第8話 イリッツァ・オームの『生きる意味』

 ガラン ガラン

「ん……?…郵便か?」

 教会の表から響く鐘の音に、イリッツァは顔を上げた。自室の窓の外を見て差し込む光の角度から時間を察し、つぶやく。そろそろ、ダニエルが懇意にしている王都の修道士から、定期連絡便が届くころだ。

「よっ…」

 背中の上に載せていた重り代わりの砂袋を下ろし、体を起こす。

 ――生まれ変わっても、変えられなかった習慣。それは、体術・剣術の訓練の習慣だ。

 寝ているか、鍛錬をしているか、母に光魔法や聖人の心構えを教わっているか。前世の毎日は、それだけだった。学校に行っていた時期は、さすがに座学も学んだが、十歳で兵団入りしてからは、「どうせ騎士にはなれないし」と座学の勉強はぱったりやめてしまった。魔法が使えない設定だった以上、騎士にはなれないし、そもそも学問は嫌いだ。

 身の回りのことは、聖女付きの女官たちが賄ってくれた。だから、何も考えず、ただ鍛錬か聖人としての勉強だけをしていればよかった日々だった。

 今はさすがにそういうわけにもいかない。修道女見習いの仕事はもちろん、日々を生きていくための細々とした身の回りのことをやらなければならない。

 ダニエルは、どうやら必ずしも修道女として生きなくてもいいと思っているらしく、見習い期間は教会で暮らしていいが、成人したら自由に恋をして結婚をして、女としての幸せを追いかけなさいとイリッツァに言い聞かせて育てた。――野郎と結婚なんか御免こうむる、とは言えず、修道女になりたいと幼いころから伝え続けているが、どうも頑なに聞き入れてもらえない。

 おかげで、いつ良い縁談があってもいいように、と炊事・洗濯・裁縫など、一通りのことは四苦八苦しながらも一人でできるようになった。――料理と洗濯はともかく、裁縫だけは、未だに苦手意識がぬぐえないが。

 そう考えると、前世のころよりも格段に鍛錬の時間は無くなっている。ナイード一の鍛冶師が鍛えた聖剣が教会に奉納された時は、めちゃくちゃにダニエルを困らせた自覚があるが、どうしてもどうしてもと頼み込んで、聖なる剣を振らせてもらった。十年ぶりに振ったそれは、昔使っていた剣よりも軽かったが、鍛冶師の渾身の作だけあって、かなりの業物であることは明らかで、心が躍った。――人生で握ったことなどないはずの大人用の剣を軽々と振って瞳を輝かせる十歳の少女を見るダニエルの眼は、明らかに引いていたが、もうそれは気づかないふりをした。

(思えばあれが、人生で初めての『わがまま』だったなぁ…)

 早朝に奉納されたにもかかわらず、夕暮れまでずっと剣を手放さないイリッツァにほとほと困ったダニエルは、鍛冶師に頼んで、訓練用の刃がない剣を注文してくれた。十一になる誕生日にそれをもらったときは、記憶にある合計二十五年ほどの年月の中でも五本の指に入るくらいの喜びだった。嬉しすぎてその日は一日、肌身離さず身につけて、寝るときも一緒に眠ったものだった。外出するときには置いていきなさい、と呆れた顔で諭されてしぶしぶ頷いたのを覚えている。

 今のイリッツァは、ナイードの領民には「聖女様」と慕われる仮面を被っているが、一歩教会の中に入って領民の眼が無くなれば、隙あらば砂袋を背中に載せて筋トレをするし、日が暮れて人目が無くなれば裏庭で剣を振って鍛錬をする。

 生まれ変わって、決めたこと。

 ――前世で見つけられなかった「己」を見つけよう。

 耳の奥で蘇るのは、もう記憶の彼方でしか聞くことのないかつての親友の声。


「初めて会った日から思ってたが、普段のお前は、とにかく気味が悪い。もっと『人』らしさを覚えろ」

「へ…?」

「わがままを言ったり、好きなものを好きと言ったり、嫌いなものを嫌いと言ったり、泣いたり、笑ったり、誰かを愛し、誰かを羨んだり。一般的に、人間ていうのはどういう喜怒哀楽を持って生きているのか、聖典から目を離して自分の目で見て自分の頭で考えろ。何考えてるのかわからない完璧な笑顔が、とにかく気味が悪いんだ」

「えぇぇぇ…んなこと言われても、なぁ…」

「まずはその前に、自分を知れ。そもそもお前は何が好きで、何が嫌いで、何をしたいんだ」

「うぅぅーん…?国民を、救いたい」

「そんな優等生な回答は求めてない。そんなのお前の母親に刷り込まれた洗脳の結果だろう。お前個人は、リツィード・ガエルは何がしたいんだ」

「うーん……わかったわかった、ちゃんと考えてみるから、人をそんな気味悪そうな目で見るな。眉間にしわ寄り過ぎだぞ」


 当時はそんなことを言っていたが――そうして結局、死ぬ間際になるまで本当にその答えはわからなかったが――イリッツァとして、ナイード領で何にも縛られない人生を過ごすうちに、彼の言う『人』らしさを目で見て、頭で考えることが多くなった。

 少なくとも、新しい生を十五年過ごして気づいた。――今、目に映る人を救うことと、鍛錬を怠らないこと。これは、母がいなくても父がいなくても、「己」がやりたいと思って成していることだ。

 こうやって、一つずつ、「己」を知っていこう。何が好きで、何が嫌いで、何を惜しむのか。そうして己を知っていった先に――せめて死ぬとき、誰かに未練を聞かれて、聖人としての義務以外何も浮かばないような、空っぽの人間にだけはなりたくない。

 もっと――『人』らしさを学ぶこと。

 それが――女になってまで生まれ変わったくせに、親友に会いに行くこともできない自分が見つけた、新しい、生きる意味。

 ガラン ガラン

「はいはーい!今行きます!」

 催促するようにもう一度鳴った表の鐘の音に大きな声で応えて、イリッツァは身支度を整えて自室を出た。

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