第29話
『ポーピア』が帆船としてはあり得ない挙動をはじめてから、一時間ほどが過ぎた。
乗員たちは動揺を押し殺し、あらかじめ指示されていた各自の役割を全うするために動きまわっている。士官は問題の起こった座標を確認し記録を取り、水夫はいつでも戦闘に入れるように配置に留まった。
戦闘楼にいるリリンカの眼下で、見たところ甲板は落ち着きを取り戻している。
とはいえ艦長タラーテの統率力なくして、乗員たちに敵の手の内に無抵抗で入り込むのを納得させることはできなかっただろう。
現在のところ、艦の向かう先は『テルカリス』が消えたとされる方角と一致している。
「リリンカ」
ふいに人の気配が現れ、静かに名を呼ばれた。
「ルゼ。何かわかりましたか?」
「あら……私がどうしていたか、知っているの?」
衣ずれの音がして、闇から染み出すように視界の端に魔女の軍服の暗い赤が見えたと思うと、それはたちまち華奢な女性の姿になった。最後に白黒縞の太いリボンが帽子から垂れて、全身を把握できるようになる。
「姿が見えませんでしたので。この事態の元凶を探しに行かれているのかと」
「まあ。鋭いのね。私よくこうやっていなくなって、怒られてしまうのに」
ころころと笑って、ルゼはリリンカの隣に腰を下ろした。
「そうねえ。今何が起きているのか、大体はわかったのよ。でも問題はそれをどう処理するかなのよね」
「この艦を運んでいる生き物を倒したところで、根本解決にはなりませんからね」
「その通り……んん?生き物、って私、言ったかしら」
「ただの推測ですよ。人の操る船でずっと水面下に潜んでいられるものなどあり得ない。ならば海の怪物の仕業かというと、少し不自然なところもある……本来、あの手のものは人間の船を好んで襲ったりはしないでしょう。それが二度も続いたのです、この状況は少なくとも、どこかしらの勢力が背後にいるのだと思います」
古今、航海における危険は様々あれど、遭遇頻度という点で伝説になりうるのは、海の怪物だけだ。
海軍の歴史においては、いくつか記録がある。もっとも、一番最近のものでも百年は昔になるので、その手の伝説的生物はすでに絶滅したのではないかとの考えもある……。
「ふふ、じゃあ見てのお楽しみといったところね。タラーテに考えがあるそうよ。朝になったら怪物さんとご対面といきましょ」
朝摘みのバラをお隣に届けましょう、くらいの口調で朗らかに言って、ルゼは再び姿を消した。
◇◇◇
翌朝のこと。
船は前日から変わらず、風も帆も無視して突き進んでいる。
甲板にいる大勢の視線を浴びながら、リリンカは
彼女自身は知らないが、魔女の軍服をはためかせ、細い丸木の足場の上で小ゆるぎもしない姿を見た船員たちからは、またも畏怖の念を抱かれる羽目となっている。
リリンカは艦長への全幅の信頼でもって、時が来るのを待ち続けた。やがて、不可思議な力でいずこかへ運ばれていく『ポーピア』へ吹き付ける風向きが変わった。
「展帆!」
艦長の轟くような号令で、すでに配置にいた水夫たちが、いっせいに帆を広げる作業にかかる。リリンカの背後で素晴らしい手際が披露され、あっという間に帆が風をはらみ――
それは通常前進する場合とは全く逆、裏帆となった。すなわち推進力ではなく、船には減速する力が加わる。
船体が軋む音が響いた。
それまで保たれていた異常な船速が、わずかに鈍る。タラーテが待っていたのはまさに今、帆を張れば前進を妨げる、裏帆となる風向きであった。
ここまで帆を畳み無抵抗で運ばれてきた『ポーピア』が重くなったことを、海中の何者かも、もちろん理解するだろう。
喫水線下を、ど、ど、ど、と鈍い衝撃が叩いた。抵抗に逆らうように、再びぐんと前進する勢いが強まる、しかし風が帆を打ち船足を鈍らせる。
とはいえどうやら、優勢なのは喫水線の下に潜む何者かであった。ここでリリンカは、素早く自らの四肢を両手で順に上から叩いてゆく。しなやかな手つきは、いかにも優しく、まるで子どもをなだめる母親のようですらあった――だが起きる事象は、そういった心和ませるものとは真逆だ。
『巨人族の降臨』。
タ、と軽い足音を立てて高く跳躍し、上空でくるりと一回転、足を下にして水面に落ちていくリリンカの四肢は、淡くゆらめく光に包まれている。
その光は、四肢を長く、大きくするかのように一気に膨れて、ついには人の手足の形になった。
向こう側の透けて見える、輝く巨人。その胸の中心にリリンカがいた。
まるで
