第17話

 リリンカが何か言うよりも早く、ユランナは勢いよく立ち上がって、そのままあっという間に、応接室から出て行ってしまった。

「お嬢さま!」

 廊下では、待機していたらしい侍女がユランナを呼ぶ声が遠ざかっていく。

 思わず自分も腰を上げ、後を追うか逡巡したリリンカを引き止めたのは子爵だった。

「すみません、レディ・リリンカ。追いかける前にもう少しだけ、おれの話を聞いてもらえますか。ユランナも屋敷からは出ないでしょうし、オルリーンがついています」

 子爵は未だ、らしくない重苦しい様子で、リリンカは消えたユランナを気にしつつも、椅子に腰掛けた。

 窓の外は日が傾き始めている。応接室は暗めの色調の、重厚な男性らしい調度でまとめられていて、早くも薄暗い。

「勝手な申し出だと、薄情な養父とお思いでしょう。おれにはロッテから託されたユランナを幸せにしてやる義務がある。ですが……情けないことに、色々と無理が来ているのが実情なのです」

「無理とは?公爵家から守りきれなくなると?」

「最終的にはそこにつながる話です……今日のユランナの買い物、おれの甥のためというのは聞いていらっしゃいますね?」

「はい。家庭教師チューターを迎える準備だと」

 子爵はうなずき、まさにそれが、理由の一つなのだと言った。

「おれが現在、滞在用に使用人を置いて維持しているのは、王都のこの屋敷と、あとは田舎の屋敷カントリーハウスをひとつきりです。前子爵から相続したほかの地所は、地元の村人を雇って手入れだけやらせたり、貸したりしている。貴族には屋敷をいくつも、常に使えるように使用人を常駐させている家もありますが、うちはこの二か所だけ」

 使用人をうかつに増やせないんです、と続けたので、リリンカはなんとなく事情を察した。

「公爵家の息のかかった者が送り込まれる?」

「そのとおり。今のところは古参の者たちが目を光らせてくれていて、大ごとにはなっていません。ただ過去には、新しく雇った使用人が暴漢を屋敷内に手引きしたこともあったんです」

 なんだそれは!

 リリンカははじめ公爵家に対して、怒りよりは呆れに近い感情を抱いていたのだが、さすがにこれには頭が一瞬真っ白になるような憤怒をおぼえた。

「甥のケンデルはおれの弟の息子で、我が家の唯一の相続人だ。今まで、教育は乳母ナースの経験もあるオルリーンと、おれとユランナで行ってきました。しかし寄宿学校に入るまで、あと数年に迫っているので、急ぎ家庭教師チューターを雇わねばなりません」

 実際、ケンデル少年の8歳という年齢は、家庭教師をつけるには少々遅いと言える。

「家庭教師は、使用人と違って階上の住人です。しかも子供部屋は他の者の目が届きにくい。もしも公爵家の手の者がその立場を得たら、ユランナの安全を確保するのはかなり難しくなる」

 子爵の懸念はもっともだった。

「それで、ミス・ユランナを結婚させて屋敷から出そうと……?」

「そう。しかも、ただの結婚ではだめなのは、さっきも説明したとおりです。結婚してこれまでより危険が増すんじゃあ意味がない。あいつがより安全で、自由に生きられるようにならねば」

 女性の結婚には、自由と束縛のどちらもが付き纏う。一般の令嬢は、未婚時代はあらゆる行動に制約がありひどく窮屈で、自由になるのは自分の頭の中くらいのものだ。

 これが既婚になればどうかといえば、確かに知ってはならぬ見てはならぬと世間に対して目隠しされるようなことはなくなる。しかし絶え間ない妊娠出産、あるいは男子を産むことへの周囲からの圧力、夫の浮気に、社交界での長い夜と油断ならない人間関係。

 子爵のいう、結婚による安全の確保はまだわかる。しかしより自由になれる結婚、そんなものが果たしてこの世にあるのだろうか?

