直観と直感が分からない 【KAC20213】

江田 吏来

分からなくても生きていける

 テレワークの活用や不要不急な出張や会議を中止するなど、できる限り外出を控えるようにしてください、と言われたので俺は在宅勤務になった。

 はじめは慣れないことばかりで戸惑っていたが、コロナ禍が一年も続けば慣れてくる。 

 朝はゆっくり起きて、十二時まで仕事。昼食を適当に食べて、腹の虫が落ち着いたら仕事を再開。そのまま夜までみっちり集中……できれば良いのだが、厄介なことが起きはじめた。

 どうしても三時過ぎに眠たくなる。

 昼寝をする余裕などない。それなのにまぶたが重く……重く……。つい手が止まってウトウトしはじめると。


「美羽! 宿題は終わったの?」


 甲高い声にハッと目を覚ます。

 いつの間にか帰宅していた娘が妻に叱られていた。

 宿題が終わってないのに遊びに行こうとしたに違いない。

 まだ眠い目をこすって残りの仕事を片付けようとしたけど、ガミガミ響く妻の声。俺が叱られているわけじゃないのに心臓がバクバクして、頭が冴えてくる。

 娘の美羽には悪いが、毎日のこのやりとりが目覚まし代わりになっていた。

 ところがある日、俺はふと気が付いた。


「宿題は終わったの?」


 妻の鋭い声に美羽は「終わったもん!」と答えている。だが、「あら、そう。それなら行ってらっしゃい」とあっさり娘を外に行かせる日もあれば、「ウソばかりついて! まだ終わってないでしょう」となる日がある。

 この違いは何だ?

 妻に聞いてみると「じっと目を見ればピンときますよ」と。

 これが女の勘ってやつか。恐ろしい。

 そういえば大学生の頃、酷い目に遭った記憶がある。

 妻と知り合う前の話だが、当時お付き合いをしていた女と高級ホテルでクリスマスディナーを楽しむはずだった。


「ちょっとその足、どうしたの⁉」


 クリスマスイブまであと二週間という時期に、右足を骨折してしまった。女は俺の足を心配するどころか「これじゃクリスマスディナーが台無しよ」と嘆いたのだ。

 ムカついた。

 当然、大喧嘩して女は去って行く。

 俺に残ったのはクリスマスディナーのキャンセル料だけ。これは惨めだとバイト先で愚痴っていたら。


「えー、キャンセルなんてもったいない。あたしを連れて行きなさいよ!」


 かわいらしい目をくりくりさせて、二つ上の先輩がぐいっと迫ってくるではないか。

 俺、生まれてはじめてのモテ期にたじたじだったが、先輩はさらにぐっと体をよせて。


「ホテルでのクリスマスディナーなら、終電を気にせずに飲めるわね」


 艶めかしい声で囁いてくるから、二つ返事でOKした。

 松葉杖をついているがやることはできる。くびれるところと膨らむところがハッキリした先輩の体に――。

 頭の中はいやらしいことでいっぱいだったが、涼しい顔をして当日を迎えた。


「楽しい夜になりそうね」


 シャンパンを片手にほほ笑む先輩はエロ……素敵だった。

 しかも店内は豪華客船をイメージしたインテリアと、パノラマのように広がる夜景が最高の雰囲気を醸し出している。

 次々と運ばれてくる料理も素晴らしかった。

 風味と舌触りが堪らない最高級ランクの黒毛和牛は、豪快に目の前で調理してくれる。炎が立ちのぼる大迫力と肉が焼ける芳ばしい香りに、視覚も味覚も大満足だ。そして、デザートのやさしい甘さが口の中いっぱいに広がっているときがチャンス。

 

「このあと、二人でゆっくり飲みませんか?」


 先輩は黙ってうなずき、俺たちはリゾート感あふれるエグゼクティブルームへ向かうはずだった。


「ちょっと、待ちなさいよっ!」


 激しい怒りをにじませて仁王立ちする女がいる。

 俺の骨折よりも、高級ホテルでのクリスマスディナーを心配した女だ。

 

「ど、どうしてここに?」

「この野郎てめぇ、松葉杖をついて、ごっついギブスをしてるくせに。悪い予感が当たったわ」


 カツカツと荒々しくヒール音を響かせて、女は俺の胸ぐらをつかみあげた。


「そんな状態でも聖なる夜を過ごしたいのか? このケダモノめっ‼」


 金的をくらった。

 息もできない激痛に倒れ込んだ。足も痛い。

 この女とは別れたはずなのに、そう思っていたのは俺だけだったのか。

 しかも先輩は「なんだ別れてないじゃん。二股かけるような男は最低よ。さようなら」と。ゴミくずでも見るような目で去って行った。

 奮発したエグゼクティブルームでひとり、ただただ泣きながら股間を冷やす俺。

 いやな過去を思い出してしまった。


「女の勘は恐ろしいな」


 ぽつりとつぶやくと妻が「違うわよ」と笑った。


「美羽の場合は目を見ればわかるの。勘じゃなくて直観よ」

「直観も勘のようなもんだろ?」

「それは直感。カンの字が違うのよ。ほら、子どもの様子からうそをついてるって分かるでしょう。それが直観かな」


 意味がよく分からない。

 腕を組んで首を傾げていると、妻はやれやれと言いたげな表情で洗い物をはじめた。

 文系の妻は言葉にうるさい。だからこれから先も何かあれば、やれやれと言わんばかりの表情で俺の知らない言葉をどや顔で説明してくるだろう。


「お、これが直観か?」


 ふとひらめいたこの答えは正解なのだろうか。

 妻に聞いてみようと口を開いたが、やめた。

 直観と直感が分からなくても生きていける。それよりも溜まった仕事を片付けよう。そして仕事のあとにはうまい酒。

 それで良いと何度もうなずいていた。




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