Sense

ちえ。

第1話

橙羽とわ、はい、これ」

 学校帰りの待ち合わせ場所に現れた恋人、実智みちくんの手には、私が今丁度飲みたいと思っていたコンビニのカフェラテ。

「わー、ありがとう。今なんとなく飲みたいって思ったところ。本当、いつもすごいね。超能力者みたい」

「そんな気がした」

 遠慮なく手を伸ばしてお礼を言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。


 生真面目そうな黒髪に眼鏡。私たちの高校のブレザーみたいにお洒落な制服じゃなくて、きっと昔ながらの学ランが似合うような地味な見た目。

 でも、実智くんはよく見ると可愛い顔つきをしていて、性格だってとっても優しい。

 私は彼に甘えすぎているんじゃないかってくらい大事にして貰っていて。

 勿論、同じだけ大事にしたいと思ってるけど、どうしても彼の至れり尽くせりには追いつかない。

 何せ、彼はカンが良すぎるのだ。私が思っている事が、私以上にわかってしまう。


「今日は早めに帰って休んだ方がいいよ」

 学校帰りにそう言われれば、家に帰ってから体調を崩したり。

「ここの所、しっかり覚えてきてね」

 そう言われた所が、次の日テストでばっちり出たり。

「この日は映画じゃなくて橙羽の好きなカフェに行こう?」

 そう言われて行先を変更したときのデートは最高に楽しいし。

「これ絶対、橙羽は好きだと思う」

 なんて言いながら渡されて、二人で笑い転げたお土産のご当地キャラキーホルダーが、数か月後に爆発的な流行を起こしたことなんかもあった。


 実智くん自身は、どちらかというと真面目で物静かな人だけど、彼といる日々は退屈なんてする暇がないほど楽しかった。



 高1で出会い、2年の秋に告白されて付き合った。

 それから、ずっと楽しく、仲良く過ごしてきた。ずっと変わらず、このまま楽しい時間を過ごせるんだと思ってた。


 だけど、高校を卒業して。

 私は専門学校に、実智くんは大学に進学。それから時間がすれ違うようになってきて。

 私たちの間には、以前とは違う空気が漂うようになってきた。

 最初は小さな違和感。それがどんどん連なって行って。

 実智くんとの距離が離れてから季節を二巡もした頃。あの頃みたいに楽しい日々は、遠い思い出の中だけみたいに感じられるようになった。



「ごめん、橙羽。遅くなって」

 今月何回かわからない謝罪。申し訳なさそうに眉尻を下げる実智くんに、私の気分は浮かない。

 落胆が溜息となって零れ落ちる。

「遅くなるなら、連絡……」

「うん、本当にごめん」

 言いたい事も言えないままに遮られた言葉に、苛立ちが募った。

 私の態度だって、ひどいものだって分かってる。

 分かっているのに、悲しくて、苦しくて、やりきれないのだ。


「実智くん、優しくなくなった」

 ぼそりと拗ねた本音が零れ落ちる。

「前は何だって私の事わかってくれてたのに…」


 あんなに、あんなに、大事にされていて。私以上に、私の事を理解してくれていて。

 私はいつも、そんな風に彼が扱ってくれることを、勿体ないほど幸せだと思ってきた。


 胸の中で膨らんで、渦巻いて、見ないふりをして閉じ込めてきた不安。

 私は前みたいに、実智くんに大事にされてないんじゃないかって。

 だって、私が飲みたいものですら当ててみせるような、そんな以前の彼だったならば。

 私がこんな気持ちでいる事を知らないはずなんてなかった。


「もう、私のことなんか……」


 ギリギリと引き絞られる胸から、恨み言のような声が出る。

 距離が離れてしまったら、気持ちも離れてしまった。

 そんな未来なんて考えた事がなかったのに。

 ぐっと唇を噛んで堪えたのに、ふやけた眦の涙も、嗚咽の張り付いた喉も、止める事なんてできなかった。


「そんなことない」


 実智くんは、慌てて私の腕を引く。手首を掴む指が彼らしくない狼狽に震えて、軋むような力に鈍く痛んだ。

 その痛みは、なんだか希望のように思えて。私は彼の顔を懇願するように見つめて口を開いた。


「じゃあ、前みたいに、…私が、何を思ってるか当ててよ……はずした事なんて、なかったのに……」

