夢幻の猫缶

薪原カナユキ

第1話

 夢幻ゆめまぼろしの果ての果て。

 荒唐無稽の奇怪な魔窟の森を抜け、流れる川を渡った先。

 そこにあるのは穏やかな街並みで人々を迎える、小さくも美しい古都。


 そよぐ風を受けて、この古都にはそぐわない服装をした青年が、朧げな意識を浮上させる。


「――……んんっ?」


 寝ぼけ眼で空を見上げる彼の瞳は、鏡写しのように青く。

 後ろで一つに結われた長髪は、時を反転させたかの如く黒い


 服装は周囲の人々と比べ何と言うべきか。

 紺色の緩やかな衣装は、極東の民族衣装と類似している。


「ここ、どこだ……」


 回らない頭の中身は、どこか体に馴染まず浮遊感を持ったまま。

 酔っぱらった軌道をする記憶の整理は、不条理にも空とは真逆の赤い記憶を見つけてしまう。


「痛っ……!」


 全身に巡る激痛を超え、声が捻じ伏せられる筆舌に尽くしがたい感覚。

 腕が、脚が、胴も首も頭に至る一切を。


 意識が断絶するその時まで、餌として捕食される夢でありたいと願う記憶。

 途絶する記憶の最後には、爛々と輝く獣の瞳が映っていた。


「俺、死んだのか?」


 幻痛すら引き起こす赤い記憶と共に、脳に鳴り響く耳鳴りは、どこか笑っているように彼は思ってしまう。

 自分の意思で空に掲げた手の平さえ、自身の体である自信すら無くす青年は、まずは一つ一つ自己を確認していく。


「名前はジン。男で歳は、出身は、誕生日は――」


 安直に浮かんだ物を当て嵌めようとして、青年――ジンは言葉を失ってしまう。

 まともに思い出せるのは名前と性別ぐらいで、他は当てにならないほど曖昧だった。


「何をやってるんですか?」


 記憶さえも信じられなくなり、途方に暮れていたジンだったが。

 プニッと額に当てられた柔らかい感覚に、呆気を取られる。


 目線を頭上に向けると、そこに居たのは一匹の猫。

 真っ白な耳を持った茶白柄の猫で、可愛らしく首を傾げていた。


「俺は何をやって……るんだろうな?」

「それはうちが聞きたい事なんだけど」


 テシテシと続けざまに猫はジンの額を叩いていく。

 突然声をかけられたジンは痛々しい記憶も相まって、猫のなす行為をあるがまま受け止めるしかなかった。


 寝転がっているジンの周りをうろうろしたり、腹部の上に遠慮なく乗られたり、ただただジィーっと見つめ合ったり。


「目が覚めたら、ここにいた。俺はそれくらいしか分からない」

「成る程、記憶喪失ですか。それは大変ですね」


 どこからどう見ても、ただの猫。

 その筈なのに、ジンは眼前の彼?彼女?を見ていると、視界が波打ち世界が変わる。


 数瞬目にしたのは、頭から白毛の獣耳を生やした一人の人間。

 愛らしい猫らしさを残した茶髪のヒトは、ジンの上に跨りにこやかに笑っていた。


 縦に細められた琥珀の瞳孔に、何か・・を潜めて――


「他に何か覚えている事は? 名前とか、歳とか」

「ジンって名前だっているのは覚えてる。忍びって書いてジンな」

ジンさんですか。うちは"ひらゆい"と言います」


 ようやく猫――ひらゆいが体の上から飛び降りたので、ジンは釈然としない様子で体を起こす。

 ゆらゆらと尻尾を揺らすひらゆいは、名前を名乗りながらも前へ進む。


 ジンがひらゆいの進む先に目をやると、その方向は街中ではなく、おそらく外へと通じる道。


「ついて来てください。"魔法の森"と言われている外の森なら、何とかなるかもしれません」

「魔法の、森。……魔法、魔法か。まあ他に行く当ても無いし、行くか」


 振り返ってこっちですと声をかけてくるひらゆいは、ジンの目線からだと少女然としたヒトの姿で見えていた。


 両手を後ろで組み、振り向きざまに人懐っこく笑いかけてくる。

 そんな思わず笑みが零れる光景が、彼の足をひらゆいの下へと向けさせる。


「さあ、こっちですよ。ジンさん」

「待って待って、ひらゆいさん。俺を置いてかないで!」


 意気揚々とジンを外へ連れ出そうと、ひらゆいは迷いの無い歩みを見せる。

 その後をたどたどしい足取りで追いかけるジンは、おっかなびっくりと街を見渡しながら進んでいく。


 時折見えるひらゆいのヒトの姿に、こころのざわつきを覚えながら――

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夢幻の猫缶 薪原カナユキ @makihara

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