第22話

 肩の触れ合う距離で並んで立っていたユランナの体がぎくりと硬直したのが、リリンカにも伝わってきた。

 ユランナを挟んだ向こうにいるアグレシン子爵に素早く視線を向けると、彼もまた笑顔を強張らせている。

 アッセルバロット公爵家こそが、ユランナを付け狙う者どもの黒幕だと疑われていることについては、忘れるはずもない。

 つまりは、事情を知らないルブリック伯爵夫妻によって公爵家にも招待状が送られたのだ。リリンカは事前に招待客リストを確認していないことに思い当たり、愕然とした。

 なんたる不手際!

 自分こそが、この状況を阻止できた唯一の人間であるのに!

 招待客の選定は、世馴れた両親に任せれば間違いないと思っていた。リリンカの社交界での人脈の乏しさゆえそうしたのだが、まさかこんな形で危機を呼び寄せるとは。


 アッセルバロット公爵家には、九人の娘たちがいる。とはいえ正確に言うなら、上の二人は結婚して家を出ているし、一番下の一人はまだ生まれて三ヶ月ほどのはずだ。

 普通なら産後の養生をしていてもおかしくない時期である公爵夫人は、そんな様子はつゆほども見せず、二人の娘に挟まれて優雅に微笑んでいる。

 際立って白い肌に、亜麻色の豊かな髪を当世風に結い上げ、長い首やふっくらした胸元、華奢な胴回りなど、出産後の疲れや体型の変化はどこにも見当たらない。

 ましてや、社交界で夫を探している真っ最中の、最も若さの輝かしい年齢であるはずの娘に囲まれても、全く引けを取らない美貌は、いっそ恐ろしいほどだ。

 この方が、アッセルバロット公爵夫人。

 肉体的には明らかに非力であろう嫋やかな美女から底知れぬ凄みを感じ取ったのは、リリンカの戦地における経験の賜物といってよかった。

 不覚をとった。

 婚約以来、頭に花が咲いたように浮ついた心持ちで過ごしていたのをここへ来て自覚し、リリンカは表情を変えぬまま、自らに憤る。

 魔女の戦場が前線ならば、貴族の戦場はここ、社交界だ。

 そこへ打って出るというのに、なんと無防備であったことか。この程度の覚悟でユランナを守ろうなどと、どの口が言ったのだ、まったく!

 だがそれで腐らず奮起するのがリリンカの良いところで、公爵夫人がゆったりした足取りでこちらへ近づいてくる間に気持ちを立て直した。

 自分やユランナ、アグレシン子爵は公爵夫人と初対面だ。そしてリリンカの隣――ユランナとは逆側のほう――にはルブリック伯爵夫妻がいる。まずはそちらと挨拶をするだろう。

 そこで両親と彼女の関係や距離感をある程度読み取らねばならない。少なくともゼアドゥ家では、公爵家について話題に登ったことは今までほとんどなかったから、そう親しい間柄でないのは予想できる。


「まったく、肝が冷えました」

 皆が席につき、音楽会が始まろうとするまでのほんのわずかな間隙。ユランナを挟んで向こうに座るアグレシン子爵がごく小さくつぶやいた。

 結論から言えば公爵夫人との対面は、恐ろしい秘密の暴露も、声高な非難ももちろんなくて、ごく穏便に終わった。

 リリンカの予想は当たっていて、ルブリック伯爵夫妻と公爵夫人には社交界でお互いに顔と名前を知っている、程度以上の関係は窺えなかったのだ。

 伯爵から娘のリリンカと婚約者、その養父であると紹介を受けて、「そう、それはよろしいこと」という、婚約を祝福すると取れなくもない言葉が、そっけなくかけられただけだった。

「あんなに美しくていらっしゃるのに……なんといったら良いのでしょう、どういうお気持ちなのか全く読めないお方ですね」

 ユランナの感想はもっともであるとリリンカも思った。

 たしかに顔は微笑んでいるのだが、それが心からのものなのか、作った笑顔なのかもわからない。ましてやこちらをどう考えているかなど、読み取れる気がしなかった。どうやらそれが、リリンカが彼女に得体の知れない凄みを感じる理由のひとつなのだが。

