第10話
リリンカとアグレシン子爵の様子から何を読み取ったか、ウェンドレン王女は「ユランナ嬢を探していらっしゃい、あなたたち二人で」と命じた。
手を組んで、ちゃんと一緒に歩くのよ!とそれぞれ別の方へ向かおうとした両者に釘を刺すあたり、王女も先日の舞踏会での噂を耳にしているに違いない。
「こんなことになって、本当に申し訳ない」
他の人々の声が聞こえないあたりまで離れたところで、子爵がしょんぼりした様子で言った。
「いえ、こちらこそ。我々はどちらも少々迂闊だったというだけのこと」
舞踏会でリリンカが踊った男性は他に何人もいたが、少なくとも東方の壺の陰で談笑――話題はともかく――するところを見られたのは子爵だけだ。
「まさか、おれのような年寄りが本当にあなたと噂になるとは、思ってもみなかった。あの舞踏会には他に若いのがいくらでもいたわけですし……」
「あなたが年寄りなら、私は年増ですよ、子爵。それに、他の若いのよりも、あなたとの会話が有意義だったのは事実です」
言われて子爵は思案する様子を見せた。
「若いのといえば、うちの……そうですね、レディ・リリンカ、ユランナのやつを早く探しましょう。あいつの話し相手になってはくれませんか?」
子爵はユランナの居所に見当がついているようで、リリンカを迷いなく庭園の奥へ導いた。
「なるほど、迷路」
人の背丈を軽く超える高い植え込みで作られた迷路は、王都にあって広大な面積を誇る王宮の庭園の中でも一際規模の大きなものだった。
正面に並んだ入口と出口の間に、冷やしたレモネードやら小さな菓子やらを載せたワゴンとちょっとしたテーブルセットがあり、召使いが二人、暇そうな様子で立っていた。
「ここへ、背の高い令嬢が来なかったか?」
子爵が召使いに尋ねる。
「ええ、茶会が始まってすぐの頃に、おいでになり……実はまだ、お出になっていないのです。あまりに長く迷われるのなら、お探しに行くべきかと思案しておりました」
「今、中にいるのは?」
リリンカも気になっていたことを確認する。
「そのご令嬢おひとりでございます」
「我々が探しに行こう。なに、心配することはない。日差しが暖かく心地いいから、散歩気分でのんびりしているに違いない」
気安い調子で請け負って、子爵はリリンカと迷路の中へ踏み込んだ。
「さてと……実はですね、お察しかと思いますが、ユランナは茶会への参加をかなり嫌がりましてね」
だろうな、と思ったが、そのまま口にするのは憚られ、頷くにとどめる。
「早い話、ヘソを曲げて、目を離した隙に姿を消したのです。とはいえ案内なしに王宮内を歩き回るのは無理ですから、勝手に帰ることはできないはずだ」
「それで、この迷路に隠れていらっしゃると?」
あの令嬢が、ヘソを曲げて、さらに迷路に隠れている!
その様子を想像すると、まるで小さな少年、弟のキャルスンのようではないか。リリンカはなんだか楽しくなってきた。
「広大な庭園の中で、この迷路は今日一番の不人気のようだ。王女殿下か王太子殿下が訪れでもしない限り、人目をひくことはなさそうです」
確かに、入口にいた召使いは遠目に欠伸をしているのが見えたし、ワゴンの軽食も手をつけられた様子がなかった。
「わかりました、子爵の読みを信じましょう。……では私はあちらに」
「了解です、おれはこちらに」
そうして二人は、最初の別れ道で反対の方向へ歩き出した。
特に競争する話だったわけではないが、リリンカはなぜだか、ぜひとも自分が先にユランナを見つけたいと思った。
そのためなら、少々のずるも致し方あるまい。なにしろルールがあるわけではない。
両の耳を、それぞれ指先でそっと触れ、それから鼻もするりと撫でる。
『猟犬の目覚め』。
聴覚と嗅覚が、一気に人間の数倍にも鋭敏になる。
このての五感操作の魔法は、リリンカはどちらかと言えば不得手だ。これを得意とする魔女ならば、数百、数千倍の能力を発揮し、まさに野生動物さながらの感覚を使いこなすことができる。
とはいえ基礎を習うときに必ず習得するものに含まれるし、今この迷路で、かくれんぼしている令嬢を探し出す程度ならば、十分事足りる。
耳はまず、そう遠くない場所に、革のブーツが芝を踏む、きびきびした足音をとらえた。これは別れたばかりの子爵だろう。
