第12話 【断章】幸せな『悪夢』

 王都兵団用の兵舎は狭く、兵士が寝泊まりする四人部屋ともなれば、基本的には男臭くてなるべく近づきたくないのが普通だ。部屋によっては、なぜここで深刻な伝染病が発症しないのか不思議とも思えるほどの惨状を呈す男部屋まである。

 そんな中にあって、「奇跡の部屋」と呼ばれる部屋が一つだけあった。たまたま人数の関係上――なのか、目に見えぬ忖度が働いたのかはわからないが――四人部屋を二人だけで悠々と使うそこは、性格はどこまでも男らしく暇さえあれば鍛錬しかしていないのに、顔だけは女顔で人当たりがまろやかゆえに男くささを感じられない男と、すれ違う女すべてが目をトロンとさせて見つめるほどの色気を垂れ流す癖に、普段から涼しい顔を崩さず常に汗臭さとは無縁の男にあてがわれた部屋だった。

「おいツィード!カルのくそ野郎はどこだ!?」

「んぁ?」

 バァン!と簡易な木製の扉をぶち破らんばかりに開け放って怒声を響かせた同僚に、部屋に住まう女顔の兵士――リツィードは間抜けな声で顔を上げた。

「何だよ、ファム。あいつが何かしたのか?」

「何かもくそもっ…!あいつ、俺の幼馴染に手ぇ出しやがった!!!!ぶっ殺す!!!!」

「あーーー…」

 こめかみにこれ以上ないほどくっきりと青筋を浮き上がらせて怒号をまき散らした同僚の言葉に、とりあえず剣の手入れをしていた手を止めて、苦い顔のまま左手で頭を掻く。――またこの手の話か。

「幼馴染って言っても、恋人ってわけじゃないんだろ?それなら――」

「恋人じゃねぇけど、恋人にしたかった奴だよ!!!」

「――――――…あー…それは、まぁ…」

 ご愁傷様としか言いようがない。

 ひねり出したせっかくのフォローも打ち砕かれ、リツィードは諦めて嘆息した。

「純粋で世間知らずな奴だったんだ…!どうせ、カルの野郎が無理矢理迫って誑かしたに決まってる!」

「いやー…それはどうかな…」

 片頬を引きつらせて曖昧な発言をする。

 親友だからこそ知っている。――カルヴァンは、そんな面倒なことはきっとしない。そもそも、本質的に他人に興味がない奴なのだ。それは、男も女も変わらない。

 だから、カルヴァンが自分から女を無理矢理口説き落とすことなんてない。そんなことしなくても、意味深な流し目の一つでもすれば女が勝手にその気になって、自ら誑かされに来るのだ。おかげで、すべてが「合意の上」ということで、奔放な下半身事情にもかかわらず、奇跡的に未だにカルヴァンは女に後ろから刺されたりはしていない。

 だが、その事実を、一途な片思いを募らせていたファムに伝えるのは、さすがに残酷というものだろう。リツィードは、曖昧な顔で呻く以上のことはできなかった。

「第一、カルの手綱握っておくのはお前の仕事だろうが!」

「えー…嘘だろ、いつの間にそんな仕事負わされてんの、俺…」

 げんなりとつぶやく声は、本気の徒労がにじんでいた。

「とにかく、あいつが帰って来やがったら――」

「あー、わかったわかった。うん。しっかり言って聞かせるし、お説教しとく。だから、お前も一回帰ってちょっと頭冷やしてこい」

「チッ…絶対だぞ!帰ってきたら俺に知らせろよ!?ぶっとばしてやる!」

「はいはい」

 言いながらやんわりと背中を押して部屋から追い出す。同僚を気安く愛称で呼んで、するりと相手の懐に入ってくるファムは、いいやつであることは間違いないのだが、いかんせん激情型なので、一度怒るとクールダウンさせるまでまともな話し合いができないのが玉に瑕だ。

