第16話 十五年前の『凶事』の裏側

「でも、聖女様って神様みたいな人なんだろ?母ちゃんが昔、フィリア様が領地に来た時に姿を見たって言ってたけど、それはそれは美しいのに、生まれ故郷に来たってのににこりともせずにずーっと無表情で淡々としてる感じが、さすが一般人とは全然違う存在だなって神々しくて、思わず拝んだって言ってたぞ」

「あぁ…想像つきますね」

 子供ゆえに素直な表現をするヤーシュの言葉に、イリッツァかつての母親の面影を思い出して苦笑する。思わず正直な感想が漏れた。

「でも――フィリア様って、『愚かな聖女』って言われてるんでしょう?聖女様は、何故か知ってる?」

 ズキン…

 無邪気に、知識欲を満たそうと声を上げたグレンの言葉に、一瞬、胸が不規則な痛みを覚え、そっと聖印の上から手で押さえる。

 努めて表情に出さないように気を付けながら――ゆっくりと、完璧な聖女の笑みを作り上げた。

「そうですね。――フィリア様は、聖女でありながら、まるで人のように、己の感情を優先してしまった、『愚かな聖女』なんですよ」

「己の…感情…?」

「はい。聖女は神の化身。人とは異なる存在です。誰か一人に思い入れを持つことも――まして、誰かを愛することなど、あってはいけなかった」

「え…?」

「それなのに、当時、十三歳という史上最年少で兵団入りして――これは、のちにカルヴァンが十歳入団という形で記録を塗り替えましたが――最強の名を欲しいままに、近隣諸国も震えあがるほどの戦闘力を誇った、バルド・ガエル騎士団長と結婚をしてしまいました。さらに、彼との間に息子まで設けてしまった。――聖女として、教義に反する行為の数々です」

 エルム教では、見習い期間はともかく、十七歳以上で聖職者の道に入ったものはすべて性行為はご法度だ。ゆえに、光魔法の使役者は非常に数が少ない。遺伝で属性が決まる以上、確実に光魔法使いが生まれるとわかっているのは王族だけで、一般的には見習い期間を経たが修道女にはならなかったものが還俗して子供を成すか、異属性同士の魔法の掛け合わせで、属性シャッフルが起きて偶然に生まれるかの二択しかない。

 だからこそ希少価値があり、神の奇跡として人々から尊敬の眼差しを受けるのが聖職者なのだ。そして、性欲という人の欲におぼれぬ高潔さが、さらにその存在を高みへと押し上げる。その頂点にいるべき聖女が、一般人との間に子を成すなど――絶対にあってはならないことだった。

 いたいけな少年たちに、「子供をつくるとはどういうことなのか」と突っ込まれるのが面倒なのでさらりと触れるにとどめたが、それは当時、国中を混乱の渦に巻き込んだ大スキャンダルで、賛成派と反対派に分かれて大論争が起こったものだった。

「まぁ、当時のガエル騎士団長は、今の騎士団長みたいな伝説をたくさん打ち立てていて…正直、彼が無理を言って、フィリア様も反対しなかったら、王家でも二人の結婚も出産も、何も反対できなかったらしいので、仕方ないと言えば仕方ないと思うんですけど」

 困ったような顔で、付け足すようにつぶやく。

「ガエル騎士団長って、そんなにすごい人だったんだ…」

 ヤーシュが、驚いたようにつぶやく。イリッツァは少しだけ恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに笑った。

「そりゃもう。当時、フィリア様が現れるまでは百年近く聖女も聖人も現れなかったので、魔物の侵攻に悩まされる領地がたくさんあって…フィリア様が一つ一つの領地を回って領民を励ましながら結界を強化していったけれど、追いつかないところがたくさんあったんですよ。でも、一つの領地も壊滅させることなく守りきれたのは、彼の鬼神のごとき働きがあってのことと聞いています。しかも彼は、魔物だけではなく、荒れた国内事情に目を付けた近隣諸国との戦にも援軍として何度も出陣して――そのたびに、伝説としか言いようのないような大活躍をしました。国中が彼をたたえ、彼にあこがれたものです。あのカルヴァンだって、彼だけは心から尊敬して慕っていたんですよ」

