眠る妹

古新野 ま~ち

眠る妹

 附属高校で虐められたらしい妹は引きこもりになった。先方からの謝罪等はなかった。妹がいたという事実すら消えたようだ。


 そのような妹が社会復帰の一歩目としてレジ打ちのアルバイトをしていた時に出会った男性と結婚し同居するまでに1ヶ月もかからなかったことは、人生で最もたまげた。母は声をかける、未だに妹の部屋に。返事がしないから扉を開けてようやく自分の老いを再認識する。おそらく職場でもめっきり老け込んだと噂されているのだろう。だが彼女には仕事がある。私にはない。義弟が私を頼ったのは失業中の義姉ならば暇だと見当をつけたのだろう。


「霧生さんが目を覚まさないんです」

「部屋から出てこないとかではなく、ですか」

 引きこもりが再発したんだろうと私は考えた。

「ベッドは一緒なんで」

「そう」

「もう3日も起きないんです。声をかけても揺すっても無駄で、僕が隣で焼き肉をしているのに起きないんです」

「そう」

「霧生さんは、なんというか、睡眠障害を患っていましたか?」

「そんなことはありません」私は義弟との距離を定めかねていた。つい自分の口調がメロドラマの姑めくのを自嘲したくなる。

「貴方が仕事に行っている間に起きているのでは?」

「言ってませんでしたか。仕事をやめたんです」

「は? 母は貴方が定職についているからと安堵して霧生を任せたんですよ?」

「そちらの事情は分かりますが、まずは霧生さんのことでは? こうやって我々が言い争う時間すら惜しいはずですが」


 とぼけた奴だというのは察していた。だがここまで私の神経に障る男だったのかと呆れる時間があるはずもない。


 妹のバイト先に、彼が働いている姿を確認しに行ったのは確か母の頼みだったが、私の野次馬根性に似た、小姑とはこういう心性に由縁するのかと爽やかな心地を弄んでいたのは、彼が客前にも関わらず従業員の中年女性を怒鳴りつけていたのを見るまでだった。


 私は言われるがままに妹夫婦の住むアパートに向かった。電車で1時間ほど、真昼なので混雑していない。かつて通勤に使っていたはずの路線と危うく間違えそうになりながら勝手の知らない街の車窓を落ち着かない心地で眺めていた。


 妹はまだ18だ。私が彼女の年齢の頃、大学一回生。春一番が吹きすさび揉みくちゃにされたサークルの勧誘のビラを思い出す。亡霊のように霞んだ5年前の今ごろの記憶だ。


 一時間はあっけなかった。義弟は改札前で待っていた。


 歩いて10分ほどと聞いていたが、私はタクシーに乗ることにした。


 ヤニ臭くなった車内の風通しをよくするべく窓を開けようとすれば義弟がその手を止めた。寒い、という。もう四月だと私は言った。


 イヤミのようにジャケットをキツく身体に纏う。


 代金は彼が支払った。その財布は1000円ほどで買えそうな代物だった。

 家の鍵を財布に入れているらしく小銭を探る。そしてそれを私に手渡した。


「自分はここで」

 すぐさまタバコに火をつけた。

「どうして? 貴方の家の問題じゃないの?」

「行けば分かります」

 ふと、妹が学習机を整理出来なかったことを思い出した。ゴミ屋敷とまではいかずとも、汚れた部屋を私に咎められると思ったのだろうか。


 訳を聞かず、私はアパートの階段を昇った。二階の踊り場から駐車場でタバコを吸う義弟を見下ろした。

 しかし三階の踊り場からは義弟の姿が見えなくなった。

 廊下は自分の足音がやけに反響した。扉の前を表札を確認しつつ進む。


 視界の端に黄色い塊が動くのをとらえた。黄色い背中にチョコレートのような色の筋を確認できた。蒸しパンのようで、甘そうなそれはアパートの一室を、扉をすり抜けて入っていった。302号室、妹夫婦の部屋だ。