百戦錬磨の船員たちも、一様に息を呑んで見上げるしかない。いったい頭はどのくらいの高さにあるのか、まさかメインマストすら超えるほどなのか。海面から立ち上がる姿は、さながらリリンカ自身が伝説の怪物のようですらあった。
手のひらだけでも、広げた帆の一枚よりも大きいのは明らかだ。
優しく差し伸べられた左手が、前進しようとする『ポーピア』の舳先を抑えた。船体がますます軋み、いたるところ悲鳴のような音をたてる。
一方で右腕は素早く海中に突き込まれ、少々荒っぽく水面下をかき回した。そして何かをつかんだかのように、ぐっと二の腕に相当する部分が膨れる。魔法で象られた腕に筋肉などあろうはずもないが、力ずくで船体からそれを引き剥がそうとしている。
やがてひときわ光が強まって、巨人と一体化したリリンカは高々と腕を持ち上げた。その拳には、白く長い、錨綱よりも何倍も太いものが握りしめられている。
甲板の男たちはそれが何か悟り、悲鳴をあげた。
「
吸盤がついてぬめる足が、次々と海中から飛び出してきた。あるものはびたんびたんとリリンカの背や足を叩き、あるものは四肢に巻き付き締め上げようとする。
「ははっ、なかなか大きいな!」
感心したような笑い声をたて、リリンカは『ポーピア』を両脚で挟むように固定した。そうしておいて背をかがめ、空いた左手も右手側へまわし、船を叩こうとしていた敵の足をまとめて数本引っつかむ。そのまま腕をさらに高く掲げると、ついに海の怪物は逆さに釣り上げられ、巨大な丸い眼球や頭が海中から姿を現した。
リリンカがつかんだ相手を、両手を広げて引き裂こうとしたまさにその時。
「や、やめて!その子を殺さないで!」
背後から細く高い、悲痛な声が聴こえた。
肩越しに振り返ると、女が二人、宙に浮いている。
一人はルゼで、顔は見えないが楽しそうに手を振っている。その彼女に片腕で抱えられているのは、小柄な女――いや少女といって差し支えないような、若い娘だった。
「紹介するわ、彼女がこの
ルゼがあまりにも暢気な口調で言うものだから、リリンカもとっさにどう返したものか、心底困ってしまう。手にしたクラーケンからもだらりと力が抜けたのを感じ取って、巨大な肩をすくめた。
「……いいでしょう。ただしそのお茶会に艦長室を使わせてもらえるよう、あなたからお願いしてくださいますか、ルゼ?」
◇◇◇
「さて……まずは、お前が何者か聞かせてもらうぞ」
船尾の窓を背に立ち、タラーテが尋ねた。
艦長室には、艦長タラーテはじめ魔女三人、艦の副長と海兵隊長、そして正体不明の少女がいた。
少女は大人たちに囲まれて、所在なさげな様子で両手を揉み合わせている。
この娘を、ルゼは船尾の喫水線近くで発見したらしい。なんと、
リリンカは皆より一歩分下がった場所から少女を観察していた。年齢は自分が従軍した頃と同じくらいか、もう少し下だろうか。
ずぶ濡れで生地も傷み
「……あなたたちは、王国海軍?」
少女はしばらくもぞもぞした挙句、問いに答えず質問を返してきた。尋ねているのはこちらなのだが、こんな小さな娘に高圧的になるのも大人げないと考えたか、タラーテは軽くため息をつくと組んでいた腕を解く。
「そうだ。この艦は
そうきつい物言いをしたわけではない――少なくとも、甲板で荒くれ者の水夫たちを指揮している時よりは――のだが、少女は体を強張らせて、うつむいてしまう。
「あらあら、だめよタラーテ。こんな風にこわもての方々に取り囲まれて詰問されたのでは、私だって恐ろしくて何も言えなくなってしまうわ。ねえ、お嬢さん」
皆が振り返った先には、一人テーブルに着いたルゼがいる。
そこへ、艦長付きの従卒が茶器を持って艦長室へ入ってきた。
「ありがとう、ここへ置いてくださる?さ、まずはお茶をいただきましょう。喉が潤えば、お嬢さんも話したくなるかもしれないわ」
少女は、歌うように朗らかな口調のルゼへ視線を向け、そこでおそらく彼女の顔がぼやけて認識できないことに気付いたようで、顔色をますます悪くして震え出した。
「国王陛下の船に危害を加えるつもりなんか、なかったんです!わたし、脅されて……助けて欲しいんです、わたしの弟が、海賊の人質になっているの!」
少女はわっと床に突っ伏して泣き出した。
結果的に、優しくしたつもりのルゼが誰よりも少女を怖がらせたことについては、賢明にも誰ひとり口に出さなかった。
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