第9話
「なあ、私は近頃、妙な妄想に囚われているんだ。兄上が私の屋敷にいるときに限って、王宮から知らせが届く気がする。テオセンを出入り禁止にするべきなんじゃないか?」
馬車から降りようとするリリンカの手を取っていたアコーレは、目をぱちくりさせた。
「それならば逆ではございませんか?毎日お招きするべきかと存じます」
そんなに頻繁に王家と関わるような出来事があってたまるか!と内心でわめき、リリンカは実家の扉をくぐった。
もう前日になるが、またしてもテオセンの訪問中に王宮から届いたのは、王太子と王女の主催によるごく私的なお茶会への招待だった。
それに含まれたのは、父であるルブリック伯爵とリリンカの二人。
リリンカは支度を整えて私邸を出発し、ひとまずは実家に寄った。今日はここから父親の所有する馬車に乗り換えて、王宮へ向かう算段だ。
「まあリリンカ!すてきな装いじゃあないの!見てご覧なさい、この薄明のような美しい青。ヤーラ、よくやりましたね。今、私の母から伝わる首飾りを持って来させるわ。つけてあげて」
「光栄に存じます、奥様。仕立てが間に合ってようございました」
ラベンダー色のゼアドゥ家の居間に入った途端、伯爵夫人はリリンカのまとう新しいドレスに釘付けになった。
「本当にねえ!あまり早く作らせては、着ないうちに流行遅れになってしまうかもしれないし。だからといって出来上がりが間に合わなくて、以前も着たドレスをもう一度なんて、とんでもないことよ。まして今日は、王太子殿下と王女殿下にお目にかかるんですから」
ナラルの剣幕に圧倒されたリリンカは、母親が我が子に対してだけする独特の荒っぽい手つきに身を任せて、裏に表にと、促されるがまま体を動かした。
「母さん、これからまた王宮に向かう馬車に揺られなければならないんだ。リリンカを座らせてあげてはどうです」
と、居間の奥で暖炉の前の長椅子にかけていたテオセンが言う。
「どうということはありませんよ、兄上。軍人たるもの、命令とあれば何時間だって起立して過ごしますとも」
「確かにおまえは、そこいらの令嬢に比べれば、すこぶる頑健かもしれないが。それでも今日向かうのは王宮だ。まさに戦場に等しい、何が起きても不思議はない場所だ……」
兄の忠告は、にこにこと恐ろしく機嫌の良い顔で居間に入って来たルブリック伯爵によって尻切れになった。
「我が家の軍神、未来のヴァンスイール伯爵よ。今日も美しく装っているな、感心である!」
……上機嫌にもほどがある。
リリンカは早くもぐったりした気分になって、眉間をおさえた。
伯爵は、あとに続いて駆け込んできて、脚の周りを意味もなくグルグルと走り回っている小さな男の子を抱き上げた。そしてそのまま、グルグルの続きを楽しませてやるべく、今度は自分が回り始める始末である。
「まあ!あなた、そんなに振り回しては、キャルスンの頭の中身が寄ってしまうわよ!おやめなさいませ!」
妻に叱られ、伯爵は「おお、怖いお母さまだ」なんてことをささやきかけながら、末の息子を床におろした。
6歳の弟キャルスンは、リリンカが出征したときには、まだ赤ん坊だった。
伯爵は自分に似た息子の明るい褐色の髪をひとつかき回し、テオセンのいる長椅子の方へ行くようにと、背を押してやる。
「まったくもう、朝からずっとこの調子。リリンカ、お父さまのフロックコートの裾を掴んでおいた方がいいよ。あれじゃ王宮の廊下を走り回りかねないから」
最後にアンシェマがやって来て、ゼアドゥ家の全員が揃った。
ほかの面々はともかく、父がここまで浮かれているのは、はじめて見た。
これは十中八九、先日の舞踏会での出来事が影響している。
アンシェマに関することではなく、リリンカがアグレシン子爵と親しく話していた、という件の方だ。
あの日の帰路、一家は庭園での事件をどう片付けるかという話に終始していた。つまりリリンカが誰と話し、踊ったのか、という点について伯爵が知ったのは、舞踏会に関する世間の噂からということだ。
「私が爵位を賜るのが、まるで決まったことであるかのように言うのは良くありませんよ、父上」
「リリンカよ、アグレシン子爵は気骨ある男ときく。確かに爵位が都合よく転がり込んだ成り上がり者、などと陰口を叩く者もいるようだ。しかし、そうでありながら領地の運営は堅実だし、度すぎた放蕩の噂もない。良い紳士ではないか」
もはや全然会話が噛み合わない。
まったく、このたった2日ほどの間に、何をどれだけ調べた結果、こうなったのだろうか?