「と、いうか……お詫びを申し上げねば、レディ・リリンカ。まさか公爵夫人が出産から三月も経たぬうちに社交の場に戻るとは」

 なるほど子爵が舞踏会だの茶会だのに顔を出していたのは、公爵夫人がまだ産後の養生をしていると踏んでいたからだったのか。

「いえ、私が招待客リストを確認しなかったのが悪かったのです。しかし子爵、あの方はそもそもなのでしょうか?」

 何をと言えばユランナの秘密についてである。子爵も心得たもので、さらに一段声を低くして応じた。

「残念ながら、それもわかりません。夫妻のうちどちらかがユランナを狙う者どもに指示を与えているのか、それとも二人で共謀しているのか……」

 そこで音楽会最初の演目である、今王都で最も評判の歌手による独唱が始まる。

 話し合いたいことはまだあったが、リリンカは視線を前に向け、まずは音楽に集中する姿勢になった。


 日付の変わる頃、小休止を挟みながらの音楽会は盛況のうちに幕を下ろして、あとは飲み物などとりながら挨拶や談笑に興じる時間となった。

 リリンカたちは始まる前と同様、物珍しさ半分、祝福半分の社交界の人々に囲まれて、忙しくしている。

 公爵夫人とその娘たちがどこにいるか、初めのうちは気を張って把握していた。しかし何かの拍子に、混み合う大広間で彼女らを見失ってしまった。

「リリンカさま……」

 となりのユランナが、控えめにリリンカの腕を引いて名を呼んだ。

「ごきげんよう、レディ・リリンカ」

 振り向けば、すぐそこへ公爵夫人と娘たちがやってきているではないか。

 改めて見ても、目の覚めるような美女であった。ユランナと一つしか歳の変わらない娘を筆頭に、九人もの子供がいるようにはとても見えない。

 公爵夫人に比べると、一緒にいる彼女の二人の娘は若く美しくはあるのだが、未だ一言も言葉を発するところを見ていないせいもあり、どうにも無気力で凡庸な印象である。

「あらためてご婚約のお祝いを申し上げるわ」

 羽根の扇をゆるゆるとはためかせて、公爵夫人が微笑んだ。感情を見せない口調に警戒心を煽られるが、リリンカも顔には出さないだけの心構えはしてある。

「まことに光栄です、公爵夫人ダッチェス

 揃ってお辞儀をし、二人は再び手を取り合う。今は子爵もリリンカの家族も近くには居らず、助けを求めるには遅すぎた。

「仲がよろしくて結構ですこと。勇気ある決断を評価いたしますわ」

「ありがとうございます」

 組んだ腕にちらりと視線を向けられるが、リリンカは抜かりなく微笑んでみせる。

 似たようなことは今日何度も言われていた。つまるところ、子どもを持たぬ選択、資産を継がせぬ選択をするのは、それほど珍しいものなのだ。

 しかしながら公爵夫人からと言われるのは、何やら含みがあると思わざるを得ない。

 二十数年前の公爵の極秘の結婚による嫡子であるユランナは、その秘密を公爵夫人が知っているとすれば、間違いなく邪魔な存在だ。

 なにしろアッセルバロット公爵家には未だ相続人たる男子がなく、そのための苦闘と努力の結果が九人の娘たちなのだろうから。

「ところで……」

 公爵夫人は、いかにも退屈そうに首をかしげると、平板な声で続けた。

「なぜユランナ嬢はお顔を隠していらっしゃるのかしら」

「……!」

 もちろんその質問は、誰かはしてくるだろうと構えていた。むしろここまで問われなかったのが不思議であったともいえる。

「それは……」

 顔を見せない理由を尋ねられたら、幼少のころの事故による傷がありそれを恥じている、と答えるよう口裏は合わせてあった。

 しかし実際にそれを言わねばならない状況を目の前にして、どうしようもなく抵抗を覚えた。

 リリンカは通常ならば他人の容姿など頓着しないし、世間の美の基準など意識したこともなかったが、ユランナの顔は美しいと思っていた。

 まだ一度だけ、それもわずか一瞬しか見たことがない。しかしユランナ自身が「見苦しいもの」と言ったその顔を、とても好ましく感じたのを覚えているのだ。

 ありもしない傷のことなど本当は話したくない。自分の口から、ユランナに瑕疵があるような言葉を述べるのは嫌だ。

 今ここへ来て、それに気付いてしまった。

「実は……」

 わずかの間だが言葉に詰まったリリンカの肘のあたりをユランナがきゅっと握った。その手に反対の手を重ねて、安心させるためにひとつ撫で、リリンカは公爵夫人を正面から見る。

「この方はたいそう内気でいらして、これまでずっとお顔を隠してこられたのです。しかし婚約してからは、この美しい方を他の者に奪われるのが恐ろしくなったものですから」

 私がお願いして、隠したままでいてもらっているのです。

 隣からは驚く気配が伝わってきたが、リリンカは笑顔で言い切った。

 さすがの公爵夫人も、ひどい惚気ともとれる返答に鼻白んだ様子で、まあ、そうなの、とだけ言った。

 そこで初めて浮世離れした雰囲気がやや薄れ、人間味を覗かせた公爵夫人は、気を取り直すように扇をはためかせた。

「それはよろしいこと。ところで……ああ、当家で後見をはじめた若い人を紹介してもよろしくて?」

 公爵夫人に並び立つ娘たちの後ろから、背の高い男性がやってくるのが見えた。

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