第20話
「いったい何をしようとしているか、あなた本当にわかっているの?」
母の顔は蒼白だった。
「もちろん、わかっています」
「いいえ、いいえ。わかっていないわ」
戸惑うリリンカに、ナラルは体を起こし、両手を揉み合わせながら、鋭い口調で告げる。
「あなたのことだから、きっと誰か……ヴァンスイール前伯爵の遺族や、アグレシン子爵のお嬢さまの境遇に同情して、そんなことを言い出したのでしょう」
さすがに母親だ、まだリリンカが詳細を話していないところまで切り込んでくる。
「同情とは違うと思っています。もちろん爵位を賜ることが発端であり第一目的なのは間違いありませんが……」
「爵位のため、結婚そのものが目的、それは構わないわ。
確かにその通りなのである。
ユランナに子どもを諦める選択をさせることについては気がかりであった。
本人は「結婚はこれからもしないと思う」といった意味の発言をして、また子爵はユランナの母親を保護するまでの時限付きでも良いと言った。それらのことから、ひとまず数年程度なら、と考えた。つまり子爵の計画通りに公爵家の干渉から逃れられれば、リリンカと離婚して男性と再婚し、子どもをもうける選択肢もあるのだ。
しかし自分については。リリンカの思考の発端は、さっきも話に出たヴァンスイール前伯爵の娘に資産を返還したいというところだ。
その過程で、ごく当たり前に自分が子を残さなければ、あるべきところへ全てを戻せるという理屈に辿り着いている。
「ヴァンスイール伯爵家の爵位や資産なんか、本当はどうでもいいのよ。あなたは自分の禄で生活できるし、もしも今後何かあって軍を辞しても、お父さまやテオセンが面倒を見ます。でも子どもはそんな問題とは全く違うのよ」
無条件で愛せる存在を諦めるということ、理解している?とナラルはささやく。
リリンカは子どもを持つか、持たないか、という点に関する、感情についての問題を、自分が完全に思考の埒外に置いていたことに気づいた。
しかし今、母の言葉の真意はまさにその部分なのだ。
「わかったようね?あなたが本当に幸せになれる選択をするのなら、止めはしません」
ナラルは立ち上がり、黙り込んだリリンカの前に進み出て、自分よりも背の高い娘を抱き寄せた。
「感情を疎かにすることに慣れきってはだめよ、リリンカ。あなたはそうしなければ耐えられない
今や懇願するように言う母親に、さすがのリリンカも真剣に考えた。
何が自分の望みで、そのために何を諦めるか。
どうしてはじめは巻き込みたくないと考えていたユランナを娶ることにしたのか。
「……私の手で、あの方を幸せにしたいのです」
結局のところ、残ったのはそれであった。
「私自身も最初は、ユランナについては誰か男性に任せるべきだと考えていたのですが。でも、その……色々事情もあるにはあります、しかし最終的には、ただ私がそうしたかったから、結婚を申し込んだのです」
母親と身を寄せ合ったまま、リリンカは訥々と続ける。
「爵位を賜るため、そして返すため、それはもちろん目的ではあるのですが、したいことをした結果、目的も達成できる。だがその結果として、子どもは持てない。極めて明快だと、思うのです」
そんな理由では、いけないでしょうか?リリンカが問えば、母は何か考えるようにやや時間を置き、慎重に口を開いた。
「……そのお嬢さまのことが、お好きなの?」
「素晴らしい友人であると、素敵な人だと思っています」
ナラルは眉を寄せ、むむ、と唇を歪める。
「……あなたがその方を幸せにしたいのよね?」
これにはっきりと、はいと答えた。
「なら反対はしないわ」
すっと体を離し、正面から目を見つめて言われた。
「ばかな、ナラルよ、そんな簡単に!」
「そ、そうです母上!」
伯爵とテオセンが色めきたったが、ナラルは振り返り、腰に手を当てて胸を張った。