 嗚咽混じりに不格好な言葉で縋る。


 実智くんは、もっと困ったようにくしゃりと顔を歪ませて、掴んだ指先の力を緩めた。

「……わかるよ、わかるけど、言葉にならないんだ」

 追い縋りたい指先が、私の腕を離れて行く。

 離れた体温が寂しくて、苦しくて、視界が滲んで真っ白になった。


「だから、ごめんとしか言えなくて」

 大好きな声が、どこか遠くで聞こえるのに、その声が聞こえなくなるのに怯えて耳を澄ます。

 お願いだから、終わりを告げないでと。痛い程に心臓が脈打つ音を聞いていた。


「もっと側にいられたなら、ちゃんと橙羽のことだって分かるし、こんな風に不安にさせなくて済むのに」

 でも、離れた指は戻って来て、痛んだ手首を優しく撫でてくれた。



 ああ、わかってくれるんだ。不安なことも、痛いことも。ちゃんとわかってくれる。

 そう感じて、ずっと抑え込んでいただけ、胸を揺るがした涙を止めることができなかった。

 大声を上げて泣きながら、私は実智くんの胸ぐらをつかんで顔を埋めた。


「橙羽が何考えてるかなんて、見てたらわかるよ」

 優しい掌が、頭を撫でて、肩を滑って、背中をぽんぽんと叩く。

「いつもいつも、橙羽のことをずっと見てきたし、知ろうとしてきたし、確かめてきたから、見てたらわかる」

 私が一番心地良い距離を、彼は知っている。

 久々に解けて緩んだ私の心だって見透かしたように、私の背を緩く包む腕。

 温かくて、優しくて、ぐずぐずとしゃくりあげる息が柔らかく溶けていく。

「でも、見えないと、知れないと、わからなくて不安にさせる。ごめん」

 その言葉は、私の中で荒れ狂っていた感情を溶かして、すうっと私の心に染み込んできた。

「側にいれば、考えなくても何だってわかるのにな」

 当たり前の事に、私はやっと気づいたのだ。



 彼はカンがいいからなんて。私がそう都合よく理解していただけで。

 実智くんは、誰よりも私を良く見て、良く考えて、良く知ってくれていた。

 五感の全てで、それ以上で。彼の感性の全てで私を先回りして察知してくれていたのだ。


「……ごめんね」

 当たり前の事なんかじゃない。それだけの愛情を貰っていたのに。

 察して貰えない事でその想いを勝手にはかろうとして。

 勝手に辛くなって。勝手に寂しくなって。

 そうするほどに、会う時間だって減って行った。見る事も、聞くことも、触れる事も、知ることも叶わないなら、わかりあう手立てだって減るのは当たり前じゃないか。

 私は、同じだけ彼を考えようと、知ろうと、理解しようとしてきただろうか?


 胸元に埋まったまま下手くそな言葉を呟いたのに、実智くんは側にいればすぐに私を理解してくれる。

「謝ることじゃないけど、もっと一緒にいたいな」

 慰める掌が、また私の髪の上を滑ってゆく。昔から変わらない、優しい、優しい手。

「そうすれば、橙羽のことがわからなくて不安にならないですむから」

 そう、そんなことですら。私はわかってあげられていなかった。


 顔を上げる。ぐしゃぐしゃに泣き濡れた目元を、実智くんは優しく拭ってくれる。

 当たり前のように。いつだって。

「ごめんね、不安にさせて」

 情けなくて顔が歪んでしまったのに、彼は嬉しそうに満面の笑みを返してくれた。

 今、一歩私たちの距離が近づいた事を知っているかのように。



「なぁ、橙羽」

 泣くだけ泣いて落ち着いたら、少しでも近くに居たくて。

 それがお見通しの彼の部屋で、手渡された甘いカフェオレを受け取りながら彼の声に視線を向ける。

 実智くんは、ちょっぴり悪戯な視線を私に向けて問いかけた。

「一緒の家で過ごせたら、お互い不安になることはなくなると思うんだ。もう何年か待っててくれる?」

 答えはどうせ、見ていたらわかるくせに。


 私は、精一杯平然としたふりをして、にやけて赤くなった頬を掌で隠して、せめてもの照れ隠しで答える。

「答えは、その時に返す」

 その時までには、私も彼みたいに。見てたらわかるって言えるほど、彼のプロフェッショナルを極めたい。

 五感でも、それ以上でも。私たちは結びついていたいんだ。

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