滴は、とどまる気配を全く見せない。

 ――会いたかった。

 ――――――――会いたかった、のだ。

「ごめんなさい…ごめんなさい、でも、今だけ…今日だけ…ごめんなさい…っ…」

 謝罪の言葉は、神に対してか、記憶の中の母に対してか。

 イリッツァは、自分でもわからないままに言葉を重ねた。

 聖人として、己を殺したまま、国民のために死すべきだった十五年前――

 神なのか悪魔なのかわからない謎の声にささやかれ――

 聖人としての責務と関係ない、人生で一度の、許されないわがままを願った。

 国を裏切り、民を裏切る行為だと言われて育った。万死に値する悪しき行いと教えられた。

 それでも――たとえそれが、国民にも、神にも顔向けが出来ないような罪深い行為だとしても――

 それでもいいと、願ったのだ。

 命が燃え尽きる、あの瞬間に――

 ――――――ただ、もう一度、彼に会いたい、と。

 それだけをただ――『人』として、リツィードは、願ったのだ。

「っ…ヴィー…!」

 聖女にあるまじき行為だ。国民の眼のあるところで、涙を流し、感情を発露しそうになった。昔の愛称を叫んで、何もかもを捨てて駆け寄りたいと、思ってしまった。

 もしも明日、この行いに報いよと神罰が下り――前世よりもひどい最期を迎えたとしても。

 ――それでもいいと、迷いなく言い切れるほどに――イリッツァは、静かに神の御前で頭を垂れて嗚咽を噛み殺し続けたのだった。

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