第一章

第2話 ナイード領の『聖女様』①

「ん~~~~!いい天気!」

 ぽかぽかと温かい陽気の中、教会の裏に純白のシーツを干し終えた少女――イリッツァは大きく伸びをして声を出す。年のころなら十四~十五歳。幼さを残しながらも、少しずつ大人びた表情が見え隠れするような年頃だ。

 修道女見習い用のワンピースに身を包んだ少女は、久しぶりの陽気を逃すまいと、朝からシーツと格闘するために屈みっぱなしだったせいだろうか、ぐっぐっと腰に手を当てて伸びを繰り返している。

「さてと、次は――」

 伸びを終えたイリッツァは、誰にともなくつぶやきながら、空になった金桶を手にその場を後にしようとして――

「あっ、聖女様!」

「聖女様だー!」

 後ろからかかってきた声に振り返る。動きに合わせて、ぱっと美しい白銀の髪が跳ねた。

 声の方を見ると、領地の子供たちが満面の笑みでイリッツァに向かって手を振っている。天使のような子供たちの表情に、イリッツァもまた華やぐ笑顔で手を振り返した。

「ねぇ聖女様、昨日のお話の続きして!」

「私も聞きたい!」

「僕も!」

 澄み切った瞳でお願いされ、イリッツァは少し困った顔で返す。

「皆さん、もう学校は終わったんですか?」

「うん!今日は朝だけなんだ!」

 一人の少年が答えるのを聞いて、イリッツァはふわりと笑う。子供たちが「聖女」と呼ぶのもふさわしい、慈愛に満ちた笑顔だった。

「そうですか。では、まずは教会で今日のお祈りをしてきてください。終わったら、中庭に集合です。私はこれを片付けてから向かいます」

 ふふ、と笑ってライトブルーの瞳を細める。可憐で美しい表情に、笑いかけられた少年はほんのりと頬を染めた。

 一人のいたいけな少年を淡い初恋に突き落としてしまったことには気づかぬまま、ふんふんと鼻歌で聖歌を口ずさみながら、イリッツァは金桶を片付けに向かった。


 イリッツァ・オームは、ここ、クルサール王国の最西端にあるナイード領の教会で修道女見習いをしている少女だ。

 ナイード領といえば、この国では「聖女生誕の地」として知らぬ者はいない。だがそれは、イリッツァのことではなく、十五年前に亡くなった先代の聖女・フィリア生誕の地としてだった。

 大陸最大の領土を誇るクルサール王国は、王都と、王都に付随する十二の領地で成り立っている巨大な国家であり、国民全員が一つの宗教「エルム教」を信仰している宗教国家だ。信仰されているのは、唯一神『エルム』を信仰する宗教で、今や発祥地であるクルサール王国の枠を超えて大陸全土に広まっているため、信仰心の強さはともかく、たとえ王国外の出身だとしても、生まれてから「エルム様の思し召し」という言葉を聞いたことのない子供などいないのではないだろうか。

 その国に、まれに強力な光属性の魔法使いが生まれる。人々はそれを、「聖女」――男性の場合は「聖人」――と呼んでいた。

 彼女らは、神・エルムの化身ともいえる存在とされており、神の声を聴き、歴史の上で、常に国を救ってきた。ゆえに、聖女・聖人であると判明した瞬間、王都に召し上げられて国中の教会を統べる枢機卿団預かりとなり、国家繁栄のために尽力しながら、生涯を王城の奥に設えられた神殿で過ごすのが習わしだ。彼らが使役する光魔法は、神の奇跡と呼ばれるほどに強力で、魔法を使うたびに体のどこかに浮かび上がる聖印は、彼らが人外の選ばれし存在であることを意味していた。


 その「聖女」が、今から約四十五年前、このナイードで見つかった。

 フィリアというその少女は、世にも珍しい青みがかった銀色の髪と、艶やかなライトブルーの瞳を持った、それはそれは美しい女だったという。そう、まるで、イリッツァのように――

