第7話
「ああ!リリンカ!やっと見つけた」
アグレシン子爵との会話を終えたリリンカが、さて会場を一巡り、と歩き始めて間もなく。
「母上?どうなさったのです」
周囲の人々に異常を悟られない程度の早歩き、素早い裾さばきでやって来たのは、ナラルだ。声も大きくはないものの、切迫した様子がうかがえる。
「アンシェマはどこ?さっきまで一緒にいたでしょう?」
「はい、サッツルトン少将と舞踏場の向こうに……ああ、もういないようです」
人いきれでむんむんたる会場に視線を巡らせる。例の東方の壺の近くでは、少将が赤ら顔で腹の出た紳士となにやら大声で談笑しているだけだ。
「探して頂戴、リリンカ。まずいことになっているかも知れないの。あの子、あまり良くない殿方に目をつけられていて……」
「何ですって?」
ナラルは痛いほどの力でリリンカの腕に掴まっている。
「悪い噂のある方で、お父さまからも、本人からもはっきりとお断りしたのよ。なのに、あちこちの催しでしつこくされて……さっきその男が会場にいるのを遠目に見つけたんだけれど」
「父上は?」
「アンシェマを探して、屋敷の廊下の方を見てくださっているわ。テオセンはまだ来ていないし……一体どうしたら、あの子に何かあったら!」
普段はそうそう取り乱すことのない母親の動揺に、リリンカはことの重大さを悟った。
「私も探しましょう。母上は……ああ、ブルムスロー子爵未亡人があそこにいる。彼女を誘って、何かおしゃべりでもしながら会場を歩き回ってください。そうしてアンシェマかその男を探すのです。どうか落ち着いて、いいですね?」
母親を、彼女と親しい友人の、気の良い寡婦に託すと、リリンカ自身はどこを探すべきか、あたりを見回した。
踊り、笑いさざめく人々の頭の間から、暗い庭園へと開いたテラスが目に入る。
まさか、そんな人目につきにくい場所に自ら行くなど、ありえるか?しかし何か良からぬ出来事が起こる可能性が高いのもそちらなのだ……。
嫌な予感に突き動かされ、リリンカは会場の熱気も届かぬ屋外へと飛び出した。
月の夜の庭園は、植込みが長い影をあちこちに落としているのみで、一見、ひと気のない様子だ。
しかし伝統的に、こういった場所で数多の秘密や醜聞が行われたのは事実で、アンシェマのような未婚の女性が一人で歩き回るのは不適切な行動だ。
アンシェマは決して愚かな娘ではないが、しつこい男から逃れるために庭に隠れるのが良い案だと、もしかすると考える可能性はある。なんといってもまだ若く、むこうみずな試みであっても、何でも自分は上手くやりおおせると思いがちな年頃なのだ。
さすがに大声で妹を呼ばわるわけにはいかず、リリンカはひとつ魔法を使った。
柔らかく、両のまぶたの上を指でなぞる。
金のまつ毛を震わせながら目を開くと、その瞳に映る世界は、既に青白い月明かりと闇ではなくなっていた。
『梟の朝』。
夜行性のいきもの並に夜目が効くようになる魔法である。
灯りをつけるのも、誰か供を探すのもはばかられた。
発見された時にもしもアンシェマが、その不埒な男と庭園で二人きりになっていたら?万が一にも、他人に見られるわけにはいかない。
リリンカは自分にだけは昼日中のように明るく見渡せる庭園を駆けた。
「いやだっ、来ないで!この……!」
悲壮な悲鳴のあとに、淑女の口から出るにはいささか問題のある罵詈雑言が続いた。
「あちらか!お転婆娘め!」
小さく罵り、リリンカは声の方に急いだ。
押し殺したような男の低い怒声が断続的に聞こえるが、内容はわからない。
おお、行く手の一際大きな薔薇の茂みの向こうで、何やら複数の人間の影が動き回っている!