 未だに、少し齢を経ている人間に「『英雄』と言えば?」と問いかければ、カルヴァンではなく、バルド・ガエルを挙げる者が多い。これこそ、彼の偉業が当時の国民の心に深く根差している証拠だろう。

 イリッツァは言葉の最後に、少しだけ、笑みを複雑にゆがめた。ゆっくりと桜色の唇を開く。

「――だから、彼が魔物討伐の遠征途中で亡くなったと聞いたとき、国中が悲嘆に暮れました。王族以外に対して国葬が行われたのは、長い歴史を見ても彼だけではないでしょうか」

「え――…魔物に、やられちゃったの?」

「…歴史では、そのように伝えられていますね。歴史といっても、まだほんの十六年ほど前の話ですけど」

 勿忘草色の瞳を閉じて、イリッツァは静かに言葉をつづける。

「彼の死に、誰もが嘆き悲しみましたが――おそらく、国で一番悲しんだのは、フィリア様だったでしょう。何をしても眉ひとつ動かなかったあの方が、涙を流し、張り裂けそうな慟哭を響かせたかと思うと、虚ろな表情でぶつぶつと何かをつぶやいたり――…わかりやすく言うと、心を病んでしまったのです」

 ごくり、と少年たちがつばを飲み込む音が聞こえた。

 イリッツァは続ける。もうずいぶんと遠い記憶になった、かつての両親の話を。

「もちろん、聖女としての行いを遂行するどころではありませんでした。周囲は必死に彼女を励まし、何とか聖女として立ち直らせようとしましたが――結局、彼女は、夫を誰より愛していたのでしょう。最愛の存在を喪って、心を壊したまま――ある日、自室で己の命を絶ちました。――最後の最後まで、神の教えにそむいた人でしたね。だから、『愚かな聖女』と言われているのですよ」

 ゆっくりと――深呼吸をしながらゆっくりと瞳を開く。

 自分で自分の命を絶つのは、聖典で固く禁じられている行為。民の前では誰よりも聖女らしく振舞っていた彼女は、夫という愛する存在を得て、彼の前でだけは、どうしようもなくただ一人の「女」になってしまった。

 だが、ある種、正しい行いだったのかもしれない。

 彼女は、当時の幼い息子に、何度も言って聞かせたのだ。

 ――民の幸福よりも己の感情を優先させるようなことは、万死に値する。

 つまり、死を持ってしか償えない重罪なのだ――と。

 彼女は、その重罪を犯したが故に、命を絶ったのだろう。一番近くで、息子という立場から彼女の人生を見続けたリツィードから見ればそれは、どこまでも哀れで――どこまでも身勝手な、女だった。

「でも、『愚かな聖女』様だけど、『稀代の聖人』を生んだ功績は何事にも代えがたい、って学校の先生は言ってたよ」

「……なるほど。難しい問題ですね」

 イリッツァは複雑な顔でつぶやいた。

「グレンの言う『稀代の聖人』がもてはやされている理由は、何故ですか?」

「え?そりゃぁ…建国以来の王国の最大の危機を、救った…から…」

「その危機というのが何かは、聞いていますか?」

 すると、グレンがひゅっと喉を鳴らして言葉を飲み込む。ごくり、と小さな喉が音を立てた。

「――――――――闇の、魔法使いに、王都の人が――」

 口に出すのも恐ろしい。そんな様子で囁くグレンを、イリッツァは優しく頭を撫でて安心させた。

「そうです。聖女様が心を病んで、お務めを果たせなくなり――ついにお隠れになったことで、聖女様が維持していた結界はあっという間に効力を失いました。結果、魔物の侵攻が王国領土の各地で起きて、人々は混乱の渦に巻き込まれ、毎日命の危険と隣り合わせの日々を送ることになったのです」

