第23話
その男性は、リリンカはもちろん初めて見る人物だった。
しかし一方で、彼がアッセルバロット公爵家の女性三人のほうへ歩み寄るのを見ていた招待客たちも、あれは一体誰だろうと囁き合っていたのだ。
「これはカルシール・テリガン、当家で半年ほど前から後見しているの。ミスター・テリガン?ご挨拶を」
公爵家が後見している人物にしては無骨な男である、というのがリリンカの抱いた印象だ。
歳の頃は二十代の前半くらいであろうか。身長は広間に居並ぶ上流階級の人々の中にあっても見劣りしないくらいの高さである。体格も細身ながらしっかりしていて、顔はやや角ばった輪郭の男らしい容貌だ。
しかしなんといっても目を引くのは、燃えるような明るい赤毛だった。短く整えられた髪も、頰から顎を覆う髭も、鮮やかな赤銅色をしている。
「お目にかかれて光栄です。レディ・リリンカ、ミス・メリエッド。ご婚約のお祝いを申し上げます」
低く告げてお辞儀をした男は、体を起こしながら、鋭い視線を向けてきた。
隙のない荒んだ顔つきだ、とリリンカは束の間、戦場に戻ったかのような感覚に襲われる。
そう、この男からは上流階級の人間特有の、恵まれた環境からくる快活さも、あるいは退廃も余裕も感じられない。あるのは寒々しい怒りや不満、そういった気配だった。
初対面ながら懐かしくさえある。戦地において、リリンカのもとへ配属されてくる兵卒にも、しばしばこんな若者がいる。自身を取り巻くすべてのものから虐げられ、苦難に満ちた人生を歩んできた者の顔だ。
「ありがとう、ミスター・テリガン」
優雅にお辞儀を返したリリンカは、公爵夫人が今この男を紹介した目的は、少なくとも好意や善意でないと確信した。
◇◇◇
「アコーレ、アッセルバロット公爵家で後見している若者について、何か知っているか?」
音楽会がお開きとなって、リリンカは実家の自分の寝室に戻るなり、扉を開けて立っていたアコーレに尋ねた。
「公爵夫人からご紹介のあった方でございますね」
「ああ。名はカルシール・テリガン、後見は半年ほど前からだそうだ」
話しながら、リリンカはヤーラを引き連れて部屋の隅の
「ご挨拶を受けたところを拝見しておりました。その後、ほかのお客さまがたの噂なども
今日のアコーレは、リリンカ付きの従僕ではなく、ただの使用人に身をやつして広間にいた。
飲み物を運んだり、客人のちょっとした要望に応えるために控えている者たちは、高貴な人々からするとそこに居ても居ない存在だ。彼らは往々にして、使用人にも耳と口があるのを忘れがちだった。
アコーレにしてみれば、おしゃべりに興じる人々の間をグラスの乗った盆を持って歩くだけで、いともたやすく情報が手に入る……というわけだ。そうやって他家の催しの際にも臨時雇いとして潜り込むのが、彼の情報収集の手段のひとつなのである。
「あの方についても、私の方で詳しくお調べいたしましょう。……それよりも本日の招待客について、お詫びいたしませんと」
「いや、謝るな。リストの確認は私がするべきだった。ただでさえ、おまえには今いくつも用事を頼んでいるのだ。感謝している」
ヤーラによって夜会の衣装を解かれながら、リリンカは衝立の向こうのアコーレを労った。
「なんの、私ごときの調査でお役に立つのなら、望外の喜びでございます……なにより、ご婚約が成ってからこちら、お嬢さまがお幸せそうなご様子なのが、私めは本当に嬉しくて」
よよ、と泣き真似をされて、そこまであからさまだっただろうか?とリリンカは気恥ずかしくなる。
「お衣装やリネン類のお支度は、奥様のご指示のもと、私とオルリーンさんで急ぎ進めておりますわ。それに王都でのお住まいがお嬢さまのお屋敷になるんですもの、お部屋の用意も皆張り切っております」
