第11話

 「はい、いらっしゃいませ」

 ネレウスはパン屋の扉を開けた客に明るく声をかける。入ってきたのはまだ幼い少女だったが、それでも向ける笑顔は他の客に向けるものと変わらない。

 「……これください」

 緊張した表情で少女は並ぶパンの一つを指差す。

 「どうもありがとう。お使い?偉いね」

 しかし、少女はネレウスのかけた声には反応せず、小銭と引き換えにパンを受け取ると外で待つ母親の元へと走っていった。飛びつくように抱きついた少女を受け止めた母親は、店の中のネレウスに小さく頭を下げた。

 「おつかれさま。今日も客が多くて大変だったろう」

 奥から主人が顔をのぞかせる。

 「いえいえ、忙しいくらいの方がいいですよ」

 ネレウスは顔を店の中に向けたまま言った。その横に主人が並ぶ。

 「それにしても、錬金術師の見習いだとは聞いていたけど、パンを焼く腕もなかなかのものじゃないか。どうだい、うちの娘と結婚して……」

 そう言って首を後ろに向けた主人は店の中に目をやった。視線の先にはパン屋の娘が生地と格闘している。一瞬だけその手が乱れたのがネレウスにもわかった。

 「……ここを継ぐっていうのも」

 ネレウスの頭にふっとティアの顔が浮かぶ。

 「たいへん結構なお話ではありますけど」

 ネレウスは小さく頭を振ってから口を開いた。

 「そうだよな。やっぱりパン屋などより錬金術師になりたいよな……」

 ふと、ネレウスはティアの言葉を思い出していた。

 (……もしかしたら、ネレウスさんは錬金術師になるよりパン職人になっていた方がよかったかもしれないですね……)

 もしかしたら、そうなのかもしれない。ネレウスの心の中にゆっくりとティアの言葉が広がった。

 「錬金術師もいいかもしれませんけど、こうしてパンを買いに来た人が笑顔で帰っていくのを見るのも気持ちがいいものですよ」

 「そんなことないだろうよ。国家お抱えの錬金術師連盟の評議員にまでなれば生活の心配はしなくてすむじゃないか」

 「あれはあれで結構大変なんですよ。会議やら式典やらで」

 「ほう、評議員についてずいぶん詳しいじゃないか」

 主人がネレウスの顔を覗き込む。

 「あ、私の友人……の父が評議員をやっておりまして、その関係で……」

 「なるほど、そりゃ詳しいわけだ」

 それ以上主人は聞いてくることはしなかった。ちょうど次の客が入ってきたため、二人の会話はそれで立ち消えるような形となった。

 「お待たせしました。はい、次のお客様どうぞ」

 「これはもう売り切れなの?」

 「売り切れになっているものはすぐに焼きあがりますので、少々お待ちください」

 いつの間にか少し前の静かな店内が嘘であるかのように店内は客であふれていた。ネレウスがその客をさばいているうちに、主人との会話のことは頭の中から消え去っていた。

 いつもより多い客が来たため、ネレウスが仕事を終えたのは夜もだいぶ遅くなってからだった。誰もいない安宿の部屋の中はすっかり冷え切っていたが、ネレウスは暖炉に火を起こすこともせず、逆に窓を大きく開け放つ。部屋の中でも着込んだ外套の襟をかき合わせ、暗い夜空を見上げた。

 「そろそろかな……」

 ネレウスの独り言を合図にしたかのように翼が空気を切る音が聞こえる。ややあってティアが空から姿を現した。

 「ただいま戻りました」

 「おかえり、ティア」

 ネレウスはいつものようにティアを迎える。だが、どこか浮かないティアの顔もいつもと同様だった。

 「やはり警戒が厳しいようです。保管庫の近くはどこも兵士ばかりで」

 ティアがうなだれるように首を横に振る。

 「そうか、仕方ないな。まあ、こうしていつまでも警戒を続けているのも難しいだろう。いつか警戒が緩む時が来るはずだ」

 「ええ、そのときを逃さないよう注意します」

 「それはありがたいが、決して無理はしないでくれ。何度も言うけど、君が傷つけられるようなことはあって欲しくないからな」

 ありがとうございます、と言いながらティアが立つ。

 「そのことでネレウス様が悲しむのなら、私もじゅうぶんに注意しましょう」

 夜空に浮かぶ月を背にしたティアの姿が冴え冴えと浮かび上がる。ネレウスに向かって一礼したティアは扉に向かって歩いていったが、途中で何かを思い出したように振り向いた。

 「それと、今日からこのようなものが流通されると共和国の通達が出されたとのことですが」

 ティアの手には小さな小石がある。

 「それは何だね?」

 「アメジストの宝石です」

 ネレウスはティアの手よりアメジストを受け取った。

 「後日、後日郡庁舎に持って行けば金貨に換えてくれるらしいのですが……」

 「ふうむ」

 しげしげと手の中にあるアメジストをネレウスは眺める。

 「金貨代わりに使えるということで、今日の給金として頂いてきたのですけども、何か騙されているような……」

 「いや、騙されていることはないだろう。クルシュナイル王国でこのようなものを金貨代わりに使っているのを見たことがある。だからその心配はしなくていいと思う」

 「そうですか、ありがとうございます」

 改めて一礼するとティアは部屋を出る。だが、ネレウスの方は暖炉に火を入れることも忘れたまま、じっとアメジストを手にして考え込んでいた。

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