第26話

 船は無事に出港し、天候も上々、まさに順風満帆といったところであった。

「……というのもですね、ゼアドゥ中佐。これこそ偉大なる我らが艦長の魔法の恩恵というもので」

 艦長室でテーブルを囲む海軍士官の一人が言う。

「そう、この『ポーピア』行くところ、常に最高の風が吹くのです」

 これは艦の副長。

「たしかに『ポーピア』は海軍で最も足の速い艦と評判です」

 リリンカはワイングラスを艦長にむけて掲げた。

 今夜は士官以上の乗員を招いての晩餐が行われていた。食材は質素なものの、前菜からはじまるコースの形を取った料理が銀食器に盛られて、士官候補生や水兵がそれを給仕している。

「誤解があってはいざというときに判断を誤る可能性があるから、事実を教えておくが――」

 タラーテは、リリンカに賛同して盛り上がる部下たちを手で制した。

「実のところ私の魔法は、風や天候を操るようなものではない。嵐を避け、最良の風が吹く航路を予測する……『風読み』さ」

 なるほど、とリリンカは納得する。

『女海賊』タラーテ・ガライの名声は、通常の航海術よりもさらに高精度な予測を魔法によって行うことで得られたというわけだ。

 魔女の使う魔法は、見習いの頃に習う基本的なもの――身体を強化する系統や、五感を高めるものなど――よりも先、高度な分野で何ができるか、という点について、個人差が非常に大きい。

 基礎の上に何を築くかは、才能や目的に合わせて自分で考えねばならない。見所ありと期待されていた魔女でも、これをしくじった結果、ろくに食べていけない例だって珍しくないのだ。

「だが此度の任務において、航海の順調さは、助けにはなっても圧倒的有利になるものではない。捜索対象である『テルカリス』がもしも嵐の真っ只中にあれば、我らはそこへ突入せねばならないのだからな」

『ポーピア』の乗員たちは、艦長の檄に「望むところだ!」と気炎を揚げる。

「我らが艦には、王国最高の操船技術を誇る諸君らがいる。そして敵艦と戦闘になれば、諸君らの砲術と、射撃と、剣の腕が頼みだ。『ポーピア』は無敗の艦だ。国王陛下と、臣民と、王国のために」

 皆が唱和し、杯が手に手に掲げられた。

「そしてこの航海では、王国最高峰の魔女がふたり乗艦している。もしも『テルカリス』失踪に帝国の魔女が関わっていた場合、先の会戦の英雄、『戦艦』リリンカ・ゼアドゥが奴らにその報いを受けさせることだろう」

 またまた、喝采。

「それから『無貌』のルゼ。諸君らの中には、以前の任務で共に働いた者も多いだろう」

 タラーテがリリンカの向かいに座るルゼに視線を向けた。不思議なことに、居並ぶ士官たちの中には、そこで初めて彼女の存在に気づいたような反応をした者が幾人かいた。彼らは例外なく、ルゼの顔が判別できないとやっと理解して、驚愕と畏怖の表情を浮かべる。

「彼女は魔女の中でも、特に秘された存在だ。どういう能力を持っているかは機密にあたる。ただこの航海における任務はひとつ」

 皆が固唾を呑んでタラーテの言葉を待った。

「『無貌』のルゼは、帝国の魔女『咆哮』のアロを無力化するために乗艦している」

 いまや艦長室は水を打ったように静まり返っていた。リリンカですら、少なからず驚いている。


『咆哮』のアロ。

 その名は、王国の軍人にとっては悪夢の象徴だ。リリンカが王国において、英雄でかつ最も著名な魔女だとすれば、最も悪名高く、恐怖そのものとして語られるのが、ウールジュ帝国の『咆哮』アロであった。

 その名が知られるようになってから、年月自体はまだ浅い。リリンカが従軍して一年ほどの頃からだろう。

 彼女の存在がはじめて確認された開戦は、未だに王国軍の最悪の経験として語られる。

 不運なことに、あるいは諜報戦に敗れた当然の結果として、帝国が『咆哮』を初投入した戦闘において、エルサランド側は戦役魔女の配備が間に合っていなかった。

 起きたことを端的に言えば、それは断じて戦闘などではなかった。ただただ、一方的な殺戮だったのだ。至近でそれを目撃したわずかな生存者によれば、『咆哮』は戦場のど真ん中に現れ、そして一声、のだそうだ。

 言語が違うことを差し引いても、彼女の咆哮から意味を聞き取れた者はいなかった。まさに獣の吠え猛る声そのものだったという。

 そのは地を揺るがし、えぐり、同心円状に衝撃が伝わっていった。途上にある全てのものをずたずたに引き裂きながらだ。

 以来、頻度はさほど高くはないものの、『咆哮』のアロは戦場に現れては戦況をひっくり返す損害をもたらすようになったのだった。

 魔法連隊の分析によれば、『咆哮』が使った魔法の正体は、ある種のであるとされた。理屈は単純でも威力はすさまじい。小手先の魔法でないぶん、対処が限られる……この部分に関しては、実のところリリンカの使う魔法も同じような評価を受けていた。


