第8話

「リリンカ、寒い!その冷気をひっこめてよ」

 後ろをついてくるアンシェマの情けない声に、リリンカはハッとした。

「あぁ、すまない」

 暗い庭園を歩く二人はいずれも、肩を覆うだけの短い袖の薄物のドレスを着ていて、春とはいえ夜にはまだ少し冷える気候だ。

「それから、歩くの速い!」

「……はいはい、お姫さま」

 足を止め、追いついて来たアンシェマの手を取り、腕を組んでゆっくり歩き始める。

「……でも、来てくれてありがとう。もうダメかと思っちゃった」

 謎の紳士が全力疾走で逃走したそのあと。

 リリンカ一人ならば、男の足にだって魔法なり使って追いつくのは簡単だ。

 しかしさすがに、せっかく救出したアンシェマを置いてゆくわけにはいかず、その場に留まった。

「お説教は母上と父上からたっぷりあるだろうから、私からはあまり言わないが……」

 リリンカの冷気の魔法のせいか、それとも恐怖のせいか、腕につかまるアンシェマの手は震えていた。

「危ない目に遭いそうなら、私を頼ってくれ。ちょうど私が子爵と踊るか話すかしていた時に、奴に見つかったのだろうが……私にとっては、おまえの安全よりも優先するような用事など、舞踏会ごときにありはしないのだぞ」

 わかってる、とつぶやくアンシェマはしょんぼりしている。

「どんな状況になったとしても、一人きりになるのは悪手だ。今度からは、私が何をしていても、構わず呼び戻せばいい。それを言っておかなかったのは、私の落ち度だ。すまなかったな」

 レースの長手袋に包まれた妹の手を優しく叩き、頭を抱き寄せた。

「でも、リリンカは今回の社交期シーズンで結婚するでしょ」

「……そうせねば、ならんのだが。まあ上手くいくかはわからないよ。それにおまえにだって、きちんとした男を誰か見つけないとな」

 つきまといをしていた男には、あらためて父である伯爵から対応すべきだろう。

「そうだ!ね、さっきの男性ひと、誰だろうね?じゃない自毛の長髪なんて、はじめて見た」

「アンシェマも知らない相手か」

 デビュー即出征で5年も戦場にいたリリンカの人脈は、軍隊関係と、親戚や両親の友人に限られる。その点、今年で2年目の社交期シーズンであるアンシェマの方が、社交界の情報には通じているはずだった。

「あんな素敵な人、見たことあったら絶対に忘れないよ!」

「しかし、こちらが尋ねているのに名乗りもせず逃げたのだぞ。ろくなやつではない。あとで父上に心当たりがないか聞いてみなければ」

 そして何より、今夜のことを口止めしなければならない。

「探して欲しいけれど、彼を責めないでよ、リリンカ。あの人、私を助けようとしてくれたじゃない」

 リリンカは今回、妹の重大な危機に、からくも間に合った。評判を失わないためにまだ対処が必要ではあるのだが、に何かあったわけではない。

 しかし、あともう少しでも母がリリンカを見つけるのが遅かったら?あるいはテラスから出ることを思いつかなかったら?考えるのもおぞましい事態となっていた可能性もある。

 あの謎の紳士は、もしかするとその場合、妹にとってのまさに救世主となっていたのだ。

「それに、見たでしょう?あの綺麗なお顔。この王都にだって、二人といないよ。評判になっていないってことは、リリンカみたいに長く王都を離れてたのか……外国から帰って来たばかりなのかも」

 年頃の娘にしては若干冷静なところがあると思っていたアンシェマの、夢見るような甘い口調をきいて、リリンカは隣を振り返った。

「彼とぜひ知り合いになりたい。リリンカ、私あの方を……好きになったかも」

 なんと。

 あんな短い時間の邂逅で?身分も名前も何ひとつわからないというのに?


