第6話
さて数分後、リリンカはダンスカードに空きがあるか尋ねたアグレシン子爵に「もちろん」と答えたため、舞踏場の中央に舞い戻った。
ある意味で今現在、最も興味を抱いている相手と知り合ったのだから、こんなまたとない機会を逃す手はない。
「あなたは、あまりこういう場にいらっしゃらないと聞きました」
とはいえ、あなたの養女が命を狙われている理由を教えろ、などといきなり尋ねるわけにもいかず、ひどくつまらない物言いになる。
「普段はね。社交はそんなに得意じゃないのです。田舎にいるのが好きで」
何組もの男女が、音楽に合わせて縦横に動き回っている。パートナーが目まぐるしく入れ替わるものだから、踊りながらの会話ははかどらない。
「では今日は何か、目的が?」
中央で女性同士がすれ違い、子爵の元に戻ったところで尋ねる。
「ええ、あなたにお会いする必要があると思ったもので」
手を取って向かい合い、くるりと回転。
「わた……」
私に?と聞き終わらぬうちにまた子爵と離れ、対面の男性と組む羽目になる。目をやると、子爵は我慢しきれない、という様子で顔をくしゃりとさせて笑っていた。
ええい、なんと慌しいダンスなのか。話が細切れで、一向に本題に入れない。
しかも、この近さでは他のカップルに会話を聞かれる恐れもあるではないか。
「……私にどんなご用が?」
次に背中合わせで数歩のステップを踏む振り付けのときに、やっと言い切った。
戦地にも手慰みに流行りの小説などが持ち込まれて、戦友の魔女たちはそういったものを回し読んでいた。
彼女らの話題いわく、そのての物語には、惹かれあった男女が、あるいははじめは反目している男女が、ダンスをしながらお互いの気持ちを伝え合い、ときにはぶつかり合い、絆を深める場面があるのだとか。
「さっきは少将の目もあったし、ダンスの間にでもと考えてお誘いしたんですが」
子爵が言葉を切ったところで二人はまた離れ、今度は男性たちが中央でくるくると回る、そして戻ってくる。
「振り付けの流れが頭から飛んじまいそうだ。この曲が終わったら、今度は反対側の、あの青い壺の陰にでも行って、続きを話しましょうか」
笑いながら子爵はそんなふうに言ったきり、あとは踊りに集中してしまった。
リリンカは次に他の魔女と会ったならば、尋ねてみようと思った。
ダンスの最中に込み入った話をするのは難しい。小説の登場人物は皆、恐ろしい早口で、しかも全員が熟達した踊り手なのだろうか?と。
ひとつの曲が終わり、宣言したとおり子爵はリリンカの手を取って、サッツルトン少将やアンシェマのいる一角とは反対方向へ導いた。
「やれやれ、ああいったダンスの間にできる会話など、たかが知れているのを忘れてました。人の噂にならぬよう手短に済ませますから、ご容赦ください」
まだ面白そうに笑っている子爵が、通りかかった給仕から二人分の飲み物を受け取った。ひとつを手渡されたリリンカは礼を言って口をつける。
「了解いたしました。して、ご用とは?」
あらためて姿勢を正して、長身の相手と向き合う。
「どうか、お礼を言わせてください、レディ・リリンカ。先日は、私の
子爵はすっと頭を下げ、周囲に聞こえぬ程度の声でそう言った。
「そのことでしたか。子爵にお尋ねして良いものか、迷っておりました。その後、ご令嬢のお加減は?」
話したかった話題を相手から持ち出してくれたので、子爵との対面へ抱いていた懸念の大部分は解消された。
「おかげさまで、元気すぎるくらいで。侍女ともども、たいへん感謝しておりました」
王都の往来で、ほんのわずかな時間邂逅したユランナ嬢の、低く掠れた小さな声を思い出す。
あの日の神秘的な振る舞いと、子爵の言う元気すぎるという表現は印象が一致しない。
しかし分厚いレースで顔を隠したまま馬を早駆けしたり、丘を走り回ったりする様子を想像し、リリンカは思わず微笑んだ。
どうしたことか、意外にもしっくりくる気がしてきたではないか。
「……お元気であるなら何よりです。実のところ、心配しておりましたので。あの日の狼藉者どもは、単なる物盗りとは違うように見受けられましたから」
後半はリリンカ自身も声を落として告げる。
「さて、さすがのご慧眼ですな。お見込みのとおり、あいつは少々厄介ごとを抱えています」
あいつとは、
どうもこの子爵は上流階級の男性にしては、見た目も態度も、やけにざっくばらんである。
社交は得意ではないという子爵の発言が事実なら、そのせいかもしれない。
普通なら、男兄弟や近しい親戚、リリンカならば戦友――そういった相手としかしないような、対等で親しげなやりとりは、初対面では相手によっては不快に感じる可能性もある。しかしこの子爵の人懐こい笑い方を見ると、つい許してしまう。不思議な魅力のある人物だ。
「厄介ごと、ですか」
リリンカは慎重にそう言った。
「ああいった輩を差し向けられるような……です」
子爵の声が低くなった。
「今は?安全なのですか?」
「ええ、ことがおおやけになって困るのは、相手も同じです。あなたが現場に居合わせたのは、向こうも知るところだ。それに、あなたの執事が色々調べ回った……失礼、調査なさったのも良かった。帝国との戦争の英雄が気にかけているとわかれば、しばらくは大人しくなるでしょう」
本当だろうか?
