第7話 再び始まる『聖女』の人生②

「そんなに緊張しなくてよいのですよ」

 ダニエルは、普段は天使のような完璧な笑顔すら浮かべることもある少女が、頬をこわばらせているのを見て、珍しいこともあるものだ、と感心した。

「いえ…なんだか、少し怖くて…神様に、儀式の間、お祈りしていてもいいですか?」

「ふふ…大人びていると思っていても、やはり、まだまだ子供ですね。つい、忘れてしまいそうでした」

 微笑ましさに頬を緩めながら、ダニエルは水鏡に手をかざす。向かいに跪いたイリッツァは水鏡越しに優しい養父の顔を見上げる。養父の向こうには、宗教画に描かれた神・エルムが儀式の様子を見下ろしていた。

 見極めの儀式――

 魔法属性を見極めるためのその神聖なる儀式に、緊張でこわばった頬のまま、少女は瞳を固く閉じて聖印を胸の前で切り、額へと両手を持って祈りの形を取った。――エルム教徒ならだれでも知っている祈りの姿。

(司祭様、ごめんなさい…)

 心の中で謝罪し、ぎゅっと眉間に力を入れる。イリッツァの緊張は、儀式が怖いためではない。――司祭につく嘘がばれないか、が彼女の頭を占めるすべてだった。

 儀式に緊張しているので祈りをささげていたい。そういえば、優しい司祭は了承してくれるだろうと思っていた。事実、未知の儀式に泣き叫ぶ子供もいる。そういうときは、修道女や司祭が「お祈りをしていようね」と優しく諭し、目を閉じて心を落ち着かせている間に儀式をさっさと終わらせるというのが慣例だった。

 もちろん、イリッツァの思惑は祈りをささげることではなく――儀式の間中、目を閉じている口実を得ることだった。

 見極めの儀式では、司祭の手により、強制的に魔法を発動させられる。もし、これが聖女・聖人であれば――水鏡には光がほとばしり、子供の身体のどこかに勝手に聖印が浮き上がる。

 記憶を取り戻してすぐに、自分の魔法属性が光であることを確認したイリッツァは、鏡を前にして、右目に聖印が浮かぶことがわかったあの日から今日まで、どうしたら周囲に自分が聖女であると隠し通せるかだけを考えて生きてきた。

(母さんの時代でも大変だったのに――今、この時代で聖女とか、絶対、絶ぇっっっっっ対に、面倒くさい!!!)

 面倒くさい世の中を作り出したダメ押しは自分の行いだとわかっていても、イリッツァは眉間にしわを寄せて固く固く瞼を閉じる。

 もともと神聖視されていた聖女・聖人という存在だったが、リツィードの事件は国民全員の衝撃を招いた。

 神の信徒たる王都の民が、闇の魔法使いの術中にはまり、聖人を貶め、処刑台へと追い込んだ。磔にして、石を投げ、火刑に処した。そこまで貶めた人民に、聖人は寛大にも民を許し、国を守り、闇の魔法使いの脅威を退けた。石を投げた民は絶望し、事件後、罪の意識に耐え切れない王都の住人によって王立教会の懺悔室には長蛇の列が出来た。国民は一様に悲しみに暮れ、英雄だったリツィードの父親と同じか、それ以上の規模の大々的な国葬が開かれた――というのが、記憶を思い出したイリッツァが周囲の大人や町の図書館に通い詰めて暴き出した五年前に起きた事件だった。

(いやいやいや、だから気にするなって言ったのに)

 渾身の格好をつけた最期の演説を、あっさりなかったことにされていた事実に、こっぱずかしさが止まらない。

 結果、国民の――特に王都の住民の聖女・聖人への贖罪を願う感情は、最高潮に高まっているのだろう。神聖視を通り越して、もはや神格化されていると言っても過言ではない。

 事件が起きてほどなく、王国の隅にあるナイードのような小さな領地にすら、聖女・聖人が見つかった時のお作法が事細かに書かれて教会に改めて周知された。その書簡によると、王族と紛うばかりの好待遇でもてなし、領民は頭を垂れてひれ伏し、即刻王都に引き渡すべし、とのことだ。フィリアの時でさえ、半ば軟禁に近い扱いだったと聞くが、今聖女だなどと判明したら、王立教会か王城の最奥地に真綿にくるむようにして生涯監禁されるのではないだろうか。