 それは、まさに聖典に描かれる『初代王クルサールが人々を救う前』の世界そのままだった。明日を憂いて、人々は互いに疑心暗鬼になり、兵団も騎士団も各地から舞い込む魔物出現の報に振り回されるように、連日出兵を繰り返した。そして当然――そのように国が乱れれば、近隣諸国は黙っていない。魔の手は、すぐ傍まで迫っていた。

「国の混乱に乗じて、闇の魔法使いが王都に紛れ込みました。闇の魔法がどんなものかは――知っていますね」

 ごくり、と生唾を飲んで、二人の少年が真剣な顔でうなずく。

 この世に存在する魔法属性の一つ――闇。ただし、遺伝で属性が付与される地水火風光の五つの属性と異なり、闇魔法だけは――人の意思で、発現させることが出来る。

 それは、エルム教では最大の禁忌とされている行為――

 ――――――魔物との、契約だ。

「闇魔法を使うものは、もれなく魔物との特殊な契約をしています。人々を滅ぼさんとする魔物と契約をする代わりに、人のままでは得られない、地水火風光とは明らかに異なる力を得ます。――古くは、呪いと呼ばれることもあったそれは、弱い人々の心に巧妙に入り込んで、魔法をかけた人々を意のままに操るのです」

 闇の魔法使いは、混乱に乗じて王都にもぐりこみ――徐々に、人々に魔法をかけていった。

 王都中の人々が魔法をかけられたころ――事件が、起きる。

「そうして、なんの変哲もない一人の兵士があるとき急にとらえられました。曰く、『闇の魔法使いの疑いがある』とのことで。――それが、貴方たちの知っている『稀代の聖人』ですね」

「な、なんでそんな間違いをしたの?聖人様と闇の――なんて、真逆の存在なのに」

「さぁ――たぶん、闇の魔法で、みんな心を操られていたんだと思いますよ」

 おびえるように問いかけるヤーシュに苦笑して、イリッツァは答える。

 今でも覚えている。

 住み慣れた兵舎の屋上で――進軍していく、親友が配属された部隊をこっそりと見送ったあの日。

 些細なことで言い合いになり、意地を張って――ちゃんと見送りに出ることが出来なかった、あの日。

 それでも――親友の無事の帰還を祈らずにはいられなくて、兵舎の屋上に上がって祈りをささげた。

 目を閉じて祈りをささげていたら、あわただしい足音がして――そのまま、あっという間に捕らえられた。昨日まで背中を預けて共に戦った戦友たちに押さえつけられ、訳が分からないまま無抵抗で事情を尋ねたが――虚ろな瞳で、全く会話が通じない兵士たちは、そのままリツィードを拘束し、重罪人を拘留する地下牢へと引き立てていった。

 そうして始まる、絶望の日々。――リツィードが、最大の禁忌を犯した闇の魔法使いだと信じている兵士たちは、神の名のもとに、筆舌に尽くしがたい拷問を繰り返した。何度も無実を叫び主張したが、会話らしい会話は全く生まれなかった。魔法によって人為的に操られている者に、言葉など何も通じなかった。

「おそらく、王都をある程度手中に収めた魔法使いは、自分の罪をかぶせて闇の魔法にかからない人間を、そうして効率よく始末してしまいたかったのでしょう。きっと、彼を処刑した後も、魔法にかからない人間を次々と無実の罪で投獄して、処刑をし続けたんだと思います。――その最初の一人に、よりによって聖人を選んでしまったのは、運がなかったですね」

 とはいえ、リツィードが選ばれた理由に、イリッツァは今なら思い至る。

 恐らく、聖女と英雄の息子でありながら闇の魔法に手を染めたという衝撃的な話題は、人々の心を扇動するのにうってつけだったのだ。闇の魔法使いを滅すべし、という感情を、最初の処刑人でこれ以上なく高めておけば、二人目・三人目が現れた時、一人目以上に熱狂して人々は処刑台へと罪人を送り込む。

