聖女転生物語
神崎右京
序章
第1話 プロローグ
――なにが、起きた――…?
キン――という音を最後に、世界から、音が消えた。
頭が理解することを拒否したからなのか、本当に水を打ったように静まり返っているのかはわからない。あぁ、そういえば今日は雪が降ると誰かが言っていた。今にも白い粉を降り注ぎそうな灰色の空は、分厚く日の光を一筋だって通さない。
無音の世界の中、回らない頭でゆっくりと考える。
あれは、つい半刻ほど前――長かった遠征も無事終わり、王都へとたどり着く直前だった。急に、世界を、まばゆい光が焼いた。
分厚い雪雲をかき消すかのように、王都を中心に放射線状に空に展開していく光の網――それは、この国の者ならすぐにわかった。国を守るための結界――光魔法の展開だ。
誰が目にしてもわかるはずのそれが、一瞬理解できなかった理由は単純だった。
頭上をすべて覆い――さらに遠くの空まで伸びていくそれは、尋常ではない規模の魔法展開。この規模での高速展開など、王都の最高司祭ですら不可能だ。
こんなことを出来るのは、半年前に死んだはずの「聖女」しか心当たりがない。
だが、彼女は死んだはずだ。最愛の夫を亡くし、心が壊れて、聖女として国を守るという役割を放棄し――たった一人の息子さえも置いて、自らの人生の幕を閉じたのだ。
では、誰が――?
恐らく、国民全員が抱いた疑問は、次の瞬間頭に響いた声でかき消された。
『――私は、この国の民の、すべての罪を許そう』
「――――――――!」
ハッと息をのむ。
それは、物理距離を無視して直接頭に響いてきた。声変りをしたばかりのような、少年の声。
その声は、酷く穏やかで――慈愛に満ちた、優しい音をしていた。
『私もまた、罪を犯した。責務を負わず、民に不安を与え、国を乱した。今、この私の姿は、その報いであり――清廉なる信徒たる民には、何の咎もありはしない』
知っている。
自分は、この声を、知っている。
それもそのはずだ。十年前、初めて出逢ったあの日から、一番たくさん聞いたはずの声だ。この声が、こうして話すとき――それはそれは、完璧な、聖者のような穏やかな笑みを浮かべることもまた、知っている。
それは、声の主――無二の親友・リツィードが持ついくつかの表情のうち、一番嫌いな表情。
何が起きているのかはさっぱりわからなかったが、気づいたときにはまたがっている愛馬の腹に思い切り蹴りを入れていた。
「カルヴァン!?戻れ!」
上官の叫びが聞こえたが、無視する。愛馬はすぐに乗り手の意図に応えて風のように駆け出した。
なんだ、なんだこれは、何が起きている…!?
じっとりと手の中に嫌な汗がにじみ、ぐっと手綱を握りしめた。頭に直接響く声がうるさい。心臓が妙な胸騒ぎに勝手に走り出す。
こんな胸騒ぎ、遠征先で魔物に食われそうになったときにも経験したことはなかった。
『ゆえに今、罪を償おう。愛すべき民に、祝福を。国土すべてに、安寧を。悪しき魔法使いには――ぐっ…!』
「っ――――!」
頭の中の声が、急に苦悶の声を漏らす。ざわりっと胸が騒いで、さぁっと血の気が引いた。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!
唯一無二の親友のはずの声が、聴いたこともないような不思議な力を持った声で演説をしている。全く心当たりがないが、己の本能が、とにかく今すぐ声のもとへと駆けつけろと脅迫しつづけていた。
いつもならまだるっこしい手続きが必要な王都の門。屈強な門番が目を光らせているはずのそこでも、茫然自失と言った様子で門番が空を見上げたまま口をぽかんと開いていた。おそらく、この妙な演説も、空に展開する超魔法も、すべて己の妄想ではなく全員に見えて、聞こえていることなのだろう。
「どけっ!」
鋭く怒声を飛ばして、棒立ちの門番の間を風になって駆け抜ける。
『っ…悪、しき魔法使いには――神罰、をっ…』
カッ――――――!
声とともに、再度光が奔る。頭に響くのは、何かを堪えるような苦悶の声。しかし、その声音から、力強さは失われていなかった。
「中央広場かっ!」
光が奔ってきた方向から場所にあたりをつけ、馬を走らせる。本来、王都の中で騎乗状態で駆け抜けるなど重罪以外の何物でもないが、今は何も構っていられなかった。幸い、道には誰もおらず、跳ね飛ばす心配はない。
――誰も、いない――?
そこで初めて違和感を覚える。
大陸で最盛を誇る国家の王都の真昼間。いつもなら、都民や商人、周辺領地からの訪問者でにぎわっている大通りが、なぜか人っ子一人いやしない。
ぐるぐると頭の中で考えてもわからないことばかりを考える。なんだこれは、悪い夢でも見ているのか。
(っ――だったら頼むから、さっさと起きてくれ、俺!)