 心の通じ合う善良な夫や、愛する子供を得て幸せに暮らす女性はいくらでもいる。しかし自由かといえば、リリンカにはとてもそうは思えない。

「お考えになっていること、なんとなく想像がつきます」

 リリンカの表情が曇るのを見て、子爵は苦笑した。

「……おれはユランナを自由にする計画を、ずっと考えてきた。そのために色々と動いているのですが、一つが、あいつの母親、ロッテを見つけることです」

「お母上を?」

「そう。どこか別の地へ、それこそ新大陸へ渡るだとか、公爵家の影響下から逃れる方法はあるのです。しかしそれには、どうしてもロッテのことが気がかりだ」

 子爵より5歳ばかり年上となると、ユランナの母は現在40歳くらいになろうか。その年齢の女性が一人で働いて、子どもの養育費を今も送ってきている……深い愛情がなければ、とてもできない。凄まじい献身だ。

「公爵家のユランナへの執着を思えば、ロッテは見つかったら人質に取られる可能性もある。つまり何をするにしても、彼女を保護しなければ始まらないのです」

 もしも、と子爵は重々しく続けた。

「もしもですよ、レディ・リリンカ。あなたがユランナと結婚して、あいつを守ってくれるのならば、おれは本格的に、ロッテを探しに行こうと考えているのです」

 ユランナを自分が守る。

 仮に結婚すれば、ユランナは子どもを持つ可能性がなくなったとして公爵家の干渉は終わり、身の安全を図ることができる。なるほどひどく魅力的な提案に思えた。少なくとも、リリンカにとってはだ。

 しかしユランナ当人にとってはどうなのだ?

 子どもを諦めるという部分を納得しているのだろうか。先程の様子を見る限り、子爵の思惑は全く知らなかったはずだ。

「アコーレどのから、レディ・リリンカがどういった計画を立てていたのか、大筋は聞いています。その……お相手の希望によっては、離縁も許すおつもりであると」

 言われて、その通りだったと思い出す。

 計算尽くの、政略のみで心を伴わない結婚に納得のできる女性を。

 リリンカははじめから、そう決めていた。だからこそ、そのようなものにユランナを巻き込みたくなかったのだ。

「おれは、あなたとユランナはきっとうまくやっていけると思う。けれどもし、このような計略で始まるのを気になさるなら……おれがロッテを見つけるまでの、期限付きではどうですか」

 リリンカは今や、せねばならないことと、したいこととの間で板挟みになってしまった。そこへ子爵はたたみかける。

「ロッテを探し出して、全ての事情を明らかにする。そして二人が安全に、幸福に暮らせるようにします。だからそれまで」


 ユランナを預かって欲しい。

 子爵はそう告げて、リリンカに深く頭を下げたのだ。


◇◇◇


 リリンカが庭へ出ると、夕方の優しい日差しが、ほころびはじめの花々を最後の光で輝かせていた。

 ユランナはどこだろうか、とあたりを見回すと、地を這う花に周囲を囲まれた小さな池を回り込む小道の先に、あずまやが見える。

 どうやらそこに人影があるとわかり、リリンカは足を向けた。


「……ねえユランナ、ぼくもお客さまに会ってみたいよ。ウールジュを倒した英雄なんでしょう?」

「……、……」

 あどけない少年の声に、聞き取れない小さな声が何か答えた。

 一般的には、子どもと大人の世界は明確に分かれている。

 貴族の子どもは、ふだんはほとんど大人の前に姿を現さない。子供部屋で、乳母や家庭教師、使用人と一日を過ごし、両親であっても寝る前に一度顔を合わせれば良いほうだ。

 リリンカの実家はその点、一番下の弟キャルスンは遅くできた子どもで皆が甘やかしたがるせいで、屋敷じゅうどこへでも駆けてまわるのだが、それは珍しいことなのである。

 ユランナの小声は何か諭すような口調で、おそらく客の前に子どもが顔を出すことはできないと言い聞かせているに違いない。

「少しだけでいいんだよ!お見送りのときに、階段の上からお顔をちょっとだけ、ないしょで見られれば……」

 健気な少年の訴えに、リリンカは微笑んだ。

 一人の力で成し遂げたわけではない功績で英雄と呼ばれるのは面映ゆいものであるが、子どもの無邪気な憧れを叶えるのも、軍人の務めであろう。

 円形の小さな塔を模したつくりのあずまやの、優雅な曲線の影が夕闇にくっきりと映える。近づくと、蔓バラのからみつく柱に囲まれた中には、ユランナと活発そうな少年が並んでベンチに腰掛けていた。

「こっそりと言わず、ぜひご挨拶させてください。小さな紳士をご紹介いただいても?ミス・ユランナ」

 リリンカは二人にそう声をかけた。

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