「何をしているッ!」
凍るような魔法の冷気を全身に纏い、リリンカは咲き誇る薔薇の門を一気呵成に通り抜けた。
妹の白いドレスの背中と一緒に、その向こうにいる、大柄で、趣味の悪い紫がかった上着の男が目に入る。
しかし、リリンカとほとんど同時か、遅れたとしてもほんの一瞬の差で、両者の間にさらに誰かが割り込んだ。
「誰だきさま!」
大柄な男の方が、噛み付くような調子で誰何した。
割り込んだ人物……こちらも男性は、若木のようにしなやかで細身の背をすっと伸ばし、ぴたりと二人の間に立ち止まっている。どうやら、不埒ものの仲間ではないようだ。
「王立魔法連隊の戦役魔女リリンカ・ゼアドゥだ。悲鳴が聞こえたが、何があったのか?答えよ」
つんと顎を上げ、傲岸不遜に言い放つ。
「ま、魔女っ?!」
相対する男の方は、リリンカの名乗りにか、あるいは薔薇の茂みを急速に覆ってゆく冷たい霜にか、怯んだ様子で後ずさる。
一方、女性二人を背に守るようにして立つ男性の方は、あたりが真冬のような冷気に包まれても、一歩も引かず、無言でまっすぐに立っている。
リリンカは構わず、うろたえはじめた無頼漢を睨みつけた。
「どちらの紳士かは存じ上げぬが……私の噂は耳にしておいでかな?海を凍らせ、敵の艦隊を湾に閉じ込めて、兵糧攻めにしたこともある。これなる淑女は我が妹。まさか何か、狼藉をはたらこうと企んだのではあるまいな」
淡々と告げると、相手は何か言い訳めいたことを一言、二言つぶやいたのち、身を翻して走り去った。
「アンシェマ、無事だったか?」
「リリンカ!怖かった!」
抱きついて来た妹を受け止め、まだ無言のまま背を向けている前方の紳士を観察する。
背の高い男性だ。
仕立ての良い濃紺の上着に包まれた背中は、逞しい兵隊たちを見慣れたリリンカからすると、やや華奢に見える。
しかしなんといっても、目を引く特徴は彼の髪だ。
被ったままの
髪粉や、うなじでリボンを結ぶ長髪と巻毛のかつらは、今や若い世代では完全に流行遅れになっている。若者たちは、当世風の短い髪を保つため、王都で名の知れた理髪師に争うように予約を入れているのだ。
「失礼!紹介もなく名乗る無礼をお許しいただきたい、私はリリンカ・ゼアドゥだ。妹の危ないところに駆けつけてくださったようだが……?」
危機が去っても、こちらを振り向く様子のない男性に焦れて、リリンカは声をあげる。
それにわずかに肩が震えて、白い手袋の両手が腿の脇でぎゅっと握られた。
「どうかこちらを向いてください。お礼を申し上げねば」
ごく穏やかな口調を装っているが、リリンカの内心としては、妹の醜聞となりかねない場面を目撃したこの人物に、どうあっても口止めせねばならない、という切迫感が含まれている。
肩に手をかけて振り向かせ、クラヴァットを引っ掴んで揺さぶってやりたい気持ちをどうにかこうにか、押さえつけているのだ。
そうして、実際にはほんの数秒、リリンカにとっては恐ろしく長い数秒ののち、男性は意を決したようにこちらに向き直った。
北海の氷河のようだ。
すぐさま問い詰めてやろうと、開きかけた口のまま、リリンカはしばし、相手の瞳に見入った。
夜目の魔法で、暗闇であっても真昼と同じに見えるリリンカには、彼の淡く、冷たい青をした瞳の色まで、はっきりとわかった。
顔は、これまで出会ったどんな紳士とも、軍人とも、兵隊とも似ていない。
若く、日に当たったことのないような白い肌をしているが、弱々しさとは程遠い。意志の強そうな口元、困惑をあらわにひそめた眉と、まっすぐに通った鼻筋。
髪と同じ、黒くて濃いまつ毛が伏せられ、薄氷の瞳が隠れる――隠してしまうのは惜しい、美しいものだ。リリンカは思った。
固唾を飲んで見守る女性二人の前で、男性はわずかに唇を開き、閉じ、そして。
身を翻し、全力でその場から逃走したのだ。
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