 ピカチュウだった。間違いなく。私は急ぎ扉を開けた。


 もはや灰皿としか形容できない臭いの空気に頭痛すら感じた。乱雑に脱ぎ捨てられた男物のスニーカーや革靴の中に一足だけパンプスがあった。妹が家を出ていった日に履いていたものと同じだった。


 汚れた食器や鍋が放置されたままの台所に、それらが放つ酸性の刺激に、我慢しつつ手を洗いうがいをしようとしたときマスクをつけたままであることに気がついた。


 調味料やビール缶や煎餅やポテチの空き袋などを踏まないように進むと、ピカチュウが盛り上がった掛け布団の上で跳ねている。

「霧生」と私が起こそうと布団を捲ると、かつて震度6弱を体験したときのエレベーターが急下降したかのごとき感覚を再現された。初期微動もない不意打ちに布団を手放す。


 とにかく妹は大丈夫かと声をかけようと布団に目をやったときには、段積みされた三本の土管に私は腰かけていた。周囲は一軒家が、見渡せる限り6軒。どうやら空き地らしいが、なぜこのような場所に居るのかは見当がつかない。予想するに地震が原因で、とまでは言葉を紡ぐことが可能であるがその先が続かない。いや、続けるだけならばできる。


 地震が原因で私は頭をぶつけて昏睡した。

 地震が原因で気が動転しここに至るまでの記憶を無くした。

 地震が原因で時空間に生じた亀裂に……これは虚構にもほどがある推測だ。


 とにかく空き地から移動しようとしたとき、私は目の前にいる連中の、とりわけその中の一人、いや一体のおかげでここがどこなのか悟った。


 球体を思わせる真っ青の頭部や手をもつそれは、数ミリほど地面から浮いている。周囲の小学生よりも少し背の低いそれはまさしく、ドラえもんだった。


 彼らは頭にタケコプターを装着し空を翔んだ。上空にはオレンジ色の胴着を着た男が既にいた。この男は何故か宙に浮いている。彼らはなにかを目指しているらしい。慌てて一つの方向に向かう。


 追ってみようかと考えるのが通常の私だろうが、この時、まず妹のことが気がかりだったことと、ひどく揺れた先の地震のことが頭を占めていた。丸みのある五芒星の板に乗っているカービィーやバクに偉そうに命じているクロミちゃんやトトロが上空にひしめいていても、土管から動けなかった。


『それは僕たちの奇跡』のイントロ部分がどこからか響いてきたとき先ほどのピカチュウと同一個体とおぼしきものが私の肩にいた。


 そして小さな手で北の方を指した。上空に気をとられていたが、甲冑や迷彩服やブーメランパンツや全裸蝶ネクタイとお盆をもっただけなど個性豊かな人々も一方向を目指して歩いている。


 ビリー・アイリッシュの気だるげな音楽が流れていると思えば、ももいろクローバーZのとても忙しい曲に変わる。脈絡がなく、奇っ怪な電波ソングやラブソングや嵐やAIやらと解ったり解らなかったりする街中の音が変化する。


 重たいピカチュウを肩に乗せて一方向に私も歩きはじめたとき、その先は何もないですよという声が灰皿のような臭いとともに漂ってきた。


 気がつくと義弟が私を抱き抱えていた。

 距離をとると義弟はタバコを咥えたまま掛け布団をめくる。そこには誰もいなかった。

「そんな……」

「あいつらについていっても何もありませんよ。ずっとずっと、どこまでいっても同じだったんです」

 義弟の吐いた煙にむせた。彼は私のことを気にかけない。

「上司からの電話が無ければ俺もあの道をずっと歩き続けていたに違いない」

 私は感情のない瞳の男を一人部屋に残して立ち去った。捜索願を出したものの、妹はまだ見つかっていない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠る妹 古新野 ま~ち @obakabanashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