「ルゼ、あなたの派遣を決めたのは魔法連隊本部なのでしょうか?」

 晩餐が終わり士官たちを解散させ、すっかり片付いた艦長室には、三人の魔女が集っている。

「それがちょっと、変だと感じるところなのよね」

 紅茶を注ぎながら尋ねたリリンカに、ルゼが答えた。相変わらずぼやけた顔まわりは、首を傾げたように見えるが定かでない。

「ゼアドゥの疑問は妥当だろうな。今回の任務だが……『咆哮』が関わっているようには、あまり思えない。海軍が何か情報を掴んでいるかもしれんが、私とこの艦は命令に従うのみだからな」

 タラーテは磨いているサーベルから視線を離さないまま言った。長くて逞しい腿の上には、手入れの道具類を収納するポケットがついた帆布が広げられている。

「ルゼ、貴様も想像はついているのではないか。これは王国最強の魔女を二人、前線から引き離すための策略だと」

「あらあらタラーテ、そんなの思っても口に出してはだめよ。たしかにあなたの艦は規律と誇りで結束しているかもしれないけれど、最近の我が国は諜報戦で敗北続きなの、知っているでしょう」

 ルゼはテーブルに越しに顔を寄せ、声を低くする。

 事実として知らされていたわけではないものの、それはリリンカも肌感覚で気づいている点だった。

『咆哮』が現れるとの情報があれば、対応のために魔女を動かすのは理解できる。しかしその情報そのものが誤り、あるいは偽物であったとしても、『咆哮』のもたらす被害を考えれば、何も対処をとらないわけにはいかない。

「とりあえず、もう出港してしまったのだから、考えても仕方ないわ。それに、なんとなくだけれど……私たち三人、多分全員、そういう陰謀や策略について考えるの得意じゃないと思うの」

 少なくとも自分自身に関して、ルゼの指摘はまったく図星であったので、リリンカは黙るしかなかった。


「まあ、それじゃああなたは、結婚式を挙げたその足で軍艦に乗り込んだというの?」

 すぐそばに吊られているハンモックが揺れる気配がした。

「そうですね。事情があって、今年の社交期シーズンの間に結婚する必要があったものですから」

「確かにそれでは、この任務が終わってからでは遅いかもしれないわよね」

 リリンカとルゼは艦長室の隣の船室を割り当てられ、既に寝支度を整えている。

 ルゼから家族について尋ねられたのは、めいめいハンモックに潜り込み、そろそろ灯りを消そうかというところだった。

「はじめは目的に合った相手を探すつもりでしたが、最終的にはなんというか……単にしたかった相手と結婚したような具合になりまして」

「あらあら、お熱いのね。でもあなたのような方の旦那様ですもの、さぞや素晴らしい紳士なのでしょうね」

「ああ、ええと」

 リリンカは、相手のある意味当然とも言える思い違いに、どう答えたものか少し迷った。

「私が結婚したのは女性なのです。色々と経緯はあるものの、私にはもったいないくらいの、素晴らしい伴侶ですよ。ユランナにとっても私がそうであれば良いのですが……」

「……ユランナ?」

「ええ。アグレシン子爵の養女であられる、ユランナ・メリエッド嬢です」

 いや、もうゼアドゥ夫人なのか、と思ったところで、隣のハンモックがまた身じろぐ音がした。

「ユランナ・メリエッド嬢……?」

 ルゼはそうつぶやき、しばし絶句したようだった。

「はい、ご存知でしょうか?あまり社交界には顔を出していなかったようですが」

「あっ、いいえ、その……私こそ社交界に縁がないのよ、そちらの方の知識はさっぱり」

 今度は取り繕うような早口でルゼが言う。どうも妙な反応だ。

 リリンカが見るところ(顔はわからないが)、ルゼは言葉遣いや物腰から推測するに、少なくとも労働者階級の出身ではない。貴族か地主の階級か判断するのは難しくても、淑女として育った人物なのは間違いないだろう。だから社交界の話題もわかるのではないかと話をふったのである。

「さあさ、もう眠らなくては。私たち当直こそあたっていないけれど、ひとたび敵艦と遭遇したなら誰よりも働かなければいけない立場ですものね」

 わざとらしくすら感じる明るい声とともに、素早く灯りが消された。

 ルゼの態度が急におかしくなったと思いはするものの、睡眠の重要性を熟知し、またいかなる環境でも眠れる特技を有するリリンカは、深く考えるよりも早く夢の世界へと旅立った。

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