第9話 『英雄』カルヴァン・タイター①
眼鏡が老眼鏡になったのは、何歳のころだったか――ダニエルは、届いた郵便に目を通しながら、目を瞬いてくっと無機質なガラスを押し上げた。
「!」
そんな小さな身じろぎさえ気になるのか、びくっと背筋を跳ねさせる少女の背中を見て、わからないように苦笑する。先ほどから、「花瓶の水を変えます」「書棚を整理します」と用事らしい用事とも言えない口実をつけては何度も何度も部屋に来訪し、そのたびにこちらの一挙手一投足に反応を見せてはそわそわと落ち着きがないイリッツァを見て、ゆっくりと王都の知人から届いた近況報告の書簡から目を上げた。
「そんなに気になりますか?手紙の内容が」
「うっ……は、はい…」
少しばつが悪そうにしながらも、呻くように素直に認めるのは、彼女の美徳の一つだろう。ダニエルは笑って、手元の中からすでに読み終えた数枚を抜き出して少女に渡した。
「このあたりなら、あなたが読んでも差支えはありません。――どうぞ」
「あ、ありがとうございます!!」
ぱぁっとわかりやすく顔を輝かせて手紙を受け取ると、すぐさま目を書簡へと走らせていく。ダニエルは苦い顔をして、小さく嘆息した。
「そんなに王都の様子が気になるなら、連れて行ってあげますよと、何度も言っているのに…」
「いえ…そこまでは、さすがに。この外見では、目立ってしまって騒ぎになってしまうでしょうし」
文字を追う目を上げもせず答える表情は、真剣そのものだ。
記憶を取り戻してからのイリッツァは、それはそれはどん欲に知識を集めた。あらゆる書籍を読み、最新の王都の情報を欲した。
その中で最も重要視しているのが、この司祭に届く定期連絡の手紙だ。教会関係の知人からの手紙には、教会に関すること、王家に関すること――そして、軍事に関することなどがかかれている。
もちろん、郵便が届くまでのタイムラグは仕方がないが、今彼女が手にしうる中で最も最新の王都の情報は、この郵便によって知らされる情報だけだった。
「前回の定例報告の時よりもさらに…魔物が、各地で活発化しているのですね」
「そのようですね。ナイードのあたりに強力な魔物が出ないことを祈るばかりです」
「はい…聖人祭も近いですし、それまでは穏やかに過ごしたいです」
「最後の聖人様が亡くなって、早十五年…魔物が各領地の結界を破って侵攻するようになったという話が聞かれるようになったのが、ここ十年…ここ五年ほどは、その数もかなり増えてきました。聖人様の最後の結界の効力は、場所にもよりますが、だいたい五年~十年程度だったとみるのが、王立教会の見解のようですね」
「……まぁ…聖人も万能ではないでしょうしね…」
なるべく平静を装ってつぶやく。そんなつもりはないとわかっているが、責められているような気持ちになって心の中で汗をかいた。
基本的に、結界は何度もかけなおすのが常識だ。強度と持続時間は両立しない。強い結界を張ろうと思えば、持続時間は短くなるし、逆もまたしかりだ。神の化身たる聖女・聖人の力を持ってすれば、一般の司祭などよりよほど強力かつ持続力のある結界を張ることもできるだろうが、永続的な効果は見込めない。
「フィリア様も、毎年各地を行脚して結界を張り直していましたからね。いくら聖女と言えど、魔物の侵攻を完全に防ぐレベルの結界を、領地全体に施すとなれば、それくらいの期間で張りなおすのが効率が良かったのでしょう。初めて聖女になって、王都から王国全土を覆う結界を張られた時は、半月ほど寝込んだと聞いています」
「…まぁ…魔力消費量が半端ないでしょうし…毎日普通に暮らしつつ結界の効力を維持し続けるなら、それくらいの頻度がちょうどよかったのではないでしょうか」
当たり障りのない見解を述べておく。
そう、聖女の力も万能ではない。魔力を温存しながら十分な強度の結界を張るには、せいぜい一年程度の期間が効率が良い。司祭が、季節ごとに毎度結界を張りなおすことに比べると、単純に四倍の効率なので、十分化け物じみているのだが。
ここ、ナイードは、イリッツァが結界をこっそりと補強しているため、この十五年、一度も魔物の侵攻にさらされたことはない。とはいっても、聖女であることを隠す必要があるため、表立って結界を張るわけにもいかない彼女は、年に一度の聖人祭――最後の聖人が命を落とした日に、彼を悼むための祭の最中に、人目を盗んでこっそりと結界を張りなおしていた。
(自分の命日に祭りが開かれるって、なんか複雑だけどな…)
祭りと言っても、豊穣の祭りのように、町全体が数日浮かれるようなものではない。祭りの日の午前中は粛々と国民全員がエルム神にむかって、哀れな聖人の御霊が安らかであるように、と祈りを捧げ、各地の教会の司祭が主体となり、結界を張りなおす儀式を行う。午後は、聖人のおかげで享受できる平和に感謝し、教会主導の控えめな祝祭が領内で開かれるのだ。そして、夜には中央広場に大きなかがり火を焚き、大切な人との未来を語る。午前中は過去に想いを馳せ、昼は今に感謝し、夜は未来を願う――そんな、しめやかで厳かな祭りだ。
最初に記憶を取り戻した時は、それはそれは複雑な気持ちになったものだったが、もはや慣習となっていたのでどうしようもない。未だに「リツィード」という名の青年こそが王国史上最高の聖人だと祭り上げられるのを目にしたり耳にしたりするのは、なんとも居心地が悪かった。
この祭の日は、領内にぐっと人出も増えて皆が特別な人と過ごす。誰もイリッツァの動向など気にしない上に、毎年必ず同じ日に行われるので忘れようがない。こっそりと結界を張り直すには最適だった。
「もしこの辺りに魔物が出たら、騎士団が派遣されますから、ヤーシュあたりは大喜びしそうですね」
「はは…確かに。でも、そんなこと、万が一にもあっては困ります」
控えめに諌める。口に出した内容が言霊となって事実となるのは避けたかった。
騎士団が領地にやってくるということは、実際に結界が破られて魔物が街にやってきたときか、結界で防ぎきれないような強力な魔物が観測された時だけだ。どちらも、領民が危険にさらされることに変わりはなく、王都までの距離を考えると、少なくない犠牲が出た後にしか、騎士団はやってこないだろう。
(だから――騎士団は、永遠に、この街にはやってこない)
聖女の結界が破られることなど、ありえない。ここが破られるような事態が起きたら、それはすなわち、国家の危機だ。
(カルヴァンにも――会うことは、もう、ない)
騎士団長たる彼は、遠征でもない限り、王都から出ることはない。それも、実際に被害が出ているような、深刻な地域を優先して回る。平和で安全な領地には、彼は決して足を運ばない。
だから、彼がこの領地を訪れることなどないのだ。
彼に会いたい、と願って転生したイリッツァだったが――
――彼女は、どうしても、自分のささやかな願いごときで、今、目の前で平和に暮らす人々を危険にさらすことなどできなかった。まして、それを防ぐ術を持っているにもかかわらず、あえて被害を出す、など。
これは、聖女としてではなく、イリッツァ個人としての、譲れない矜持だった。
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