第14話
ティアが戻ってきたのは夜遅くになってからだった。
「どうしたんだい?ずいぶん遅かったけど」
窓から音もなく入ってきたティアに、椅子から立ち上がったネレウスが声をかける。弾みで椅子が後ろに倒れたが、ネレウスは振り向きもしなかった。
ティアは黙ってネレウスの前に歩み寄ると、剣を前に置いてひざまずく。
「……え?」
それは剣士が契約者に対して最も重要なことを告げる際に行う動作だった。突然のティアの行動にネレウスはその場で動きを止める。ティアはひざまずいたままゆっくりと口を開いた。
「私は重大な契約違反を犯しました。したがって、たった今をもってあなたと交わした契約は解除されることを申し上げます」
「どうしたんだい。契約の解除なんてずいぶん穏やかじゃないことを言うじゃないか」
ネレウスは顔に固い笑みを作って言う。それでもティアはネレウスの足元に視線を向けたまま、立ち上がろうとしなかった。
「はい、私はあなたの命令に背き、人を傷つけ、さらには死に至らしめました」
「……ちょっと待ってくれ、先に話を聞こう。契約の解除はそれからでもいいだろう」
顔を強張らせたネレウスだったが、すぐに表情を明らかに無理やりといった感じで柔らかくした。
話すことが何か言い訳のように捉えられることを心配したのか、ティアは口ごもる。だがネレウスに促され、ようやくティアは話し始めた。
かつて首都キールでバルドに襲われ、傷を負った後にネレウスに命を救われた話から始まったティアの話は長かった。しかし、ネレウスは口を挟むことなく黙って聞いている。ネレウスが口を開いたのは、最後にティアがバルドを絶命させたところまで話し終えてからだった。
「そうか、わかった。そのようなことがあったとは……」
ネレウスは大きく息を吐く。
「確かに君はバルドという黒翼人の命を奪った。しかし、それは君が危害を加えられそうになったからだ」
「いえ、あの場で私は逃げることもできました。だけど、あの時を思い出した私は、つい我を忘れて……」
ティアはうなだれる。
「そうか、それは確かに自分の身を守るため、ではないかもしれない」
ネレウスは剣を持ち上げる。まだ乾いていない血が剣から床に滴り落ちた。
「ただ、いずれにせよ、君との契約は終了になることには間違いない」
持ち上げた剣をネレウスはティアの前に置いた。
「はい……」
やはりと言うように頭を垂れるティアだったが、ネレウスは首を横に振る。
「違う。あくまでも終了だ。理由は第二条第一項の理由による」
「第二条第一項……」
顔を上げたティアにネレウスは言葉を続ける。
「第二条第一項、契約を結ぶ理由となった目的が完了した場合、もしくは完了しないことが明らかになった場合、その時点を持って契約は終了する」
ネレウスは机の上から契約書を取り上げ、内容を読み上げる。そして読み上げ終わると、契約書を暖炉の中に放り込んだ。契約書はたちまちのうちに燃え上がった。
「契約は終了……それはどういう意味ですか?」
「君も知っているだろう、最近出回り始めたアメジストを」
暖炉を背にしたまま、ネレウスは語る。
「ええ」
「そもそも、私がこのようなことを行ったのはこの国から金貨を減らし、景気を悪化させるつもりだった」
「……どうしてそのようなことを?」
もっとも、ティアに驚いた様子はなかった。問いかける口調もいつもと変わらなかった。
「簡単な理由さ。ただの恨みだよ。私の錬金術師としての未来を奪った国に対し、逆に国の未来を奪ってやろうと思っただけだ。そんなつまらない理由だ」
ネレウスは自嘲的に言った。
「だけど国は金貨の代わりにこのアメジストを使い始めた。残念ながらこれが使い始められたら私の目的は達成できない」
そこまで言ったところでネレウスは側の椅子に大きな音を立てて腰を下ろした。
「悪いことはできないものだな。錬金術師連盟評議員の私ならそんな大それたことができると思っていたが、それは思い上がりにしか過ぎなかった。国にはもっと頭のいい人がいるということだ」
ティアは黙ってネレウスの言葉を聞いている。
「目的とはこの国の未来を奪うこと、それが不可能となった。これが契約終了の根拠だ。お疲れ様。君との関係もこれで終わりだ」
ネレウスはのろのろと立ち上がった。
「私は明日にでもこの街を出る。とりあえず東に向かおうと思うが、君もこの街を出たほうがいい。契約が終了した以上、君がどこへ向かおうが自由だ」
