第13話

 翌日、北へ向かう乗合馬車に乗り込んだカルナを見送ったバルドは大きく翼ばたくと、街でもっとも高い屋根の上に立つ。冬ではあるが、穏やかな日の光に包まれ、眠気を誘うような空気に覆われている。

 見回したところで動くものは空を飛ぶ烏ぐらいのものである。煙突に降り立った烏は、バルドと目が合うと一声だけ鳴いて再び空に舞い上がった。

 バルドは大きなあくびをする。太陽はまだ高い。足元に見える政府倉庫の周囲で警戒する兵士もバルドのあくびが移ったかのようにおおきなあくびをした。あわててバルドはまじめくさった顔で剣の素振りをしてみたが、もとより誰も見ている人がいなければそれは数回で終わってしまった。

 結局、その日も何事もなく一日が終わろうとしていた。満月が天頂にかかるころには街を歩く人は誰もいなくなる。時折、餌を探す猫が月の光を瞳に映しながら通り過ぎるだけだった。

 不意にその猫を黒い影が覆う。驚いた猫は物陰に転げ込み、置かれていた木の樽を倒してしまう。その間に影は屋根の上にまで移動していた。

 「さてと……」

 影の主のバルドは数回、黒い翼を翼ばたかせると宙に飛び立つ。今日も何もないだろうと思いつつ、バルドはカルナに頼まれた深夜の巡回に出発した。

 まずは南の役場を中心とした官庁街の上を通り過ぎたあと、西の市場へと向かう。数時間前までは賑やかだった市場も今はすっかり静まり返っている。バルドは翼を休めることなく上空を通過した。

 「……ん?」

 バルドの視界の中に動くものが横切る。反射的に目を向けた先には一人の白翼人がゆっくりと翼を翼ばたかせていた。

 「なんだ、白翼人か」

 一瞬だけ警戒したバルドはふっと笑って力を抜く。

 その細い体から、白翼人が女性だということが遠目からでもバルドにはわかった。さらに豊かな長い髪は女性がまだ若いことを示している。腰の剣から女性が剣士であることまで理解できた。逆方向に去っていく白翼人を見送っていたバルドの心の中にふと過去の記憶がよみがえった。

 剣舞披露会に参加するために首都に滞在していたときのことだった。数日後の開催を控え、暇をも持て余していたバルドは深夜に空をあてもなく舞っていた。

 「そうだ、あの時……」

 やはり同じような白翼人の剣士が飛んでいたのを見つけたのだった。ふらふらと、頼りなく翼を動かしながら。そしてバルドにとってはほんの暇つぶしをしようと思ったのだった。バルドの頭の中に情景がよみがえる。

 あの時、すぐに追いついたバルドは追い抜きざま剣を抜いた。バルドを認めると白翼人はおびえた表情で逃げようとしたが、剣舞舞踏会での優勝が予想されていた腕前のバルドから逃れることができるわけがない。

 「よう、ちょっと遊んでくれない?」

 あざけるようなバルドの声に、白翼人は逃げられるすべがないことに気づいたのだろう、仕方なくというように剣を構えた。

 バルドが驚いたことに白翼人の構えは意外としっかりしていた。上からバルドが剣を振り下ろしても、すかさず剣を横に構えなおしてきれいに受け流した。

 しかし、次第に白翼人は劣勢に立たされるようになった。バルドが剣を横に払いざまにすかさず突くと、空中で体の平衡を崩し、そのまま地上へと落ちていった。

 「ちっ、意外とてこずったな」

 バルドはいまいましげに吐き捨てる。本来ならばこんなに手数をかけるような相手ではなかった。これでは数日後の剣舞披露会の成績も心配である。

 しかし、結局剣舞披露会では優勝できたのは、これをきっかけにして気合を入れなおしたからだとバルドは考えていた。そう考えると、あのように苦戦したのも悪い経験ではない。あの落ちていった白翼人がどうなったかは知らないが、バルドにとってはその経験程度であった。

 そして、今回も同じような暇つぶしのつもりだった。バルドは翼を大きく広げ、一気に方向転換すると速度を上げて白翼人の前に出る。腰から抜いた幅広の剣を見せ付ければたいていの相手はそれだけで恐怖を感じるはずだった。

 しかし、今日の白翼人はわずかに眉の片根を動かしただけだった。剣を向けるバルドを無視し、わざとにも見えるゆっくりとした翼ばたきで上空へと避ける。

 バルドの頭に血が昇った。周囲に翼音が響くほど激しく翼を翼ばたかせ、一気に白翼人との距離を詰める。そんなバルドに対し、白翼人はしつこいとでも言いたげな目つきで振り返る。白翼人の顔を改めて見たバルドは、はっと息をのんだ。

 「あ、あの時の!」

 今、バルドの目の前にいるのは、あの時地上に落ちていった白翼人だった。

 向こうも同じことに気がついたのであろう、驚きに目を見開いて翼の動きを止める。だが、今回はおびえた表情に変わることはなかった。すかさず剣を抜いてバルドに向き直る。

 「生きていたのかよ……」

 バルドのつぶやきに白翼人の反応はない。黙って剣を構えているだけである。バルドも同じように剣を構えて対峙した。

 向かい合った二人は微動だにしない。時折吹き付ける冬の冷たい風が白翼人の長い髪を揺らすだけである。じりじりとした時間が過ぎる。

 空を覆っていた雲が切れ、その隙間から月の光が零れ落ちる。それを待っていたようにはじめに動いたのはバルドだった。振りかぶった剣を勢いよく白翼人に振り下ろす。白翼人は落ち着いた剣さばきでそれを受け流した。

