第4話 蘇った『終わり』の記憶①

 イリッツァが記憶を取り戻したのは、五歳の冬だった。

 それまでは、何の疑問も抱かず、ここナイード領の教会で、司祭ダニエルを父親代わりに育った。当時は、ちょっとばかり目を引く珍しい髪色をしているが、特段優秀でもなく、同世代の子供たちと何も変わらない素直な少女時代だったと聞く。

 ところが、彼女が五歳になった年の冬だ。例年にないほどの記録的大雪を観測したその年、ナイードの子供たちは無邪気に外に出て雪遊びを始めた。

 イリッツァもまた、何の疑問も持たずに同世代の子供たちにまぎれて外に飛び出して雪合戦に興じ――

 複数の子供たちから雪玉を投げつけられたとき、瞬時に記憶が立ち上った。

「――――――っ!?」

 今朝降りやんだばかりの新雪で作られた雪玉は、体に当たった瞬間に霧散するほど柔らかく、痛みなどほとんどないはずだった――が、イリッツァは大げさに体をかばう。

 何故だかわからないが、ふかふかのはずのその白い球が――彼女には、固く冷たい、石礫にしか見えなかった。

 とたんに蘇る、ここではないどこか。

 ナイードでは見たことがないほどきれいに整備された石畳、処刑台に縛られ軋む身体、目をやる先には狂気をはらんだ無数の瞳がこちらを睨み、口々に吐き出される怨嗟と怒号が鼓膜を揺らしていく。

 その場にいる全員が――ただただ、自分の死を、不幸を、望んでいる――

「ぁ…ぁあああああ――――――――!!!」

 気づけば、喉の奥から絶叫を迸らせ――周囲の驚愕も戸惑いもそのままに、その場で、気を失った。


 深い眠りの底にいたようだった。

 真っ暗な闇の中で、ゆっくりと目を開く。

 それは、断罪の記憶。

 人々が、我こそは正義と信じ、口汚く罵る声。足元の硬い石礫を拾い上げ、諸悪の根源に向けて、力いっぱい投げつける。この世に生まれる不安と恐怖を、そうすることで晴らそうとするかのように。

 体のいたるところにぶつけられたそれは、当然痛みを伴った。

 ガッ――

「いっ……てぇ…」

 さすがに、成人男性が全力で投げ込んだ石礫が顔面――右瞼のすぐ上の額に直撃したときだけは、思わずうめき声が漏れた。――が、周囲には決して聞こえないように口の中でかき消してしまう。

 この怨嗟を浄化するには、これは必要な儀式なのだ。

 民のために――敬虔なる信徒のために。彼らを救うには、必要な儀式なのだ。

 無数の石の雨に打たれながら、磔にされた少年――リツィードは痛みに呻きそうになる己を必死に理性で抑え込んでいた。

 本当は、今すぐにでも叫び出したい。眼下に広がるのは、王都中の民草だ。この人数に恨みと恐怖以外の感情を向けられていない現実は、もうすぐ十五になろうか、という程度の少年を絶望の底に叩き落とすのに十分すぎるほどだった。

 それでも、少年はぐっと唇を噛みしめて、恐怖に凍り付き、本能で石を投げる者たちを恨みそうになるのをギリギリでこらえる。

 一瞬、石礫の雨が止む。不思議に思って瞼を押し上げ――初めて、いつの間にか瞳を閉じていたことに気づいた。先ほど額に当たった石は、鮮やかに皮膚を切り裂いたようで、視界の右側は赤色に染まっている。

 赤が混じる世界でゆっくりと視線をめぐらすと、目の前に、明らかに正気を失った色を瞳に宿した処刑人が、仰々しい何か儀式めいた仕草で声を張り上げていた。――初めてうまく音が聞こえないことに気づいた。石のあたりどころが悪かったのか、鼓膜が破れたのかもしれない。

 見覚えのある仕草だった。――あぁ、これは、断罪の儀式。

 石礫がやんだ理由は、この手短な儀式を執り行うためだろう。――儀式の最後にこの処刑人が手をかざすと、その手から炎がほとばしり、リツィードの足元に着火するはずだ。魔法の火だから、徐々に大きくなるわけではなく、いきなり最高火力で着火する。

 そうなれば、再び雨が降り注ぐのだろう。怒号に声はかき消されるのだろう。

 だから――自分の言葉を届けるのは、今しかない。

 ぐ…と残った力で顎を上げる。乾いたのどから、精一杯の声を絞り出す。

「…俺……いや――――――私、は…」

 民に――とどけ。

 悪しき魔法に毒された、不幸な信徒を救うために――

「私は、真実を語る…聞け、哀れな信徒たちよ――!」

 己が断罪される場で――本当の悪を、断罪する。

 一人でも多くの者に、声を届ける。

 己が救われるためではなく――国の信徒を、救うために――

「何をしている!早く火を放て!」

 焦った声が聞こえた。――左側の鼓膜は無事だったか。ちらりと目をやると、黒いローブを着た、魔法使いが蒼白な顔で処刑人に手をかざしていた。自分の声に儀式を思わず中断したはずの彼は、虚ろな瞳で続きの仕草へと移る。

「私はっ…闇の、魔法使いなどではない…っ…!」

 ゆっくりと処刑人が右手をかざす。

 こぉ――と魔力による熱が集まっていくのを睨むように眺めながら、リツィードは人生最大の声量で叫んだ。

「私は、聖人―――この国を救い、導く者だ―――!」

 カッ――!