「わかりました。私は自由なのですよね」
ティアも立ち上がる。
「ならば、私はネレウスさんの進む方へ行きます」
「……え?」
ネレウスは戸惑いの表情を見せる。
「私は自由なのですよね。ならば私がどこに行くのも自由なのですよね」
「それはそうだが……」
「ならば、私はネレウスさんの進む方へ行きます」
これまでに見たことのない決意が秘められたティアの視線にネレウスはたじろいだ。
「実は、契約を示されたとき、私はネレウスさんの隠した意図に気がついていました。単に政府倉庫の近くの高い場所に薬瓶を置く……そんな簡単なことを命を救った相手に頼むようなことはしないですよね、普通は」
「そうか、すべてわかっていたのか」
ネレウスは苦笑いを浮かべた。
「だけど、私の命を救ってくれた人ですから、気がつかないふりをして契約を受け入れました。せいぜい数回の義務を果たしたら終わりにしようと思っていました」
ティアは表情を変えずに話し続ける。
「しかし、いつの間にか私の心は変わっていました。ネレウスさんも白翼人の置かれた現状をご存知だと思います。常に蔑まれる存在でしかありません。しかし、ネレウスさんはいつも私のことを考えていてくれた。それは私が今までに経験したことのないものでした」
「私は空を飛べないからね。屋根に薬瓶を置いてくれる人がいないと困るんだ」
ネレウスはわざとらしくそっけなく言った。
「いえ、いいんです。私にはわかっていますから」
ティアは顔に微笑を浮かべた。そっぽを向いていたネレウスはやれやれと言うように肩をすくめた。
「だから私はネレウスさんのために契約に定められた役割を全力で遂行したつもりです。もしかしたら至らない部分があったかもしれませんが」
「いやいや、君はよくやってくれたよ。完璧だった。私の予想以上だった」
ネレウスは首を横に振る。ティアは、ありがとうございます、と頭を下げた。
「だが、私は罪を犯した人間だ。これからは国から逃げて生きていかなければならない。しかし、君は違う。ただ、私の命令に従っていただけだ。薬瓶を置いて回ったのも、黒翼人を剣を交えることになり、結果的に相手を死に至らしめたのも、すべての責任は私にある。君に何の罪もない。だから、君は普通の白翼人として生きていけるし、生きていくべきだ」
「普通、ですか?」
ティアは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「普通って何ですか?いつも他人の視線に怯え、身を隠すように生きることが普通ですか?時には何の理由もなく襲われ、そして命を落とすことが普通ですか?」
その言葉にネレウスはあわてて反論した。
「だけど、今の君は違う。かつて君を傷つけた黒翼人に対峙することができる強さを持った白翼人だ。怯えることも、隠れることも必要ない。堂々と生きることができるんだ」
「確かにそうかもしれません。しかし、私をそう変えてくれたのは、ネレウスさんです。ネレウスさんがいなければ今の私はありませんでした」
そこまで言ったところでティアは小さく息を吐く。
「それに、ネレウスさんだって、本気で国の未来を奪おうとなんておもっていなかったはずです。国の中枢部にいたネレウスさんなら、どのような人材が国にいたかまでお分かりになっているはず。ならば、ネレウスさんの起こした事件も遅からず解決されると予想していたでしょう」
「やれやれ、そこまでもわかっていたか」
ネレウスは苦笑いをするしかなかった。
「だから、私はネレウスさんの進む方へ行きます」
ティアがはっきりと言い切った後、しばらく二人の間には無言の時間が流れた。
「もし、君のその言葉が契約やその類によるものでなく」
その沈黙を破ったのはネレウスだった。
「君の自由な意思によるものであるのならば、私はそのことを嬉しく思う」
微笑をたたえながら言うネレウスの言葉にやや遅れて、ティアの顔にも笑みが浮かんだ。
翌朝、道の上に倒れている一人の黒翼人が早起きの職人によって発見される。その報はたちまちのうちに街中を駆け巡ったが、黒翼人の側に落ちていた勲章によって身分が明らかになると騒ぎはさらに大きくなった。だが、その騒ぎの中でひっそりと街を出た男女二人連れについては、誰も話題にはしなかった。
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