唇を噛みしめてさらに馬を駆ると、中央広場が遠くに見えてきた。どうやら、街に見えなかった人影のほとんどは、その広場に集結しているようだった。
「っ…どいてくれ!」
人ごみの最後尾で馬を止め、馬上から叫ぶ。しかし、人ごみは割れることはなかった。
なぜか、そこにいる王都の住民のほとんどが――膝をつき、顔を覆い、うなだれている。
「くそっ、一体何が――」
毒つき、前方の方に目を凝らして――言葉を失った。
キン――――――という音を最後に、世界から音が消える。
空を覆っていた光の網は、いつの間にかすでに掻き消えており、元の灰色の押しつぶされそうな空が覗いていた。
音の消えた世界で、ふわりと鼻腔をくすぐるのは、何かを燃やしたような焦げたにおい。そして、見間違いでなければ、広場中央にあるのは――重罪人を処刑するための磔だ。
しかし、その磔には誰も架けられていない。いや、架けられた形跡はあるものの、慌ててほどいた――そんな様子で、鎮座していた。
「――なにが、起きた――?」
呆然とした声が唇の端から零れ落ちる。どくんっ…どくんっ…と心臓の音だけが耳の奥に響いていた。
状況だけを見れば、推察はできた。
磔の足元は、真っ黒に焦げた跡がある。あたりに広がる鼻につく匂いは、その残り香だろう。焦げていると言うことは、火あぶり――つまり罪状は、宗教上の、何らかの重罪。だが、磔に人がいないということは、処刑が終わったか――処刑の途中で、中断された――?
屈強な兵士たちが、磔の足元に何名もうずくまって、何かを取り囲んでいる。
はらり…と雪が目の前に舞い落ちた。だが、広場に集まった国民の誰一人として、空を見上げる者はいない。ただ、全員が膝から頽れたまま悲嘆にくれ、涙を流し、慟哭し――
「――――おい…?」
つぶやきながら、馬から、落馬するように力なくするりと降り立ち、人ごみの中へと足を進めた。これは、前に進んでいるのか、よろけるのを堪えるためにただ足を出し続けているだけなのか、自分でもよくわからない。
――待ってくれ
よく、わからない。
頽れた国民の足元には、石が転がっていた。――あぁ、投げたのか。あの、磔に向かって。断罪のために、渾身の力で。抵抗できない罪人に、放っておいても無残に焼け死ぬ咎人に、追い打ちをかけるように、己の感情を発散するためだけに、投げつけたのか。
だが、わからない。――空になった磔に、べっとりとついている血糊はなんだ?
おそらく、磔にされていたのなら胸のあたりだろう。尋常ではない量の血糊がついている。きっと、あの血の主は、生きてはいられまい。
わからない。火あぶりにされ、死を待つだけの人間に、国民全員が石を投げた。追い打ちをかけるように、胸を突いた…?
あぁ、わからない。わからない。
よろよろとした足取りでたどり着いた、最前列で、小さく口を開く。雪が降りだした空気は、肺を凍らすかと思うほど冷たい。
「――――――リツィード…?」
磔の下で、国民の慟哭をすべて受け止めるかのようにして、友が寝ているのは、何故だ?
その腕に、縄の痕をつけて、体のいたるところに石礫の青あざを作り、胸からおびただしい量の血を流し――足は、見えないが、恐らく炭になっているだろう。
その瞳は固く閉ざされ、肌からは血の気が一切感じられない。
「なぁ…」
これは、何の悪夢なのか。
ふらり、と友に――友だったものに近寄り、周囲と同じように膝から頽れる。
友は、清廉潔白な男だった。誰よりも、この国の誰よりも、敬虔な信徒だった。彼がこんな最期を――こんなむごい最期を、迎えるはずがない。
そっ…とその石礫の青あざをたたえた頬に指を伸ばす。降り注ぐ白に負けないほどの、白い肌。
「冗談、だろ…?」
ひんやりとしたその肌は、生者のものではありえなかった。雪が舞い降りても、肌で溶けずにはらりと滑っていく。
なんで。どうして。
今だって、すぐに思い出せるのに。
神に真摯に祈る、真剣な横顔。一緒に兵士になろうと鍛錬した日々。軽口でからかうと、すぐにむきになって言い返してくるむくれた頬。素直じゃない幼馴染に向ける、呆れた目。余所行きのときの「完璧な笑顔」じゃない、ふっと漏れた吐息だけで微かに笑う声。
いつだって、隣にいた。誰よりも、そばにいて――愛称で呼べば、いつだって、笑って振り返ってくれた。
「ツィー…!」
何度だって呼ぶから。
頼むから、いつもみたいに――
そうして、のちの英雄カルヴァン・タイターの世界は、十年ぶりに常闇に包まれた――
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