 未だ怒りが収まらぬ様子の同僚を部屋の外へと送り出し、彼が去っていくのを見送ってから、最後にもう一度嘆息する。

「――行ったぞ」

「あぁ。助かった」

 バサッ

 リツィードが部屋の中を振り返ると、普段は荷物置き場として使われている寝台から、目隠し用のシーツを翻してもう一人の部屋の住人――カルヴァンが姿を現す。

「お前な…ホント、いつか、後ろから刺されるぞ」

 ファムが去った方向を見て半眼になった後、部屋に入って扉を閉める。やれやれ、と言いながら後ろ頭をいつものように掻くと、カルヴァンは悪びれる様子もなくしれっと口を開いた。

「そんなへまはしない。割り切れる相手としか寝ないし」

「うわぁ…最低だー、この男…」

「第一、いつも言ってるが、俺から誘ったわけじゃない。今回だって、向こうから頼むから抱いてくれと迫ってきたんだ」

「…可哀想なファム……」

 あの物言いだと、貞淑な女の子だと幻想に近い思い込みをもっていたはずだ。まさか、大胆にも自分から男に抱いてくれと迫るような女だとは思っていないだろう。あまりに可哀想なので、今聞いた話は墓場まで持っていこう、と心に誓う。

「そういやお前、リリカはどうしたんだ?」

「は?誰だそれ」

「誰って…二丁目の文具屋の――」

「…あぁ。あいつか。…割り切った付き合いでいいっていうくせに、何度か抱いただけで本気になりそうで面倒臭くなったから、最近は会ってないな。そろそろ切る」

「ほんっとーに最低だな、お前…」

 あきれてものも言えない。基本的に一夫一婦制を良しとして、伴侶と永遠の愛を誓わせるエルム教の教えからはかけ離れた行為は、リツィードの理解の範疇を完全に超えていた。

「でも、お前からその手の話題振ってくるの珍しいな。――まさか、ああいうのが好みなのか?」

「はぁっ!!?」

「ふーん、意外だな。ああいう、色気むんむんの女より、お前は清楚系が好みなのかと思ってた」

「…いやいやいや。何の話だよ」

 額を覆って呻き声を出す。

「こないだ兵団長に頼まれて羊皮紙とインクの買い出しに行ったら、リリカの兄ちゃんから、最近妹の様子がおかしいって相談されたんだよ」

「なんだ。…で?なんて返したんだよ」

「知らないけど、理由が分かったら対処法考えて教えるって伝えた。――なんとなく、予想はついてたし」

 ジト目でにらむ親友に、カルヴァンはニヤ、とその男らしく整った顔をゆがめて笑うだけでその話題を流した。女顔のリツィードには、逆立ちしたって出来ない男の色香をまとうその表情に、再び大きく嘆息をする。

「ていうか、さすがに一言言わせてもらうぞ。お前が神様なんか信じないって言ってるのは知ってるし、お前がいいなら、もう、五千歩譲って女の子と遊び歩くのは好きにすればいいけどさ」

 言いながら、部屋の中央に座りこみ、手入れの途中だった剣に手を伸ばす。

「せめて同時進行はやめろ。苦情が全部俺のところに来る」

「…だから、俺が進んでやってるわけじゃない。女が勝手に寄ってくるんだ」

「来るもの拒め、って言ってんの」

 はぁ、と呆れかえって半眼でにらむ。来るもの拒まず去るもの追わず。思春期になって色気づいたころから、彼のそのスタンスは今日にいたるまで変わらない。

「そうはいってもな…拒むにしても、基準が難しいだろ」

「基準って何だよ。好きじゃない人は拒めよ、基本的に」

「好き…って、お前、誰に物言ってるんだ」

 尊大な態度で開き直られ、顔が引きつる。時折、こいつは自分が聖女の息子だと言うことを忘れているんじゃないかと本気で思う。

「恋愛とか、面倒くさいだろ。誰かに、何かに、縛られるのは好きじゃない」

「お前が自由をこよなく愛す自己中野郎だってのはよーく知ってるけどさ。せめて、今まで関係持った女の子の中で、誰か「この子と一生ずっと一緒にいたい!」みたいな子、いなかったのか?」