 イリッツァは赤子のころ、教会の前に捨てられて泣いていたところを、司祭であるダニエル・オームが見つけ、教会で引き取ったらしい。修道女見習いとして育てられた彼女の魔法属性が光属性と判明したときは、すわ、聖女の再来か!?と領民が沸き立ったが、彼らの儚い夢は瞬時に立ち消える。理由は単純だ――聖女であれば、光魔法使役と同時に浮かぶはずの「聖印」が、残念ながらイリッツァはどこをくまなく探しても見つけられなかったのだ。

 つまり、イリッツァは、先代の聖女によく似た容姿を持つ、たまたま先代と同じ領地で拾われて育てられた、たまたま光属性を使役できる修道女見習い、でしかない。

 しかし、その心根の優しさや、慈愛に満ちた笑顔は人々を心から癒してくれる存在だったため、今や領民のほとんどが、親しみを込めて「聖女様」と彼女のことを呼んでいるにすぎないのだ――


(今日が洗濯日和の天気で良かった)

 イリッツァは、金桶を片付けた後、洗濯でぬれてしまった装束を着替えに自室に戻ってきていた。窓から洩れて来るのは、昨日までの雨が嘘のようなぽかぽか天気。これなら、中庭のベンチで気持ちよく聖典を読み聞かせられそうだ。

 教会に属するものとして、一人の敬虔な信者として、子供たちが教会や教義に興味を持ってくれるのは嬉しい。「お話」と称して、聖典の内容を子供たちにわかりやすく伝えているだけなのだが、それもまた、教会に属する修道女見習いとしての立派な勤めの一つだ。

 目を引く容姿はもちろん、模範の中の模範といってもいいような聖職者としての振る舞いが染みついているイリッツァは、領民全員から好かれている。何かあれば――いや、何もなくてもイリッツァを訪ねて領民はやってくるし、特に多いのは今日のように子供の来訪だ。地域によっては、子供に教義を伝えるのに苦労するという領地もあるらしいから、イリッツァの存在は、教義の浸透という点では非常に有益と言える。

 今日もしっかりとお務めを果たそうと、子供たちを待たせないように急いでワンピースを着替えようとして――

「いたっ…」

 首にかけっぱなしだった聖印をかたどる銀の聖具が頬をひっかき、痛みを発する。ひとまず、そろり、と注意を払って着替え終えてから、壁にかかっている鏡を見ると――

「…あーあ…赤くなってる…」

 頬のあたりにすぅっと一筋、朱い線が入っている。血が出ているわけでもないし、放っておいてもいいのだが、このまま子供たちの前に行くと、心配をかけてしまうかもしれない。

「仕方ないな…」

 つぶやいて、鏡で赤い痕の位置を確認しながら、そっと痛む頬に人差し指をかざし、集中すると――

 ぽぅっと穏やかな光が指先に集まったかと思うと、次の瞬間には、かざされた箇所の赤みがすぅっと消えていた。

 ――光魔法の効力。

 兵士や騎士が戦闘において使役する、外敵に攻撃を与えることが主な使い道である地水火風の属性魔法と異なり、光魔法は戦闘ではあまり直接的には役に立たない。光魔法は主に結界を張ったり怪我を治癒したり、筋力や魔力といった何かしらの能力を一時的に強めたり、といった戦闘に置いての補助に特化した魔法だからだ。

「――あ、やば。目ぇ閉じるの忘れてた」

 鏡を見て、ポツリ、と思わずイリッツァが漏らす。

 ――領民の誰も知らない、イリッツァの秘密は、2つ。

「こういうついうっかりだけは気を付けないとな…」

 パチパチ、とごまかすように鏡の前でライトブルーの瞳を繰り返し瞬かせる。

 ――――右目に光る聖印が浮かんだ瞳を。

 領民全員に慕われる彼女の、最大の秘密の一つ。

 イリッツァは、聖女に似ている少女、ではない。

 正真正銘の、「聖女」なのだ。

「…よし、消えたな」

 瞳に浮かんだ聖印がしっかりと消えたのを確認してからうなずく。そのあと、鏡に映った自分を見て、イリッツァは途端に苦笑した。

「しっかし、こうして見てみるとほんと…母さんにそっくりだな、今の俺。ははっ…いっそ、昔の筋肉ゴリゴリの自分に見せてやりたいな」

 誰にも言えない秘密の二つ目――

 それは、イリッツァには、転生前の――"筋肉ゴリゴリ"の男の時の記憶があること――

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