 何より、負の感情は、闇の魔法使いにとって扱いやすい。王都中に、怨嗟をまき散らし、さらに魔法を強力に賭けていくには、ちょうどいい話題性だった――ただ、それだけだったのだ。

「まさか、彼が闇の魔法にかからない理由が、『心が強かった』からではなく――『聖人』だったから、だなんて、思ってもなかったでしょうね。処刑台の上で、彼の光魔法に焼かれるその瞬間まで」

 そうして訪れた、最後の日――処刑台で、王都に住む者全員が怨嗟の熱気に包まれていた。そこに集まっているのはすべからく闇魔法の被害者だったろう。

 そして聖人は、処刑台の上で、先代聖女の死によって効力を失った結界を、再度王国中に張り直し――人々の心に巣食う闇魔法を晴らした。処刑によって王都中の人間が集まるその時こそが、王国民を救う最初にして最後のチャンスだった。

 かくして王国は救われた。闇の魔法に屈し、無実の罪を着せて"神の化身"に石を投げかけた王国民を、それでも愛し、救った、『稀代の聖人』によって。これほどまでに神の意志を体現した聖人はいない――それをこの世に生み出したことこそが、『愚かな聖女』の何よりの功績。

 それが、多くの王国民が語る歴史だ。

 それでも、イリッツァだけは知っている。この国の誰も知らない、『稀代の聖人』の許されざる罪を。

 愚かな聖女がこの世を去ってから、のちに『聖人祭』が開催される日まで、約半年。誰もがその後の凶事に意識を奪われていて、語られないこの空白の半年間。

 その半年間もの間――彼は、逃げたのだ。救いを求め、荒れ、惑う民の声を聴きながら――半年もの間、聖人の責務から逃げたのだ。

 ――神を嫌う親友に、十年秘匿してきた真実を告げることだけが、どうしても出来なくて――

 だからイリッツァは知っている。あの聖人の行為は、決して慈悲の行為ではない。ただの、罪滅ぼしなのだ。

 聖人でありながら――『人』の心を優先してしまった贖罪なのだ。

 それは、かつての母が言うところの――万死に値する罪なのだ。彼が犯した罪もまた、母と同じく、死でしか購えぬ罪だった。

 その結果のあの凶事の結末は――決して美談として語られるような、崇高な行いであるはずが、なかった。

 だからイリッツァは、こうして子供に語りつぐ。

「だから、皆、心を強く持たなければなりませんよ。――怖い怖い闇の魔法使いは、いつ現れるかわからないのですから」

 もう二度と――"神の化身"の不在ごときで、惑う世の中にならぬように。

 『聖人』が『人』の心に惑わされたくらいで、国家転覆の危機を迎えるような、そんな弱い国にならないように。

「「は…はい…」」 

 硬い表情で、子供たちがしっかりとうなずく。少し、怖がらせすぎてしまったかもしれない。

「大丈夫です。闇の魔法使いは、心が強い者にはなすすべがありません。地水火風の魔法と違って、物理的な攻撃は出来ない魔法ですからね。その点では、光魔法と似ています。――心が弱い人間の負の感情に作用して、それを増幅させ、前後不覚にしてから、初めて闇魔法の呪いが始まるのです。つまり、心を強く持ちさえすれば、怖くはありませんよ」

「――…心を、強く…」

「はい。――つまり、毎日、エルム様への感謝と、未来への希望を喪ってはいけません。どんなに苦しくつらいことも、必ず終わりが来ます。エルム様は、必ず、敬虔な信徒を見守ってくださっているのですから」

「「はい!」」

 真剣な顔でうなずいた二人の頭をひと撫でしてから、イリッツァはほほ笑む。

「少し遅くなってしまいましたね。もう二人とも、おうちに帰りなさい。――そして、家族や、学校の皆に、今日のお話をしてあげてください。もう二度と、誰も、闇の魔法使いの魔の手に惑わされたりしないように」

 人々に、この教訓を広めていく――

 それもまた、この新しい生で、自分がなすべき役目の一つなのだろう。

 イリッツァは、聖女らしい優しい笑顔で、少年たちを見送った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る