 イリッツァは、そんな扱いを受けて第二の生を終えるつもりはさらさらなかった。

(そんなことになったら、カルヴァンにも会えるわけないしな…)

 取り留めなく考え事をしていると、ぽぅ――と体が不意に温かくなる。ぞわり、と体の中を見えない手が撫でていくかのような一瞬の不快感。

(ぅわ――きたきたきた)

 ぐぐっとさらに眉間に力を入れて、万が一聖印の光が漏れたりしないよう、うつむいて額の手でダニエルから顔を隠す。

「おや――これは…」

 だらだらと背中に冷や汗をかきながら、早く終われと何度も心の中で念じる。意図せぬ魔法行使は不快以外の何物でもない上に、今瞳を覗き込まれたらすべてが終わる。

「もう大丈夫ですよ、イリッツァ」

「――――――……」

 そっ…とゆっくり、注意して左目だけ瞼を上げる。魔法行使の残滓があれば、聖印も残る。危ない橋はなるべく渡らないに越したことはない。

 水鏡を左目で確認すると、波紋は収まり、光の線が一筋入って輝いていた。どうやら、儀式は無事終わったらしい。

 己の魔力の流れが正常に戻っていることを確認して、ゆっくりと右の瞼も押し上げて、ダニエルを見上げた。儀式用の装束に身を包んだ養父はいつも通りの優しい笑みを浮かべる。

「あなたの魔法属性は光です。――修道女見習いとしては、これ以上ない資質ですね」

「……はい…」

 ほっ、と心から安堵して答える。どうやら、人生で一番緊張する瞬間は、無事何事もなく終えられた様だ。

「よく頑張りましたね。エルム様も、新しい光魔法使いの誕生を喜んでくださることでしょう。光魔法の使い方は、私がこれからゆっくりと教えていきますね」

「はい…ありがとうございます」

 手をほどき、イリッツァもまた、笑顔で司祭に向き合う。本当は、司祭がつかえるレベルの光魔法など、すでに前世で全て履修済みなのだが、口が裂けてもそんなことは言えない。

「では、水鏡を片付けるのを手伝ってくれますか?」

「はいっ」

 慣れない嘘をつく行為から解放されたイリッツァは、元気よく答えて、水鏡へと駆け寄る。その様子を見て、ふとダニエルは手を止めた。

「そういえば――最近は、よく、眠れていますか?」

「え――?」

 きょとん、と見返すと、優しい飴色の瞳が少し心配そうな色を映して少女を覗き込んでいた。

「昨年からしばらく、よく悪夢にうなされていたようですから」

「え、なんで…」

「あなたが寝入った後、部屋の前を通ると――いつも、声が聞こえますから」

「ぁ…」

 自分では隠していたつもりだったが、どうやらバレバレだったらしい。イリッツァは少し視線を外して、左手で後ろ頭を掻く。

「えっと…でも、所詮、夢、ですから…」

「いつも見る夢は同じですか?――痛い、熱い、とよく言っているようですが…」

(うわ…他に変なこと言ってないだろうな、俺…)

 寝言はさすがにコントロールできない。うかつなことを口走っていないか不安になったが、へらっと笑ってダニエルを見上げた。

「いつも、朝起きると忘れてしまうんです」

「そう、ですか…いつも、酷いうなされ方ですので、心配で…」

 その表情から、おそらく気づいたときは安眠の魔法をかけてくれているんだろうなと察して、心が温かくなる。

 記憶を取り戻した日から、毎日、毎晩、夢を見る。それは、すべて、前世――リツィードとして過ごした日々。

「――大丈夫です。…辛い夢を見た日の方が、起きた時、あぁここはもう辛いことはない幸せな世界なんだと、実感できるので」

「ふむ…なるほど、考え方次第ということですね」

「はい」

 笑顔に少しだけ苦みを含ませて返事をする。

 痛い夢は、怖くない。

 ――つらい夢も、怖くない。

 イリッツァが今、一番見たくない夢は――


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