第28話

 照りつける陽光の下、水夫たちの歌が聴こえる。

 男たちは手に手に砥石ホーリーストーンを持ち、甲板磨きをしていた。彼らはいつも歌を歌う。帆をあげるとき、巻き上げ機キャプスタンを回すとき。力を合わせるときにはいつも労働歌シーシャンティがあった。

 リリンカは戦闘楼から遠くの海を見ながら、それを聴いている。

 彼女は今、端的に言えば暇であった。

 なにしろ航海のほとんどの時間、要するに敵と遭遇しない限りは何の仕事もないのだ。

 戦艦に限らず大洋を旅する船の中には厳しい規律がある。誰が何の役割を担うのかや指揮系統が厳然と定められていて、客員搭乗として艦長の直属扱いである魔女二人は平時の役割がない。自然、時間を持て余す羽目になるのだが、そうかといってしろうとの要らぬ手伝いは事故のもと、リリンカもルゼもそれをよく弁えておとなしくしていた。

 本当を言えば、こうしてマストに登ることも最初はいい顔をされなかった。

 なにしろ帆を広げるにもたたむにもマストや縄梯子を身一つで登るのだから事故はつきものだ。強制徴募の新米水夫がヤードから足を滑らせて頭を割ったり骨を折るなどは、海の上では日常茶飯事といってよい。ましてやそれが普段はおかで暮らす女性ともなればなおさらだ。

 しかしながらそういった水兵たちの懸念については、出港から数日後にマストのてっぺんにいるリリンカを艦長が降りてくるよう呼んだ際に解決した。

 彼女はひょいと足を踏み出すと両手を広げて落下し――ここで艦長を除く甲板の全員が悲鳴をあげて立ちすくんだ――途中でくるりと一回転すると、凄まじい音と砂埃をたてて着地した。

 それから涼しい顔ですっくと立ち上がり「参上しました、艦長」と敬礼するに至り、男たちはこの金髪の華奢な美女が王国最高峰の魔女だと思い出して戦慄したのだった。

 リリンカはこうした行動を、単に気まぐれで取ったわけではもちろんない。

 常人なら甲板に叩きつけられて、死ぬか全身骨折かの無謀な跳躍である。はわからずとも、魔女の恐るべきわざでしか成し遂げ得ないのは明らかであった。

 そんなわけで、艦の中にうっすら漂っていた、若い女性それも貴族の令嬢が乗艦していることへの、浮ついた、あるいは下卑た興味やあなどりなどは、いっぺんに失せてしまった。リリンカの狙い通りにだ。

 これはしばしば、魔法連隊に兵が配属されたときや、陸軍の他の部隊と行動をともにする時にもあることで、魔女がどういうものであるかを誇示しなければ、士官はまだしも荒くれ者の兵卒どもは命令など聞きやしないのである。

 見せしめのために問題が起こるのを、手ずから苛烈な処罰を行う魔女もいるが、そのやり方はリリンカの好みではなかった。


『テルカリス』が失踪したとされる、問題の海域までは、もうあと半日ほどだ。大きなくくりで見れば、すでにたどり着いていると言ってもいい。

 ではここで何をするのか。

 異常な挙動で海の彼方へ消えた艦から生還した乗員は、ボートで降ろされ、数日ののち通りかかった商船に救助された。

 その後『テルカリス』がどこへ向かったのかは、大まかな方向しかわかっていない。つまり今となっては追跡など不可能だ。

 海軍がこの『ポーピア』に期待したのは、ことだ。

 その時に魔女が乗っていれば敵を排除し、『テルカリス』の行方を吐かせるなりできるだろう――もしも帝国の魔女が関わっているなら、停戦中にあるまじき暴挙であるとして、なんらかの交渉材料にもなる――そんな目論見である。

 少なくとも、リリンカはじめこの艦の魔女たちはそう聞かされている。ただ『咆哮』が関わっている案件とは考え難い点から、過剰戦力ともいえる魔女の人選に、なんらかの陰謀が隠されているのでは、というのがタラーテの読みであった。