 リツィードの身体から、目を焼く光線が王国中へと放たれるのと――処刑人の手から業火の魔法が放たれるのは、同時だった。

「ぁ…ああああああああああああああああっ」

 熱い――――――熱い熱い熱い熱い熱い――!

 一瞬、すべての思考がその文字だけで埋め尽くされる。脚が炭になっていく激痛に、喉を焼く熱線に、生理的な涙があふれる。

 しかし、視界の端に映ったのは――先ほどまで怨嗟が渦巻く中広場で叫んでいた狂気の民衆たち。今は、全員が棒立ちになり、自分を――自分の顔を、凝視している。

(――――あぁ…そうか…)

 言葉などいらなかったのだ。自分は、ただ――魔法を放つだけでよかった。

 己の左頬に浮かんでいるであろう光る聖印を思い出すと、激痛の中で一瞬正気に戻る。

 今、痛みで魔法を散らすわけにはいかない。

 国民を救うため――本当の闇の魔法使いを断罪するために。

 リツィードは最後の理性の糸を手繰り寄せ、丁寧に光魔法の構築をつづける。もう、肉声を張り上げなくても、この光の結界が届く場所には、声を届けられるだろう。

 だから、最後に――罪なき聖人に石を投げたと、この後絶望に暮れるであろう愛すべき信徒たちに――愛のこもった、心からの伝言を。

『――私は、この国の民の、すべての罪を許そう』

 そうして終わる、最初の人生。

 追い詰められた黒いローブの男が、演説と展開していく光魔法を止めようと傍の兵士から槍を奪い、胸を突きさした時には――もう、痛みの感覚なんて麻痺していた。

「っ、ぐ…」

 ただ、灼熱が胸に咲く感覚だけはあった。ごぽり、と嫌な音を立てて何かが喉の奥から混みあがってきたかと思うと、口の中一杯に鉄の味が広がった。

「いやぁあああああああ!聖人様!!!!」「何をしている!その男をすぐに取り押さえろ!」「そんなっ…俺、俺たちは、何をっ…」「む、無実のっ…無抵抗の人間に、い、石を投げ――」「何でもいい!早く、早く消火を!水の魔法使いはいないか!?」「とにかく聖人様を下ろせ!!!」「お願い、お願い、神様――どうかお許しくださいお許しくださいお許しください――」「司祭様を呼べ!いや、誰でもいい!光魔法がつかえる者は、すぐに治癒を――!」

 広場に混乱が広がり、様々な悲鳴と兵士たちの慌てた指示がごった返す。

(あぁ――よかった)

 処刑台から下ろされ、地面に横たえられながら、リツィードは人々の目に正気の光が戻ったことを確認し、ほっと心で息を吐く。

 これで――心残りなく、逝ける――――――――


 ――――――本当に?


「っ――――――!」

 ガバッ

 真っ白なシーツをはねのけて寝台に飛び起きる。

「イリッツァ!」

「え、あ……――え…?」

 飛び起きた先で、ただでさえ白い顔をいつも以上に蒼白にした眼鏡の壮年男性が目に入る。

「大丈夫ですか?雪遊びの途中で叫んで倒れたと聞いて――あれから、丸一日、ずっと寝込んでいたんですよ」

「ゆ、雪遊、び…?」

 ガンガンと頭が痛んでいる。目の前の男性を凝視したまま、頭を抑える。

「イリッツァ?頭が、痛むのですか?」

 心配の色を隠しもしないで、男が頭へと手を伸ばす。ふっ…と温かい光が手に現れたかと思うと、徐々に痛みが引いていくのが分かった。――あぁ、鎮痛の魔法だ、とどこか冷静な頭の隅で考える。

「い…イリッ…ツァ…?」

「?…どうかしましたか?」

「あ、いや…え…ちょ…まって…俺――いや、わた、し――?」

 頭の痛みは魔法の作用で消えていったが、優しい淡い光は、混濁する記憶までは整理してくれなかった。王都の石畳と混乱を極めた叫び声が渦巻く悪夢の時間と、目の前の壮年男性と過ごした日々が交錯する。

(待て…ちょっと…待て…!落ち着け、一つ一つ確認しろ、俺!)