「一生、ねぇ…?」

 ため息をついて、寝台の上で長身を丸めて天を仰ぐ。一応、記憶をたどっているようだ。

「…いないな」

「本気かよ。やっぱり、独りが好きだからか?」

「いや?――単純に、タイプじゃない」

「――――――――――――――――お前、タイプなんてあったのか」

 驚きすぎて、呆然とした表情で思わず振り返る。するとカルヴァンは、心外だとでもいうように肩をすくめた。

「当たり前だろ。来るもの拒まずって言ったところで、下半身が反応しない奴はさすがに抱けない」

「いや…でも、お前、俺が知ってる限りでも、相手の女の子、本当に千差万別じゃん…」

 リツィードもまた、軽く天を仰いで記憶をたどる。

「可愛い系、清楚系、お色気系…年も、同世代、年上、年下、色々いたし…え、何、こうやって考えるとお前守備範囲広すぎじゃね?」

「そうか?…まぁ、抱くだけなら。――でも、恋愛とか結婚とか言うなら、そういうわけにいかないだろ。毎日会っても何回抱いても飽きない奴…って考えると、相当タイプじゃないと、無理だろ」

「何だそれ…しかも、そんだけ手広く手ぇ出しといて、どの子もタイプじゃないんだろ?…もしかしてお前、ロリコン??いっそ熟女趣味??」

「お前は俺をなんだと思ってるんだ…」

 今度はカルヴァンが半眼で呻く番だった。呆れた顔で親友を見返す。どうやら親友は自分のことをとんでもない変態野郎に仕立て上げたいらしい。

 リツィードは考えを振り払うように頭を振ってから、気を取り直して剣の手入れに戻る。昨日の訓練で軽い刃こぼれをしたところを、応急処置で研ぎなおしたいらしい。シャ――シャ――とリズミカルな音が部屋に響いた。

「…っていうか、俺よりお前だろ」

「は?」

 シャ――

 急に口を開いた親友の声に、思わず手を止めて振り返る。

 簡素な寝台の上に寝そべって肘枕をしながら、王都中の年頃の女を虜にする男前な顔が、いつもの取り繕うことない呆れた表情でリツィードを眺めていた。切れ長の灰褐色の瞳は、相変わらず人を食ったような光を宿している。

「兵団に入って、だいぶ『人らしく』なってきたんだ。そろそろ女の一人や二人、見繕えよ。気に入ってるやつがいるなら、俺が取り持ってやってもいい」

「いやいやいや…お前と一緒にするなよ。俺は敬虔なエルム信者なんだ、そんなただれた道には進まない」

「俺みたいになれって言ってるわけじゃない。お前は、それこそ誰か一人の女と恋愛して、結婚して――そういう人生歩むんだろ。誰かいないのか?」

「んー……そういわれてもな…」

 リツィードは、剣に目線を戻して、曖昧に言葉を濁す。シャ――という音が再び部屋に響いた。

 この話題はあまり好きじゃない。

「お前と違って、俺、モテないしな」

 目を合わせないまま、手入れに集中するふりをして答える。ごまかすようにへらっと笑ってみたが、カルヴァンはじぃっとこちらを見つめたまま動かない。

 リツィードは、カルヴァンのこの目が苦手だった。いつだって、心の奥底にしまった本音を見透かすように覗き込んでくる灰色の目。雪の日の空のように冷ややかな光を宿したこういうときの彼の瞳は、言外に「逃がさないぞ」と言っているようで、居心地が悪い。

(でも、聖人に、伴侶なんて望めないしなぁ…)

 フィリアは特例中の特例だ。本来、聖女も聖人も、他の聖職者同様、貞淑・純潔といった要素を求められる。

 母親が死ぬまでは、一般人に擬態して生きることを許してもらっているが、彼女が死んだらその役目を引き継がなければならない。その未来はリツィードにとって、疑いようなく必ず訪れる未来であり、恋愛も結婚も自分にとってはありえない遠い世界の出来事だった。