ヤーラもまた満足そうな様子で言った。
ユランナが子爵の屋敷を出ることは確定事項なので、住まいをどうするのかは最優先で話し合われた。
リリンカの私邸は、独り住まいのために用意したものであったが、もともと伴侶を迎えても問題ないだけの規模である。そして、使用人を新たに増やす必要がない点も良かった。
なにしろアグレシン子爵家では、公爵家の息のかかった者が送り込まれる危険があって、人を新たに雇い入れることができなかったのだ。
「ところで、公示ではなく結婚許可証を取ることになさったのは、妨害を懸念してのことですの?」
「いや、それは考えていなかった。公爵家が阻止したいのは、ユランナが公爵の孫、それも男児を産むことだ。その男児が公爵家の相続人にになるためには、ユランナが嫡出子であることを証明したうえで、孫自身が公爵の養子になる必要があるんだが……」
本当なら、非合法な手段を取ってまで妨害するまでもなく、不可能ではないかとリリンカは感じていた。一体ユランナの何が、公爵家の関心をそこまでひくのだろう。
「私との結婚は、ユランナが子どもを産む可能性が潰れることになる。彼らにはむしろ望むところだろう」
ならばどんな場合に許可証による結婚が選ばれるのか。ひとつは財力を誇示するため、ひとつは秘密裏に執り行うため、そしてもうひとつは。
「公示は三週間にわたって出さねばならない。しかし私にとって、時間をかけるのは危険だ。許可証ならば、開戦して戦地に呼び戻されても、前線に旅立つ前に式を挙げられる」
結果として、リリンカのその予測は極めて賢明なものだった。
◇◇◇
翌朝、リリンカは王立魔法連隊へ出頭するよう指令を受けた。
「戦艦の消息不明……ですか」
王都にある本部、その連隊長執務室にて。
「そうだ」
リリンカの問いに重々しく頷いたのは、王立魔法連隊長、ミルヴァ・サンサー大佐である。鴉の紋章の連隊旗を背にデスクにつくミルヴァは白髪の小柄な老女だ。しかしただ座っているだけでもその覇気と威厳から、只者でないのが明らかな人物である。
「帝国の私掠船に拿捕されたのでしょうか?」
「それが、どうも違うようなのだ」
ミルヴァは立ち上がり、リリンカを手招くと机上に広げた海図の一点を指した。
「この海域、ここだ。生還した乗員の証言では、
エルサランド本島から離れる方向、大洋に向かってミルヴァの指が滑る。
「……他国の魔女が関わっている可能性がある、ということですね」
「その通り。船が異常な挙動をはじめた際、艦長の命により、ボートを下ろして数人の乗員が脱出した。彼らの報告に基づき、魔女による捜索を行うことが決定した」
カ、と軍靴の踵が床を打つ音を聴き、リリンカは素早く敬礼の姿勢となった。
「リリンカ・ゼアドゥ中佐に『テルカリス』の捜索を命じる。明日正午に出港する
「アコーレ!すぐに結婚許可証を取りに行くぞ!」
リリンカは待たせていた馬車に飛び乗った。
連隊本部に出頭を命じられた時点で、リリンカ同様に予測していたのだろう、アコーレは驚く気配もなく馬車を出した。
もどかしい思いで、流れてゆく窓からの景色を睨みつける。なにしろ命令を聞くよりも早くリリンカは理解したのだ。
明日出港し、問題の海域を調査する。距離を鑑みるに、往復するだけでもおそらく一ヶ月は戻れない。
すなわち――今年の
リリンカは褒賞として爵位を賜るにあたり、条件がひとつ課されている。そもそもそれこそが、ユランナと結婚する大元の理由だ。
社交期中に結婚し、リリンカを当主とした家を起すこと。
これが達成できなくては、一体何のためにユランナの人生を大きく変える選択をしたのかわからないではないか!
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