 (やはり……)

 間違いない。攻撃に耐えるのではなく、受け流すという戦法。なおかつ剣を受け流すと同時に、半身になって次の攻撃に備える技術を備えた剣士はめったに見ない。目の前にいるのはあの時の白翼人であることをバルドは確信していた。

 バルドは間隔を置かず剣先を白翼人に向け、翼に力を入れる。今度も白翼人はあわてない。突き出された剣を体をひねって避けつつ、片手に持った剣でそれを跳ね上げる。鈍い音が周囲に響いた。

 「くっ……」

 しびれる腕を押さえたバルドの口から声が漏れる。あの時は白翼人は恐怖を顔に張り付かせたまま地面に落ちて行った。しかし、今日の白翼人は鋭い視線をバルドにしっかりと向けている。

 再びバルドは剣を振りかぶり、さらに勢いをつけて白翼人に斬りかかる。バルドの耳元で剣が空気を切る音が聞こえる。この速さなら避けられまい。思わずバルドの口角が上がる。

 しかし、その速さも白翼人には通じなかった。あざやかとしか言いようのない剣さばきでバルドの剣を受け流す。無様に体の平衡を失ったのはバルドの方だった。

 (……違う)

 明らかに違う。あの時の白翼人ではない。なんとか体勢を立て直したバルドは荒い息をつきながら思った。あの時の白翼人の影はどこにもない。相変わらず無表情であるが、その裏にある強い自信がバルドには透けて見えた。

 次は白翼人が攻撃に移る番だった。細身の剣を水平に構えてバルドの懐に飛び込んでくると、剣の軽さを生かしてすばやく薙ぎ払う。まだ息の上がっているバルドはかわすだけで精一杯であった。

 黒い翼がぱっと宙に舞う。

 (次列風切翼が!)

 これまで自分の体に傷をつけられたことのなかったバルドに、今まで感じたことのない恐怖がはじめて襲った。

 だが、バルドに自分の翼の行方を確認している暇はない。間髪をいれず白翼人の剣がバルドを襲う。

 「うがっ!」

 バルドの口から情けない声が上がり、左肩に痛みが走る。振り向くと左の翼がありえない方向に曲がっていた。それだけでなく黒い翼がゆっくりと血の赤に染まりつつあるのが、明るくはない月の光の下でも見えた。

 痛みに耐え、バルドは右手で剣を持ち上げる。だが、それより早く白翼人の剣が顔に迫る。バルドは剣で弾いたが、それだけで次の攻撃に移れない。

 その勢いを借りて白翼人は右から斬りかかる。今度は避けきることができず、バルドのわき腹を剣の先が切り裂いた。押さえた右手の指の隙間から湧き水のように血が流れ出てくる。

 白翼人の剣は止まることを知らない。速さもさることながら、バルドの隙を見逃さずに的確に攻撃を繰り出す。いつの間にかバルドの体には細かな傷があちらこちらにできていた。

 一つ一つの傷は小さくても数が多くなればそれらは深刻な影響を及ぼす。もはやバルドは攻撃はおろか、防御すら満足にできなくなっていた。

 真上からの攻撃をバルドは体をひねって避ける。だが、いとも簡単に避けられたことに疑問を持った瞬間、肩に激痛が走った。

 今度は振り向く必要すらなかった。バルドの視野の隅に落ちていく右の翼が写る。黒翼人はそもそも翼を狙っていたのだと気づくと同時にバルドの体がぐらりと傾く。重力の法則にしたがってバルドの体は落下を始めた。

 (嘘だ……)

 落下速度を上げながらバルドは思う。こんなはずではない。俺は剣舞披露会で優勝した人物だ。それがこんな無残な敗北を喫するなんて。しかし、この思考が続いたのもバルドの体が石畳に叩きつけられるまでだった。

 全身に走る激痛。しかし、屋根より高い所から叩きつけられて即死とならなかったのは奇跡といってもよかった。もっとも、その奇跡が全身の骨が粉砕に近い折れ方をしているバルドにとって幸せだったかは、また別の問題であった。

 バルドは両手をついて体を起こそうとする。だが腕に力が入らず、再び体は石畳の上に崩れ落ちた。それでも自分に与えられた奇跡にすがるように、肘だけでずるずると体を引きずる。

 もちろん、その努力はなんの意味もないことぐらいバルドはわかっていた。しかし、痛みの中ではまともな思考が働くわけがない。改めて自分の行動の無意味さに気がついたのはバルドの前に白翼人が降り立ったときだった。

 (ありえない。こんなこと、ありえない……)

 赤く染まった視野の隅に白翼人の足が写る。だが、とどめを差すとばかり思っていた白翼人は動こうとしない。剣もだらりと下げられたままである。

 バルドは顔を上げた。白翼人は黙ったままバルドを見下ろしている。動かない白翼人に、いったんは命を助けてくれるのかと思ったバルドはその考えの浅はかさに気がつく。

 白翼人の表情からは何の感情も読み取れなかった。表情がないのではない。いくつもの感情が入り混じった極めて複雑な表情だった。その表情はは自分の命を助けるだとか、そのような一切の意思を排除していた。

 バルドの視野が暗くなる。支えていた腕から力が抜け、バルドの体は石畳の血溜まりの中に崩れ落ちた。

 残っている力でバルドは白翼人にすがりつくように腕を伸ばす。それでも白翼人の表情は変わらない。最後にそれを確認したようにバルドの腕は落ちる。そして、まだゆっくりと広がっている血を除いて動くものはなくなった。

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