「お黙りなさい、二人とも。よいこと、5年も王国と臣民のために働いて、今爵位まで賜ろうとしている娘が、自分の幸せのために決めたことなんですよ!家族として支える以外に、いったいどんな選択肢があるというの。言ってご覧なさい」
威厳たっぷりに言い切られ、男性二人はすぐには言葉が出てこない様子だった。目線を交わしながら、お互いに何か言ってやれとでも言うように、小突きあっている。
「お父さまも、お兄さまも、観念したほうがいいよ。お母さまがリリンカの味方についたんだから、これで決着。わかってるでしょ?」
肩をすくめて言ったのはアンシェマだ。
普段はあまりそれとわからないが、この家はどちらかというと女性の方に権力がある。当主は確かに伯爵なのだが、こと家族の中の問題における力関係ならば、最も強いのは母ナラルなのだった。
リリンカは5年ぶりにその様子を目の当たりにして、そういえば今回、家族の反対をかわすために極秘でことを進めていたのだった、と思い出した。
ユランナが結婚を承諾してくれたのに浮かれて、アグレシン屋敷から実家に直行してしまったので、周りの反応を考えるのを失念していたのだ。
「すみません、話が急すぎましたね。昨日くらいまでは、皆を脅かさないように配慮する考えもあったのですが……」
「嬉しくってそれどころじゃなくなっちゃった、って言うんでしょう。ほら、もうこれだけでわかるっていうものよ」
理解の早い妹で助かる、とアンシェマを見ると、いつもの飄々とした様子で、事態がよく飲み込めていないキャルスンの相手をし始めた。
「それで、リリンカ。明日にはお相手のお嬢さまがうちを訪ねてこられるのよね?」
再びこちらに向き直ったナラルに問われる。
「はい。ああ……実は話しておかねばならないことがあります。ユランナには、少々込み入った事情があって」
◇◇◇
翌日、リリンカは朝からそわそわと二階の窓から実家の門を見張っていた。
約束の通りにアグレシン子爵の馬車が入ってきたのを確認して、本当はホールまで出迎えに行きたいところであったが、それは使用人の仕事なので我慢し、応接間へ走って待機した。
他の家族――子供部屋にいるキャルスンを除く――は、緊張した様子で勢揃いしているが、何も特別なことはない普通の朝を演出するかのように、めいめいに長椅子やら窓辺やらに腰を下ろしている。
「もう一度、言っておきますが……ユランナはよんどころない事情により、皆に顔を見せられません、今のところ。抱えている問題を私と子爵で解決すれば、どうにかなるかもしれませんが、今日は無理は言わないであげてください」
結局、リリンカはユランナについて、顔を隠したままの対面になることのみ説明した。
昨夜、アコーレからアッセルバロット公爵についての情報をいくらか聞いたところによると、公爵本人はこの数年、社交の場からは身を引いているという噂だ。
それでも両親は世代を考えれば当然公爵と会ったことがあるはずだった。むしろ、若い頃の公爵を知っているぶん、ユランナが公爵に似ていると気付く危険は高まる。
そういうわけで、家族を疑うわけではなくても、どこから何が漏れるかわからない以上、全て秘密にするしかなかったのだ。
顔を見せられないという点に、兄のテオセンはかなり反発を覚えたようなのだが、ユランナの命や、アグレシン子爵家の安全に関わる問題なのだと説得して、今日を迎えた。
さすがにテオセンとて、この段階まで来て不満を顔に出すほど子供ではないらしく平静な様子である。しかしながら家族想いであることにかけては王都でも指折りの長兄だ、リリンカとしては、自分の選んだ伴侶を認めてもらいたいに決まっている。
良くも悪くも、ゼアドゥ家の面々やメリエッド家の二人は、癖の強い顔ぶれだ。それが全員勢揃いするなど、いったいどうなることやら。
かつて戦場でだって感じたことのない、胸の悪くなるような緊張を抱えて、リリンカはひたすら待った。
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