第5話 蘇った『終わり』の記憶②
『――――――本当に?』
そんな声が、頭の中で響いた。
磔から下ろされ、必死に治癒がなされているのはなんとなくわかったが、急激に冷えていく手足や遠のく意識から、治癒なんて間に合わないだろうな、と思っていた矢先の、妙な声。
正直、幻聴だと思った。想像を絶する痛みで、気でも狂ったのかと思った。
だが、それでもしつこく、頭の中に謎の声が響く。
『本当に、思い残すことは、何一つないのか?』
(うるさいな…ないよ、あるわけないだろ)
演説の時にかぶった聖人の仮面を取り繕うことなどできなかった。素の口調で心の中でつぶやく。
闇の魔法使いの脅威を払った。国民は正気に戻った。とりあえず、今の自分にできる全力の魔力で王国中を覆う結界を張ったから、向こう十年くらいは魔物の侵攻に悩まされることはないはずだ。
これで、何を、思い残すというのか。
『聖人として、禍根を残すことはないだろう。だが、一人の人間として――リツィードとして思い残すことはないのか。やり残したことや、未練はないのか』
(何を…言っているんだ…?)
もう、瞳を開けていられない。ゆっくりと目を閉じると、ふっ…と意識が遠のいていくのが分かった。
あぁ――死ぬって、こういう感じなんだな、とどこか冷静に分析する自分を感じながら、リツィードは想いを巡らせる。
最初に思い出したのは、風に揺れる勿忘草の薄青色。あの色は、彼にとって、他でもなく、母の色だった。血を分けた息子を前にしても、一切の温度を感じさせなかったその瞳は、死ぬまで変わらなかった。
その瞳が、温かく緩む瞬間を見たくて――幼いころは、必死に彼女から与えられるものを学び続けた。「よくできましたね」と彼女がほほ笑んでくれるのではないか――そんな、今となっては鼻で笑ってしまいそうな淡い期待を抱き続けて十五年が経ったが、夢は夢のまま終わった。
彼女に認められたくて学んだのは、聖人としての心構えであり、振る舞いだった。それは、息をするように己の行動指針として染みついていて、もう、切っても切り離せない。
そう、母から教わったのは、ただ一つ――
――己の感情はすべて殺し、信徒の幸福を願い、叶えること――
(だから…何も……あるはず、ない…)
己の感情を持つことは、禁忌だ。それは、聖人として生を受けたその瞬間から、決して望んではいけないことなのだと、徹底的に教えられた。あの、アイスブルーの凍えた瞳が、こちらを向くのは、その教えを説くときだけ――強烈に、幼い心に焼き付けるように、その教えは自分の中に確固たる地位を築いた。
(聖人・リツィードの名前は残っても…兵士リツィード・ガエルの存在は、消えてなくなる…)
それは、定められた運命だった。自分が聖人なのだとわかったその日から、覚悟していたこと。
『だが、お前は、その責務から逃げた。――半年もの間』
(あぁ――…そう、だな…その通りだよ…)
だから、今、こうして自分の命をもって償おうとしているのだ。
(俺は――逃げた…)
先代の聖女であるフィリアが死んだと同時に、国が荒れた。闇の魔法使いが暗躍し始めたのはそのころだろう。国民が危険にさらされていたその時――すぐにでも、聖人として名乗り出て、民の乱れた心を救うべきだったのに、それをためらった。
――個人の感情を、優先した。
『それは――何故だ…?』
(それは……)
思い浮かぶのは、一人の男。
すらりと高い背。世の中の女性を惹きつけてやまない整った男らしい顔つき。自分とは根本的につくりが違うのでは、と思うくらい優秀で記憶力の良い頭脳。彼が操る剣と魔法は、自分がこうなりたいとあこがれた父親の技術の粋が詰まっている。人を食ったような笑みを浮かべて、少し斜に構えて、口も性格もお世辞にもいいとは言えないが、この宗教国家にあっても「神など信じない」と断言してしまうほど自由な生き方を貫く男。
自分が持っていないもののすべてを持っていた男。
母からも父からも愛を得られず、孤独に聖人としての義務だけをよすがに生きるしかなかったつまらない空っぽの自分の前に現れて――初めて、『友達』になってくれた、大事な存在。
(……あぁ…怒る、かな…――今度こそ、本当に…嫌われ、そうだ…)
幼いころから覚悟していたくせに、土壇場で躊躇し、半年間も名乗り出られなかったのは、彼がいたからだ。
「神など信じない」と断言する彼は、エルム教も、聖典の教えも――聖女も聖人も、忌み嫌っていた。
だから、言えなかった。
打ち明けたら――嫌われて、しまいそうで。
小さな喧嘩なんて、何度もした。「己の感情」を持つことを禁忌とされながら、己の感情をむき出しに生きる彼に感化されて、彼の前でだけは、少しだけ「己の感情」と呼ばれるもののかけらを見つけられた気がする。くだらないことで、言い合って、ぶつかって――そうだ、そういえば、最後に彼に会った時――彼が魔物の討伐隊に選ばれて遠征に旅立つ前、些細な言い合いをして、意地を張って、むくれた顔で別れた。
(未練――――…あれが最後なのは…嫌、だな…)
親友が最後に見たのが、つまらないむくれた顔だなんて。
本当は、遠征の無事を祈っていた。帰りは、温かく、笑顔で迎えたかった。
きっと、彼が遠征から戻ってきたときに見る自分の顔は、血と痣で汚れた死に顔だ。しかも、足の方は焦げているし、胸からは大量出血。――彼に、そんな悲惨な姿を見せたいわけじゃない。
素直じゃないから本人は決して認めないが、本当は優しい男だと知っている。憎まれ口しか叩かないくせに、本当はリツィードのことを大切に思っていることも知っている。
きっと、帰ってきて、事件のすべてを知ったら、彼は激怒するだろう。唯一無二の友の亡骸を前に、悲しみに慟哭するだろう。神を信じない男だ。――神の無慈悲を嘆きはしない。彼が嘆くのは、己の無力。
耳の奥で、もう聞くことはないだろう親友の低く響く落ち着いた声音が、親しみを込めて、彼しか呼ばない愛称を囁く幻聴が響いた。
(あぁ――もう一度)
もう一度だけ――昔のように、呼んでほしい。
そうしたら、いつものように、返事をするから。きっと、笑って、返事をするから。
『未練があるなら、一度だけ、やり直す機会をやろう。しかし、与えられるのは時間だけだ。その時間を活かせるかどうかは、お前次第だ』
(あぁ――そうだな。もし俺に「リツィード」としての未練が、あるとすれば――)
それは、きっと。
――――――親友・カルヴァンに、もう一度だけ、会いたい――
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