第18話

 あずまやの中の二人はどちらもハッとしてリリンカを見上げる。しかしそれぞれの反応はまったく違っていた。

「魔女さまだ!」

 ケンデル少年は跳ねるように立ち上がり、リリンカに飛びかかりかけたが、すぐにぐんと背後から引っ張られて、つんのめるように立ち止まった。

「ユランナ、痛いよお」

 言葉とは裏腹にたいして痛くもなさそうに、ケンデルは口を尖らせて後ろに向かって文句を言った。そちらからユランナが長い腕を伸ばして、少年のシャツの首の後ろをつかんでいる。

「ケンデル、お行儀よくして」

 言いながら立ち上がり、ユランナはケンデルを腕の中に抱え込むと、深く頭を下げる。

「ご無礼をお許しください、リリンカさま。この子がバゼルの甥、ケンデル・メリエッドです。ケンデル、しゃんと立って。このお方はレディ・リリンカ・ゼアドゥ。バゼルのお客さまだよ。ご挨拶は?」

「ケンデルです。はじめまして、リリンカさま」

 少年は小さな頭を精一杯上に向けて、リリンカをきらきらした大きな瞳で見上げている。

 甥だというが、黒い髪と茶色の瞳の少年の顔には、子爵の面影もある。きっと子爵とその弟は、よく似た兄弟だったのだろう。

「こんにちは、ケンデル。今日は、君のための本をミス・ユランナと選んで来たんだ。私が子どもの頃に使っていたのと同じ図鑑も入れてある。アズリア大陸の鳥のことが載っているものだ、鳥は好きかな?役に立つと良いのだが」

 腰を屈めて少年に目線を合わせて言うと、相手はいたく感じ入った様子で頷いた。

「好きです!あのね、ぼく、田舎の家でお庭に巣箱を置いたんだ。ユランナが一緒に作ってくれたの」

「それはすてきだ。ぜひ見てみたいな」

「ほんとう?!リリンカさま、ぼくらの田舎の家に遊びに来てくださる?」

「な……ケンデル!リリンカさまはお忙しいんだ。勝手なことを言ってはだめ」

 飛び跳ねるように背伸びして訴えるケンデルを、ユランナが背後からたしなめる。

「今は幸い停戦中で、私は5年ぶりの休暇扱いだ。毎日時間を持て余していますよ。招いてくださるなら、喜んで訪問いたします」

 じっと見つめて告げると、ユランナは決まり悪そうに身じろいで、言葉に迷うように幾度か目線をリリンカとケンデルの間で行き来させた。

「坊ちゃん!」

 ユランナにとっては救いの神か、何かを口に出すより先に、あずまやの外から女性の声がした。見れば、断髪の侍女が子守らしきメイドを引き連れてやって来るところである。

「オルリーン!ねえ聞いて!魔女さまが遊びに来てくれるんだよ!」

 いささか詳細を省きすぎている少年の訴えに、オルリーンが首を傾げた。

「ああもう……ケンデル、子供部屋に戻りなさい。リリンカさまの訪問のことは、あとで私がバゼルと話しておくから、ね?」

 約束だよ!と名残惜しげに振り返りながら、ケンデルはオルリーンに手を引かれて屋敷へ向かっていく。

 侍女と子守と少年はにぎやかに遠ざかってゆき、あずまやにはリリンカとユランナが残された。

 リリンカに結婚を依頼する子爵の発言を聞いて、応接室から逃げ出したユランナである。二人きりになって気まずい空気が漂うのは予想通りで、リリンカはなんと話しかけたものか、己の内で定まらないまま、とりあえず隣に腰を下ろす。

 あずまやの、蔓バラが絡みつく柱の間からは、夕闇に染まる庭園が見渡せた。

「先程の子爵の話ですが……」

「忘れてください」

 ユランナがいつになく強い口調で遮った。

「あ、あのようなこと……とんでもない無礼だと、わきまえています。バゼルは今、少し焦っていて」

 なんとお詫びしたらよいか、とユランナはますますうつむく。

「詫びなど。その、もともと私には、今年の社交期シーズンで結婚せねばならない事情があります。子爵は私が相手を見つけられずにいるのを知って、ああ仰ったのでしょう」

 隣り合って座る二人は、それぞれ目線を自分の膝に向けたまま話している。

「……その結婚に関するご事情ですが、私には、良いこととは思えません」

 リリンカは意外な思いで瞬きをした。普段は低い声で小さくゆっくりと話すユランナが、今日はいつになく切実な様子で、力を込めて言葉を紡ぐからだ。

「リリンカさまには、軍でのおつとめをはじめとして、せねばならないことが、たくさんおありでしょう?」

 尋ねる口調だが、返事を待たずにユランナは先を続ける。

「だからこそ、それ以外の部分で、あなた様には、したいことをして生きて欲しいのです。結婚は、私は経験がないし、これからもしないと思いますが……きっと相手次第で天と地ほども違いましょう。大切なお役目があるからこそ、家庭は安らげる場所であらねば」