「子爵とは、あの方の養女であるお嬢さまのことを話していただけですよ。以前、馬車が立ち往生しているところへ出くわして、お手伝いしたことがあるので」
事実を話せば、ならず者だの襲撃だのとひどく物騒になる。しかしこう言っておけば、まるで馬車がぬかるみにはまった程度の、ありふれた事故のように聞こえるわけだ。
「ふむ、なるほど?」
うなずいた父の顔からは、リリンカの言い分を信じたのかは読み取れなかった。
◇◇◇
「いったい何をぐずぐずしているの、レディ・リリンカ?」
鈴を振るような愛らしい声で王女ウェンドレンからお叱りを受け、リリンカは反射的に背を屈めて、
昼下がりの気怠い日差しの中、王宮の庭園には、ごく少数の、王女によって選ばれ招かれた貴族たちが集っている。
王女と王太子のお出ましが済み、今は思い思いの場所に散って、技巧の凝らされた植え込みを愛でたり、お茶で喉を潤したりしていた。
王女ウェンドレンは、エルサランドの現国王ジェドラス3世の孫にあたる。
今年15歳の若き王女は、侍女のもつ日傘の陰の下にあっても、若さとあふれんばかりの覇気でもって、周囲を圧倒していた。
王女の父、つまり現国王の第二子ヨシェスは、彼女が赤ん坊の時に、馬車の事故で妃と共に死去していた。
その事故と王位継承権第一位であった次男の死は、ジェドラス3世の精神に著しい痛手を与え、数年もしないうちに、公務を執り行うことは不可能なほどの状態となった。
さてこの時点で、誰かが国王に代わって国を治める必要が生じた。
しかし継承権第一位となったウェンドレンは当時5歳である。そこで白羽の矢がたったのが、国王の第一子デルエンドだ。
彼は同性との結婚のために、若い頃に王位継承権を喪失していたが、摂政を務めるためにその地位を回復したのだ。
現在はデルエンドが摂政王太子として病床の国王に代わって
ただしこれは、ウェンドレンが18歳になるまでの時限付きの措置だ。
王女ウェンドレンが18歳になった時点でジェドラス3世が存命であれば、彼女が叔父デルエンドから摂政を引き継ぐ。
あるいは現国王の死が先であれば、即位した女王が18歳になるまで、摂政デルエンドが支えるというわけだ。
……リリンカはもちろん、このような背景は熟知していた。ウェンドレンは遅くても3年後には女王か、あるいは摂政となる。
その彼女が何についてリリンカを「ぐずぐずしている」と叱責したのか、さすがに言われるまでもなく明らかだ。
「
ウェンドレン王女は髪や目の色こそ平凡な褐色だが、ややつり気味の大きな目に、柔らかそうな頬、作りの小さな顎、形のいい小さめの口、と気位の高い長毛の猫のような印象を抱かせる美少女だ。年相応のくるくる変わる表情もまた可愛らしい。
きついことを言われている気はするのだが、リリンカはついそんな王女に見とれて、返答が遅れた。
「聴いているの?」
「はっ、その、はい。もちろん、鋭意努力しているところでありますが、なにぶん、私のような者を娶りたいというのは余程の奇特な相手になるかと」
リリンカとしては、結婚に気の進まない本当の理由は口に出しにくい。結果、何やら周囲に理由があるような物言いになるのがいたたまれない心地である。
しかし王女はリリンカの内心など知りようはないだろうから、大きく肩をすくめて、彼女の背後に視線をやった。
「ねえ、お聞きになりまして?今をときめく救国の英雄に、こんなふうに自信のないことを言わせてしまうなんて。我が国の男性たちはなんと不甲斐ないのでしょう」
「はは、面目次第もございません」
聞こえてきたのは、ごく最近も耳にした、快活な男性の声だ。
「子爵!」
振り向けば、アグレシン子爵バゼル・メリエッドが王女にお辞儀をするところだった。
「お招きいただきましてありがとうございます、王女殿下」
王女は鷹揚に頷き、絹の長手袋に包まれた手を差し出す。
「今日はあなたの
ウェンドレンが扇子を傾けてそう言うと、その手を取って額におしいだこうとしていた子爵は、わずかに身じろいだ。
「ええ、もちろんです。その……どこかにはいるはずです、どこかには」
膝を折って頭を下げていたリリンカは、あたりを見回さないでいるのに、いささか努力を必要とした。
ユランナ嬢が、この茶会に来ている?
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