 昔から座学は嫌いで、神学以外の勉強は苦手だった。自分の頭の出来の悪さをこの時ばかりは恨みながら、ゆっくりとわかることから確認する。

 まず、目の前でおろおろと戸惑っているこの眼鏡の壮年男性――ダニエル・オーム。ナイード領唯一の教会の司祭で、赤ん坊だった自分を拾って今日まで育ててくれた人物だ。かつて、この土地で生まれた聖女・フィリアとは幼馴染だったことは、最近寝物語のついでに聞いた。

(聖女…フィリア…フィリア…?)

 それは――「母さん」の名前だ。

 間違いない。「フィリア」は、母さんの名前だ。国民の期待を一身に背負って三十年ぶりに現れた聖女は、国の宝と呼ばれていた。そして、父親――「親父」の名前は、バルド・ガエル。――王国が誇る、泣く子も黙る最強の騎士団長。

 そして自分は――自分の名前は――

「イリッツァ…って…?」

「どうしました?自分の名前を忘れたわけではないでしょう?」

「――な、まえ…自分、の…?」

 いや、間違っていない。ダニエルから、いつも呼びかけられていた記憶は確かにある。彼が自分を拾った時に、生まれて初めてもらった大切な贈り物。彼はいつだってその名を呼ぶときは、愛しく優しく呼びかけるから、いつだってご機嫌で返事をした。

 そんな、五年間の記憶と――

 『リツィード・ガエル』として過ごした十五年の記憶が、同時に存在している。

「あ、の…司祭、様…」

「はい、なんですか?」

「その…今は…王都歴何年、ですか…?」

 おずおずと、昨日までの口調を思い出しながら口を開く。ダニエルを父と慕って無邪気に過ごしていた「イリッツァ」は、素直に一番身近な大人である彼の口調をまねる形で言葉を覚えた。

「王都歴、なんて私は教えたことがありましたか?…今は、582年ですよ」

「582年――」

 呆然と口の中で繰り返す。

 記憶の中の年数と、五年も齟齬がある。

(え…もしかして、これ、生まれ変わりとか、転生とかいう――…)

「嘘だろ、おい…」

「い、イリッツァ…!?」

 急に聞いたこともない粗暴な口調で顔を覆った養い子に、ダニエルは驚愕して身を乗り出した。

(あ、やばい…そっか、そうだよな、司祭様からしたら、俺は何にも知らない五歳の可愛い女の子だ)

 そう、背伸びをするように養い親の口調をまねて、一丁前に修道女見習い気取りでせっせとお手伝いを買って出て、一人称は「私」――

(私――…って…)

 はた。とそこで気づく。

「――――――――――って、お、女!???」

 ガバッと思わず胸元を引っ張って服の下を覗き込む。が、そこに予想したふくらみはなかった。――当たり前だ、まだ五歳児だ。

 ひくっ…と顔を引きつらせて、ゆっくりと――体の中心に、記憶の中の十五年間そこにありつづけたはずのモノがないかシーツの下で手探りでを確認し――

「――――――――――――――ない――…」

 これ以上ないほどの絶望をにじませたつぶやきを最後に、ぼすっ…と再びベッドに突っ伏した。

「い、イリッツァ!?ほ、本当にどうしたというのですか!?倒れた時に頭でも打ったのですか!?」

「いや…何でもない…です…」

 今にも泣きそうになりながら消え入りそうな声で呻く。

(嘘だろ…なんで…女…)

 前世では、英雄・ガエル騎士団長の息子として、剣の腕だけなら王国一と言わしめたほどの兵士だった。当時の子供たちがそうだったように、自分もまた、一人の純粋な少年として英雄にあこがれ、父のように「漢の中の漢」になることを夢見ていた。幼いころ、母親似と言われた女顔が本当に嫌いで、いつまでたっても伸びない身長に歯噛みし、幼馴染のキリっとした男らしい整った顔を何度羨ましく思ったことか。おかげで、せめて筋力だけでは負けないと、毎日毎日人の三倍くらいの訓練を積み続けて、筋肉だけはしっかりついた屈強な兵士になった。死の間際、十五の手前のあの頃は、やっと少し少年らしい面影が薄まって、青年らしさが覗いてきたと言われて有頂天になっていたのが懐かしい。

 そんな、自分が。

 よりにもよって――女に転生するとは。

 しかも――

「司祭様」

「なんだい?」

「俺――ちがう、私って…もしかしてもしかしなくても…」

 ゆっくりと、顔だけを養い親に向ける。

「――――――幼いころのフィリア様に、そっくり?」

「――――誰かに言われましたか?」

 ぱちぱち、と驚いたようにダニエルは目を瞬かせる。イリッツァは、はぁああああ…と肺の中のすべての空気を吐き出して、再びうなだれた。

(なるほど…最期に聞いたあの声は、もしかして、俺の幻聴なんかじゃなく――)

 イリッツァは、諦めの境地で、あまり積極的には思い出したくない最期の記憶をたどった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る