 ユランナの訴えは、リリンカの心にしみじみと響いた。

 貴族として生きていれば、家柄や財産が第一優先で、相手を好くかどうかなどは二の次だ。恋は既婚となってから火遊びでするものであり、愛は我が子に抱けばまだしも上等。

 王都で良い結婚をするために鎬を削る女性は、そんな風に教え込まれもするし、また自らも考えるものだ。

 したいことをして生きて欲しい、という、ひどく素朴で、子どものような純粋な訴えは、乾ききった貴族社会では嘲弄を受けかねない。しかしユランナのそれは心からの優しさであろうことがわかるので、リリンカの胸を打つのだ。

「バゼルの言ったことは忘れてください。リリンカさまはどうか、好いた相手と結ばれてくださらねば。私はもう十分すぎるくらい助けていただいたのですから」

 まだ申し込んでもいないうちから、断られてしまった。

 途方に暮れたような、寂しいような気持ちになり、リリンカはこれは真剣に考える必要があると思った。

 したいことと、せねばならないこと、何がそれにあたるのか、整理をしなくては。

 うん、と息をついて、リリンカは立ち上がる。

「……あなたの言葉、しかと心に刻みました。よくよく考えてみることにいたします。ミス・ユランナ、今日はこれでお暇させていただきます」


◇◇◇


 リリンカは馬車を私邸ではなく実家に向かわせた。

 使用人はいても、私邸においてリリンカは独りだ。普段はそれが苦にならないし、家族のことは大切に思っていても、干渉されない環境が必要だと感じて、一人暮らしの屋敷を持ったのだ。

 ただ今日は、どうしてか、実家の騒がしさ、人の気配、そんなものが恋しかった。そう、うるさく構われたって、考え事はできるのだ。


 日の落ちる頃に実家を訪れたリリンカに、両親はいつも通り、あれこれと近況やら結婚相手の斡旋やらを話して聞かせたし、兄からは夕食どきにアグレシン子爵とどうなっているのか追求された。

 そしてそのあと、キャルスンにつかまって今日の綴り方の勉強の成果を一通り披露されて、ようやくリリンカはかつての自分の寝室へと入った。

 そうした一連の家族とのやり取りの間も、じっさい頭の中はユランナとの会話の内容に占められていた。

 端的に言えば、子爵からユランナとの結婚を持ちかけられた瞬間にはもう、心は決まっていたようなものだった。頭や理性や、諸々のしがらみが、素直にそれを受け入れるのを拒んでいただけだ。

「リリンカ、いる?」

 部屋の扉が叩かれた。

「入っていいぞ、アンシェマ」

 妹は、控えめに開いた扉から顔をのぞかせ、リリンカを見た。

「ほんとに?今日はずっと上の空だったけど、話してもいい?」

 さすがに見抜かれているか、と軽く息をつき、アンシェマを手招く。

「おまえと話したくないなんて、生まれてから一度も思ったことがないよ。こっちへ来て、隣に座るといい」

 夕食のための正装のままのアンシェマは、ぱっと笑顔になって入ってきた。

「リリンカ、なんだか様子が変なんだもの。そりゃあ確かに、色々大変なのはわかっているけれど」

 長椅子に並んで腰掛けたところで、リリンカは妹の初恋の相手を探す件が放ったらかしになっているのを思い出した。

「それはいいんだが、アンシェマ、私は謝らねば。例の舞踏会で出会った紳士のことだ、アコーレに探索を命じた気もするのだが、その後どうなっているか……」

 なにしろ王都での人探しなど、リリンカの軍隊に偏った人脈では難しい。そのあたりはアコーレから使用人をあたる方が確実だとふんで、指示したはずだった。

「私の方も、あれに色々頼んでしまっているし……すまない、このところ、自分のことばかりだったみたいだ」

 それを聞いたアンシェマは目を瞬いて、次に口元をおさえて吹き出した。

「やだ、リリンカったら、ほんとうに余裕がなかったんだね。いつも人のことばかりで、リリンカ自身は二の次って感じなのに、珍しい。謝らないでよ、そんなの全然、後回しでいいの。あの方のことは気になるけれど、社交界に属している人ならそのうち会えるでしょ」

 からりと言って、まだ笑っている。

「話したかったのは別のこと。というかもう聞いたようなものだけど、様子が変だから、大丈夫かなって」

「心配してくれたのか?」

「当たり前でしょう。他のみんなは、リリンカにああしろこうしろってそればっかり。家族のうち誰か一人くらいは、黙って言い分を聞く人間がいなきゃ」

 やってられないよ、と肩をすくめる。

「いい子だな、アンシェマ。世界一の妹だ」

 見た目はすっかり一人前の淑女だが、率直で優しい心根はリリンカが戦争に行く前と何も変わらない。

「それで?一体何を悩んでいるの、リリンカ」

 尋ねられてリリンカは、はてと首を傾げた。

 自分は悩んでいたのだろうか?

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