鼻も同様。紳士の身につける高価でスパイシーな香料に薄く混じる男性の汗。これらの情報はいったん遮断する。ユランナを探すには邪魔なものだ。
「……いた」
子爵よりは軽く、しかししっかりした足音を聞き分ける。目的があるというよりは、あてもなく歩いているような歩調だ。
ふふ、とリリンカは微笑んで、入り組んだ生垣の道を走り出した。
動物的な直感に従って、右に左に、ユランナのものと思われる音の源を目指す。そのうちに、感覚強化された鼻が新しいにおいをとらえた。
女性たちの間ではおなじみの、ラベンダー水の香り。年若い少女ならそれに甘酸っぱい体臭が加わるものだが、リリンカの探す存在は少し違う。
ユランナは25歳だ。確かに若いとは言いがたいかもしれないが、中年以上の女性ともまた異なっていた。
それがなんだか断定できないまま、リリンカは相手の位置をほとんど突き止めた。
「えい、まだるっこしい!」
迷路の行き止まりに阻まれ、リリンカは焦れた。
指の背で素早く太腿を撫でる。
『兎の癇癪』。
数歩後ずさり、軽く助走をつけた。
タ、とわずかな足音を響かせ、リリンカは人の背をはるかに超える生垣を、跳躍一つで飛び越えた。
「さあ、もうあなたのもとに着くぞ、ユランナ」
走っては跳び、跳んでは走り。
数度繰り返して着地した、直線の通路の先。
物音に気づいたのか、半身振り返る、背の高い姿を見出した。
「……見つけた」
思わず口からそんなつぶやきがこぼれ出て、リリンカ自身、内心で驚いた。
当人ですらそうなのだから、行き止まりの背後から突然人が現れたのに気付いたユランナが、体を強張らせ、棒立ちになったのも無理もない。
今日のユランナは、黒に近い深い赤の衣装を纏っていた。高い襟が顎のすぐ下まで覆う丈の短い長袖の上着と、共布のスカート。いずれも布地は厚めだが、とても質の良いものだ。
顔は、帽子から下がるレースで今日も半ばまで覆われている。
リリンカは今度は地を踏みしめて、立ちつくすユランナの元へ、悠然と歩み寄った。
「驚かせて申し訳ありません、ミス・ユランナ」
リリンカは立ち止まって礼をした。すると相手は今にも逃げ出したい様子で一歩下がり、背中を生垣に阻まれる。
左右にはそれぞれ道が伸びていた。素早く両方を確認した気配はあったが、リリンカが顔を上げると、ユランナはうつむいて、まだそこにいた。
「どうか落ち着いてください。覚えておいででしょうか?私はリリンカ・ゼアドゥ。先日、王都でお会いいたしました」
声を落とし、低く、ゆっくりと語りかける。
そう、思い出すのだ、この令嬢についてアコーレはなんと言っていたか?
「なんでも、ひどく内気なたちであるとか、教育が行き届かず恐ろしい訛りがあるとか、はたまた顔に大きな目立つあざがあるだとか……」
確かこのような内容であったはずだ。
もしもこれらの噂のどれかが真実であるなら、今のようにきちんと知り合ってもいない相手から話しかけられるのは苦痛かもしれない。
しかしリリンカに助けられたこと自体は、ユランナにとって嫌なことではなかったはずだ。
……子爵の舞踏会での言葉が社交辞令でなければ。
「お……覚えて、おります。もちろん」
辛抱強く、顔を伏せたユランナの帽子につけられた造花や羽飾りを見つめていると、やがて小さな声で返事があった。
「それは光栄です。その後、お元気にお過ごしであると、子爵にはお聞きしていましたが、またお会いできたのを嬉しく思います」
リリンカはそこで理解した。
自分はユランナに会えて嬉しい。会いたかったのだ。
きちんと顔も見ていない、言葉もまだ数えるほどしか交わしていない相手に、一体どうしてここまで心動かされるのだろう。
「なぜ、ここへ……?」
ユランナは掠れた声で、ひどく話しにくそうに言葉を紡ぐ。
「きっかけといえば、王女殿下があなたをお探しするよう仰ったからですが……」
少し首を傾げ、考える。
どうも大切なことを尋ねられているような気がしたからだ。
「魔法まで使って急いだのは、単にあなたに早くお会いしたかったから。私があなたを見つけたかったから」
ハッとしたように、ユランナが顔を上げた。
目の下まで覆っていたレースが、はらりと解ける。
リリンカはそこに薄氷の瞳を見た。
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