いずれにしても、ただの野盗のたぐいでないのは事実だったようだ。
「あいつの名誉のために言えば、本人が悪いのではありません。もしもあなたが何か、噂を耳にしているのであれば、ですが」
リリンカの知っている噂といえば、アコーレが集めてきた情報だけだ。
曰く、さる高貴な男性の私生児であること。
そして10年前に社交界にデビューこそしたものの、その後全く人前に姿を表さず、それには何か事情があること。
あとは……
「噂というほどのことは知りません。でも子爵はユランナ嬢を大切になさっているのですね」
子爵は意外なことを言われた、というような顔になった。
「大切……そういう風にも言えるのか。いや、やっぱりそんな繊細なもんじゃあない気がするな。一番近いのは、友人、親友……うーん、悪友、かな?」
リリンカはそれもまた、不思議な表現だと思った。親子にしては年齢が近いとはいえ、養女に対して用いることはあまりないだろう。
「私はてっきりその……ユランナ嬢がこういった催しに現れないのは、必要がないからなのかと」
「必要」
本当に知りたいことが何なのか、リリンカはここに至ってようやく自覚していた。
リリンカ自身は未婚の令嬢であるが、通常そのような立場の女性に対して厳重に秘匿されている情報にも通じていた。でなければ、戦場を渡り歩き目にするものに到底耐えられはしないし、己の率いる隊の秩序を保つことなどできない。
「ええと、既に、子爵とのご関係が」
できあがって、いるのかと。
それをごく小さな声で告げた時の子爵の反応はといえば、混み合った舞踏場の皆が振り返るほどの、大爆笑だった。
瞬間、悟る。
馬鹿なことを尋ねた。これは絶対違う。反応ではっきりわかった。
人の流れからわずかに外れた一角の大きな陶磁器の陰で、腹を抱えて笑っている子爵を、眉をひそめて伺うもの、小声で何か囁き合うもの、興味深そうに様子を観察するもの。
とにかくあらゆる視線を浴びて、リリンカは張り付いたような笑顔を崩さないでいるのが精一杯だ。
笑い声がだんだんおさまって、人々も新しい関心の先を見つけるまで、しばらくの時間を必要とした。
「……笑いすぎです」
「いや、失礼。つまりこうですな?レディ・リリンカは、ユラン……ユランナが、おれの愛人かなにかだと、お思いになった」
涙の浮かんだ目尻を擦って、子爵はあけすけに言う。彼の推察は何一つ間違っていなかったが、素直にうなずくのは憚られた。
「まさか、そんなことを危惧なさっていたとは!は、ははっ、おっと申し訳ない……ええ、大丈夫、誓ってそのようなことはあり得ませんよ」
「もう十分、わかりましたとも」
ややむっつりした顔のリリンカを、子爵は面白そうに見る。
「すみません。ここまで笑うつもりはなかったんです。ただ、あなたのようなご令嬢が、軍隊時代の友人みたいなことをお尋ねになるものだから」
「軍にいらしたのですか?」
「ええ、大昔、それこそ遠い親戚が死んで、爵位が転がり込むまでね。少将とは、その頃の友人です。……そういえば、レディ・リリンカも似た経緯で伯爵になられるとか?」
「はい。私の場合は、褒賞ですが」
しかも、今年のシーズンで結婚しなければ、お流れになる話だ。もちろん、褒賞を拒む形になるので、そんな不敬は許されない。
「立派な戦績であられたと、一時はあなたの話でもちきりでしたよ。そんな方に助けられたのだと知って、ユランナのやつ、ずいぶん興奮を……」
またまた、最初の印象とは違った話が出てきた。ユランナ嬢とは、いったいどんな人なのだろう……。
「養女に迎えられて、どのくらいになるのですか」
「もう、15年になります。あいつが10歳のときですね」
「では子爵も、かなりお若い時分だったのでは」
驚いて、目の前の子爵を見る。
「爵位を継いで間もないころです。あのときはまだ、母と弟と住んでいてね……ああ」
何かに思い当たったように、子爵は首を傾げた。
「一応言っておきますが、さすがに子供部屋にいる年齢で子どもを作れるほどのやり手ではないですよ。こう見えて、おれとあいつは10しか歳が離れておりませんから……レディ・リリンカ、つまりそういうことがお知りになりたかったのでしょ?」
いたずらな表情で問いかけられ、図星を突かれたリリンカは、恥じ入って口を閉じた。
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