「本気でそう思ってるなら、こっち向け」

「いやいや…日が落ちるまでにこれ仕上げたいんだよ、ちょっと待てって」

「――――――『ツィー』」

「――――――――――…」

 シャ――

 軽快な音がやむ。わかりやすく肺の中の空気をすべて吐き出してから、覚悟を決めて顔を上げた。

「――なんだよ。ヴィー」

 お互いだけが呼ぶことを許した特別な愛称で呼ぶときは、「隠し事無し」「本音で話せ」の合図だ。

 初めて出逢い、親友になってからの十年、変わらないルール。思春期になり、愛称で呼び合うのがなんとなく気恥ずかしい年頃になってからは、あまりお互いに呼ぶことはなかったが、その分、呼ばれた時は何かしらの特別な事情がある時、という暗黙の了解が出来上がっていた。五歳のころから続いてきた、二人の間の違えない約束。

 カルヴァンは、じっといつもの目線でリツィードを眺めた後――ふ、と片頬をゆがめて笑う。人を食ったような、いつもの笑み。

「お前、まさかとは思うけど、男が好きとか言わないよな?」

「――――――――――」

 無言で。

 額に青筋を浮かべて手にしていた剣を振りかぶる。

「うわっ、ちょっ、幼馴染の可愛い冗談だろーが!!!」

「ふざけんな。一瞬、真面目に取り合おうとした俺が馬鹿だった。一回くらい地獄を見せてやる」

「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ!」

 いつも通りのじゃれ合い。

 そのうち、部屋に響く笑い声。

 ――そう、これは記憶だ。

 『聖人』としての人格しか持たなかったリツィードが、『人』として生きることが出来た、ほんのわずかな記憶。

 ――――――親友と過ごした、穏やかな時間――



「――――…」

 最初に目に入ったのは、薄い月明かりに照らされた天井だった。窓から差し込む黄金色の光は、柔らかくつつましやかに静かに、ベッドの足元あたりにやさしく降り注ぐ。

 二度、三度と瞬きをしてから身を起こす。体を起こすと同時にさらり、と視界の端で白銀の筋が揺れて、あぁ、そうだったとイリッツァはやっと正しく現実を思い出した。

「――――――…夢…」

 小さく、誰にも聞こえないようなかすかな声でつぶやいて、ゆっくりと両手で顔を覆う。あのころとは何もかもが変わってしまった。

 顔を覆うこの手も、昔はもっと大きく、皮も厚かった。剣のたこが至る所に目立っていて、こんなに細くもか弱くもなかった。視界の端にこぼれる白銀の髪も、当時は鏡を見ない限り意識しないくらい短かった。父親譲りの赤銅色をしたそれは、あまり親子らしい交流がなかった父との唯一のつながりのようで、男のくせにと言われるとわかっていても、実は毎朝鏡を見るのが嫌いではなかった。

 年齢を経て女性らしく丸みを帯びて膨らんできた胸も、昔とは似ても似つかない高い女性らしい声も――何もかもが、変わってしまった。

 いつからだろう。

 眠りの世界で、悪夢を見なくなったのは。

 ――悪夢よりひどい、幸福な夢を見るようになったのは。

 残酷な最期は、嫌な記憶だったが、目覚めるとその災禍が去ったのだと安心できた。もう、あんな目に遭うことはないのだと幸福を感じることができた。

 だが――幸福な夢は、いつまでたっても、慣れない。

 夢の内容は、あんなにも幸せだったのに――悪夢を見た時よりも、心がひどく、痛むのだ。

 目覚めるたびに、思い知らされる。

 ――もう、あの日々は、戻らない。

 ――――もう、二度と、彼に会うことはない。

「…っ……ヴィー…」

 ぐっと息が詰まったので、誰にも聞こえないようにそっと、小さく吐き出す吐息に、音だけを乗せるようにして、もう、誰も知らない愛称を囁く。

 唇から洩れた懐かしい響きは、処刑台で胸を刺しぬかれた時よりも強烈な痛みをもって、心臓のあたりを貫いた。

 神は、こうして何度も自分の罪を思い出させる。

 どれだけ新たな生を必死に生きようとも――


 ――もう二度と、あの低く響く落ち着く声音が、『ツィー』と呼ぶのを、この耳で聞くことはないのだ――


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