 とはいえ陰謀があろうがなかろうが、この海上においてリリンカのやるべきことは何一つ変わらない。圧倒的な力でもって、王国に仇なすものを討つ、ただそれのみだ。

「リリンカ!タラーテが呼んでいるわ、降りていらっしゃい」

 甲板を見れば、相変わらず顔の判別のつかないルゼがこちらに向かって大きく手を振っている。

 いくつかの魔法を維持したまま、リリンカはヤードや横静索シュラウドに器用にぶら下がり、あっという間に降りて行った。その様子は熱帯雨林の類人猿さながらであったが、見目麗しい淑女であるリリンカを野生動物に例えるのは不敬であると、口の悪い水夫たちもさすがに心得ているようだった。いずれにしても、飛び降りを見せられるよりは心臓に良いに違いない。


「何かがいる、ですか」

 ルゼに案内されたのは後甲板で、艦長以下、操船を担う士官たちが集っていた。

「ああ。進行方向には何も見えない、しかし私の魔法が何かの存在を感知している」

 ちょうど真正面、舳先の向いている先だ、とタラーテが腕で前を示す。

 リリンカも隣にいた士官から差し出された望遠鏡を覗くが、見渡す限りの大海原、ただただ水平線の向こうまで凪いだ海があるだけだ。

「ちなみに遠目の魔法でも何も見えないわ。でもタラーテの使うのは、ちょっと違った魔法なのよね」

いるわけではないからな。当世の魔女としては時代遅れの表現かも知れないが、まさにとしか言いようがない」

 リリンカは遠目の魔法はさほど得意ではない。ルゼが発見できなかったのだから、同じことをしても徒労に終わるだろう。

「姿が見えない何か、あるいは視覚に映らない何か。そういったものでしょうか」

「というより海上に見えていないだけ……敵は水中だと考えている」

 つまりタラーテの魔法は海中の様子を探ることまでできるのか。

「あくまでも岩礁だの氷山だのを発見できる程度だぞ」

 感心している内心を読んだかのように、先回りして言われてしまった。

「そのくらい大きな何かが問題の座標付近に存在している、ということですね」

「おそらくそれが『テルカリス』が消えた原因となったものだろう。我々は待ち伏せされている、というわけだ」


『ポーピア』は夕闇迫る海原を、静々と進んでいる。

 錨を下ろして停泊し、明るい時間帯に現場へ着くように調節するか検討されたが、それで逃げられるのも都合が悪いと判断して、前進したのだ。

 戦闘配置の水兵たちは、奇妙なほどに静まりかえっていた。

 無理もない、正体不明の脅威へと自ら向かってゆくのだ。行手に待つのが帝国の戦艦であるなら、彼らは鬨の声をあげ、勇気を鼓舞しているだろう。しかし百戦錬磨の熟練水夫であっても、見えないものへの恐怖を押さえつけるのは容易いことではない。

 リリンカは再び戦闘楼にいた。艦長は後甲板で泰然と構えており、ルゼは……「私のことは気にしないで」と微笑みの気配を含む言葉を残して姿を消した。彼女はそれで良いのだろう、タラーテも何も言わなかった。


 そして乗員たちの緊張感が頂点に達した頃、それは起きた。


 はじめは、船体にわずかに、波に揺られるのとは異なる振動を感じたのみだ。

 そしてそれは、ど、ど、ど、と間を置かず幾度か続いた。皆は息を呑んで、艦長を見た。

「……いるぞ、いるとも。真下だ。大きい」

 低く、潜めた声で短く告げられる。

 接触の際には、決して騒いではならない、声を出してもならない。艦の皆がそう言い含められていた。だが経験の浅い者はへたり込まぬために震える足を叱咤しなければならなかったし、古参の者どもも、奥歯を噛み締め息を喘がせていた。

 やがて、舵に触ってもいないのに、『ポーピア』は船首の向きを変え始めた。

 そして本来何の操作もしなければ進めないはずの風上に向かって、滑るように動き始めたのだった。

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