 ただ、あの瞳の青だけは少なくとも、今まで転戦したどの地方で見た雪景色よりも美しかったな、とリリンカは口に出さずに認めた。


◇◇◇


 その後、二人は無事に両親と合流し、一家は早々に舞踏会から引き上げることにした。

 帰りの馬車で、後のことをいくつか検討した結果、狼藉者には伯爵からの対処を(相手は金持ちの男爵の長男で、ゼアドゥ家にとっては格下だ)、またテオセンにはこの件は当面伏せておくとした。

 なにしろゼアドゥ家の長男は気性が真っ直ぐで、端的に言えば血の気が多く激情家だ。事態を知れば決闘を申し込むくらいは当然やってのける。

 また、アンシェマの一目惚れの相手、謎の紳士については、伯爵にも心当たりがなかった。

 こちらも、一家はそれぞれ該当する人物を知る者がいないか、さりげなく各々の知己をあたってみることにした。

 リリンカは帰ってそれをアコーレに申しつけるのを忘れないようにせねば、と頭の隅に刻んだ。

 なにしろ今夜はやけに疲れた。

 運動量はともかく、色々なことがありすぎたのだ……。


◇◇◇


「アグレシン子爵と親しくなったと聞いた」

 リリンカの私邸の平和は、またしても朝から訪ねてきた兄のテオセンによって破られた。

「兄上……この王都であなたくらいでは?使用人以外でこんな早朝から活動しているのは」

 朝食のテーブルに乱入されたのを寛大にも許すという意思表示に、兄にも食事を出すようメイドに言いつける。

「はぐらかすんじゃない、リリンカ。子爵は独身だ。おまえに結婚を申し込む資格は十分あるのだぞ」

 ハドレー家の舞踏会の翌日、上流階級の人々の噂を独占したのはリリンカだ。

 戦争帰りの令嬢レディ・リリンカと、社交嫌いの変わり者、アグレシン子爵。この二人がなにやら、東方の壺の陰で親しげに笑い合っていた……そんな話題である。

 幸運なことに、今のところアンシェマの名誉を汚すような噂は出ていないし、テオセンにも隠し通せているようだった。

「笑い合っていた、というのは誇張した表現であると言わざるを得ません。正しくは……私が不躾なことを尋ねて、それを子爵が面白がった。そんなところです」

 さらに実際には、話題はほとんど全て、彼の養女、ユランナ・メリエッド嬢のことだった。

 もっともそれを話すには、往来で彼女の馬車を救った顛末から語る必要があるので、リリンカは賢明にも食事に集中することにした。

「それで?彼は今日訪ねてくるのか」

「まさか。子爵が私と踊ったのは、サッツルトン少将の顔を立ててのことでしょう」

 もちろん真意はユランナの件の礼を言うためだが、わざわざ友人である少将に紹介を頼んだふしはある。ダンスの申し込みには、少将への言い訳も含まれるとみていいだろう。

「では他の連中はどうなのだ。何人もに囲まれて話していたのだろう?」

「父上や母上、アンシェマはあまり詳しい話をしなかったようですね。あれは戦友と旧交を温めただけです」

「それでもだ。僕の妹と親しく話しておいて、花のひとつも持ってこないとは!」

 この兄はやはり身贔屓が過ぎる。

「……つまるところ、戦地帰りの野蛮な令嬢を花嫁に迎えたいか?という話ですよ。世の独身男性は、女性にはとかく、か弱くおとなしく無知であって欲しいようですから」

 肩をすくめて何でもないことのように言われ、テオセンはかける言葉に迷うように口を閉じた。

社交期シーズンはまだ始まったばかりです、焦ることはない。それにもし褒賞を返上することになったとして……確かに不敬の極みではありましょうが、私自身がどうかされるわけではない」

「おまえの軍での進退に関わるだろう」

 昇進はしにくくなるかもしれない。

「ウールジュと大陸の情勢しだいではありますが、王国で50人に満たない戦役魔女を、処刑まですることはないと思いますよ」

「不敬を理由に最強の戦力を手放すような愚かな国ならば、もはや未練はない。そんなことになったらゼアドゥ家全員で新大陸にでも渡ってやる」

 過激なことを仰る、とリリンカは笑った。

「王太子殿下も王女殿下も、そのような狭量な方でないのは、兄上もご存知のはず」

 わかっている、とテオセンは渋々の様子で認めた。

「狭量どころか、エルサランド王家はどこの王室と比較しても自由な家風でありましょう」

 リリンカの言うのは、あながち根拠のないことではなかった。

「なんといっても、いまやこのエルサランドでは、王族のすら認められたのですからね」

 兄の表情はますます複雑になった。

「それについては――」

 結果を述べれば、リリンカは兄の王家に対する率直な意見を聞きそびれた。

 なぜならまたしても、アコーレが朝食室に飛び込んできて、王宮からの使いがやってきたと告げたからだ。

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